224.幼馴染の女の子
私はなぜそんな顔をするのかと疑問を込めてアベルを見つめた。
変な事を言ったつもりはない。視線を落とした彼はゆっくりと口を開き、けれど何も言わずに閉じる。壁に背を預け、いつものように私を見やった。
「生きて帰れたのはお前自身の力が大きい。…よく頑張った。」
少しだけ微笑んで言われて、胸がじわりと暖まる。
頑張った。…そう、私、頑張れたわ。それもね、きっとほとんど貴方のお陰なのよ。
体に魔力を流すやり方を知らなければ、素の身体能力ではとても敵わなかった。貴方の魔法に守られなければ、動く事すらできなかった。
話を聞いてくれないとガイスト様達はいなかったし、そもそも私はあの場に行けなかったかもしれない。
「……本当にありがとう、アベル。」
胸がいっぱいで、なんだか泣きそうになってしまって。困らせたらいけないと思ったら、私にはそれしか返せなかった。
アベルが困ったように笑う。
「どうしてまた俺に礼を言うんだ。そんな必要はない」
「ふふ、…私には、必要なの。」
「なんだそれは…」
「そのままの意味だわ。」
空は暗いけれど何時になったのだろう。
冷えきった一杯だけの紅茶は、魔法を使ってもらえば温められるはずだけど、労力をかけてしまうなら出さない方がいいかしら。
アメジストのネックレスを私に返しながら、アベルは真面目な顔で言う。
「今回はお前が起きたからよかったが、可能なら原因が知りたい。」
「そうね……もし誰かに見られていたら、大騒ぎになったでしょうし。」
「下手をすると問答無用で婚姻を結ばれかねない。俺達がだ。…そんなのは最悪の結果だろう。婚約ならまだ、解消ないしは破棄に持っていける可能性があるとしても…」
苦く顔を顰めた彼を見て、そうね、とだけ返した。
場所がここなら発見はメリルでしょうけれど、もし違う場所だったらとんでもない騒ぎになる。
上手く情報を操れなければ、私達二人どころか王家とアーチャー公爵家の醜聞になってしまうだろう。
「そういえば、さっきはどれくらい先に起きていたんだ。」
「数分くらいかしら。」
ちょっと頭がぼんやりしていたし、時計も見ていないから曖昧だけれど。
私の答えに、アベルは唖然として「は?」と声を漏らした。
「…長い。何で叩き起こさなかった?お前なら力尽くでどけられただろう。」
「他の人なら咄嗟にそうしたかもしれないけれど、貴方だもの。」
「何を言ってる、ウィル以外は全員殴り倒せ。暗殺にしろそうでないにしろ、お前には危害でしかない。」
「危害も何も、貴方は寝ていたじゃない。」
「……それはそうだが…」
まるで理解しがたい生物に会ったかのような、深いため息を吐かれてしまった。ため息をつくと幸せが逃げるとも言うし、是非息を吸っておいてほしい。
私はとりあえず、抱えていたクッションをアベルの背中と壁の間にぎゅっと押し込んだ。これはそのために用意していたのだ。ちなみに、両面に施された刺繍は私がやったものである。
されるがままにクッションを挟まれながら、アベルは憂いの表情で遠くの空を見つめた。
「どうしたの?」
「ここへ来ている事自体、誰にも内緒だ。」
「そうね。」
「という事は、お前には謝れても、ウィルには釈明も謝罪もできない。」
「そうね?」
言っている事はわかるけれど、ウィルの名前が出てくる理由がわからない。私は首を傾げた。
「その必要はあるの?」
「他ならぬお前が相手だ。たとえ事故でも、した事も黙っている事も、ウィルに対する背信行為だろう。」
「言い過ぎでは…」
「お前の認識の甘さは何なんだ?」
むしろ、貴方のその幼馴染という関係に対する重さは何なのかしら。
それともウィルの存在が大き過ぎる?
