221.その微笑みは誰想い
「お母様……今、なんとおっしゃいましたか?」
ここが少女漫画の世界だったなら。
「ぽかん」という文字が、私の顔の横に出ていたのではないかしら。
しかしここは乙女ゲームの世界なので、私は半開