「ねぇ、アベル。」
「何だ。」
「貴方には幼馴染の女の子がいないの?」
いきなり何を言っているんだ。
…と言いたげな視線を、黙って受け止めてみる。だってほら、幼馴染がいないから認識に差があるのかもしれないわ。
ウィルが我が家へ遊びに来たのはお父様が招いたわけだし、つい何も考えず「女の子」なんて条件を口に出してしまったけれど…よく考えたら、そんな子がいるはずは
「いる。それが何だ。」
――……?
「い、るの…?」
「そう言った。お前とウィルのような仲ではないが、幼い頃から知っている令嬢ならいる。」
息が止まりそうなくらいびっくりしてしまって、私がものすごく目を見開いた事とか、一瞬固まった事などは気付かれただろう。
そんな私をアベルは訝しげに見ているし、私自身もどうしてこんなに驚いているのだか…そうか、ゲームでは出なかった話だものね。前世の知識だけで知った気になってはいけないって、あまりにも当たり前の事なのに、わかっていたはずなのに。
「私とウィルみたいな、仲ではない……?」
どうしましょう、少し待ってほしい。
心が落ち着かなくて、言われた事をただ繰り返すだけになっているわ。
「当たり前だ。」
そもそも私とウィルみたいな幼馴染って、どういう意味で言っているのかしら。
泳ぐ目をひとまず額縁に敷いた絨毯に固定して、寒いわけではないのだけれど、少し袖を手にかぶせて胸元で握る。目の前にアベルがいて、彼がくれたネックレスを持っていて、どうして心細く思うのか。
…あぁ、わけもなく隠れてしまいたい。
「私達は…七歳で知り合ったけれど、そちらは?」
「それより早い。」
「な、名前で呼び合うの?一緒に遊んだ事もあったり。」
「そうだな。」
「…その方の自室に行ったり…」
「行く事もある。…たまに本人が寝ていて、侍女ではなく俺が起こす。滑稽な事に。」
内容に驚いてつい視線を上げた。
ふ、と力を抜いて笑うアベルの表情は優しい。ずきりと胸が痛むのはきっと、私が思い上がっていたからだ。女の子の中では一番の友達なのではないかしらって、私は…。
「余計な話をした。忘れていい」
「…大丈夫、誰かに言ったりしないわ。」
私は懐かしい、フェリシア・ラファティ侯爵令嬢のことを思い出していた。
唯一、アベルの古馴染みだとわかっている女の子。私達よりも一つ年上。でも彼女はゲームの中で…
『わたくし…そうね、《仕事》でお話をする事はございます。殿下とわたくしは恋仲でも友人でもありません。』
そう言っていたから、少し違うのかしら。
わからない、誰なのと聞いて答えてくれる気がしない。私が聞いていい事じゃない気もする。
「とにかく…自分の身は大事にしろ。ウィルにはお前の代わりなどいないんだから。」
「……えぇ。私にだってウィルの代わりはいないわ。大事なひとだもの」
当たり前の事を言われて当たり前に返しながら、誰ともわからない女の子の気持ちを考えた。その方はアベルをどう思っているのだろう。
寝ているところを起こすのだから……夜か朝か知らないけれど、寝室へ入る事を、お互いに許すくらい、なのだ。
アベルは決してこの部屋に入ろうとはしない。今回は事故が起きただけだもの。
でもその方の屋敷では侍女も知っているようだし…きっと、二人は親密な関係だと思われている。
「…どうした。」
問いかけられてはっとした。
アベルは少し眉を顰めて私を見つめている。声色と目つきからして、怒っているのではなく心配してくれているらしい。私ったらどんな顔でぼーっとしていたのかしら。慌てて笑みを作った。
「大丈夫よ、なんでもないの。」
「…今日は遅くなって悪かった。来ない方がいいかとも思ったが、万一お前が待っていたらと考えて様子を見に来た。……俺が来ないとは考えなかったのか?」
「考えたわ。寝ようと思ったの、本当よ。城で何かあったのでしょう。」
「あぁ。本当なら今夜、バサム山の件をお前から直接聞きたかったが…」
ポケットから懐中時計を出して、アベルはちらと時間を確認する。
ここへ来るのも遅かったし、予想外の事故で余計に話が長くなってしまったものね。様子を見に来たという事は、私が大人しく布団に入って寝ていたら、彼はそのまま帰るつもりだったのだろう。
「数日もあれば状況が確定するはずだ。一週間内にはまた来られると思うが、いつになるか…」
私にどう報せたものかと悩むアベルに、つい「いつでも」と呟いた。
その頃には、庭の花はどれくらい咲いているかしら。
こちらを見下ろした金の瞳と目が合って、淡く微笑んだ。
「約束がなくても、いつだっていいわ。貴方に会えるのなら」
アベルは僅かに見開いた目をそらして、困ったように眉根を寄せる。
しまった、忙しい事はわかっているのに、もっと来てほしいと言っているように聞こえてしまったかしら。無理をしてほしいわけではないのだけれど。
「…自分が何を言ったか、わかってるのか?」
「ご、ごめんなさい。もちろん無理をしてまで来てほしいというわけでは…」
「違う。魔法の話をするから内密に来ているが、そもそもここはお前の寝室で、今は夜中だ。」
「そうね…?」
だいぶ今更な事だ。
こてりと首を傾げると、アベルは責めるように目を細めて私を見た。
「――お前、男を相手にいつ来ても良いと言う意味がわかってるのか。」
「えっ。」
低まった声でそんな事を言われたら、言わんとする事は察してしまう。
「未成年とはいえ、もうじき十三だろう。」
「そ、そうだけど…」
顔に熱が集まるし、そんな話題に移ると思わなくて咄嗟に目をそらした。……でも、でも!貴方、布団越しとはいえあんなにすやすやと眠っておいて、説得力が全然…
「ウィルならまだしも、他の奴には絶対に言うな。誤解しか生まれない。」
「…こんな事、貴方にしか言わないわ。」
どうしてか少しむっとしてそう言い返した瞬間――私は今、意図せずにとんでもない事を口走ったのでは――と思ったものの、第二王子殿下の声はひとかけらも動揺がなく、落ち着いたものだった。
「俺を信用してくれているのはわかったが、もっと警戒心を持った方がいい。」
「大丈夫よ。今日だって、貴方じゃなければ放り投げていたし。」
「…俺でも投げろ。」
「心配ないわ。だって貴方、私にそんな気これっぽっちもないでしょう。」
「………。」
彼が黙ったから、言い過ぎたと察した。
おそるおそる見上げると、じとりとこちらを睨む不服そうな目。表向きは大人しく「わかったわ」と言うべきだったのかもしれない。
「…脅した方が言う事を聞くなら、そうしても構わないが。」
「っ、できないわ。貴方は優しいもの。」
一体どうやって脅す気なのかは考えたらいけない気がした。
そうしてもいいなんて言うけれど、私を心配して何度も注意してくれる貴方にできるはずがない。
「第一、脅しとわかった時点で意味がないでしょう。それに、あの……そう。いつでもというのは、あくまで来週だけのつもりで言ったのよ。忙しいみたいだから、気を遣わなくてもそちらの予定でいいというだけ。……ね?」
明らかに後付けだけれど、そう言っているのだからそういう事にしてほしい。
どうかそれでおさめて頂けないでしょうかと、私は懇願の視線を送った。眉を顰めていたアベルが呆れたように小さく息を吐く。なんとかなったらしい。
「お前の危機感の無さは、ウィルにも気を付けるよう言っておく。」
「……わかったわ。」
困惑に眉を下がったことを自覚しつつ、どうしてと聞き返すのは止めておいた。アベルにとってはそれが当然の事なのだろう。
彼の幼馴染も、同じように叱られているのかしら。
「ではまた来る。可能なら事前に知らせる。」
「えぇ…お城まで気を付けて。戻ったらゆっくり寝てね。」
「あぁ。」
アベルは腰を上げて額縁のぎりぎりに立ち上がる。私もベッドの上で膝立ちになって彼を見上げた。
「おやすみなさい、アベル。」
「…おやすみ。シャロン」
彼の足が離れた瞬間、その姿は見えなくなった。
私は少しだけそのまま星空を見つめてから、窓とカーテンを閉める。無くさないようサイドテーブルに置いたネックレスは、いつもと変わらぬ輝きを放っていた。




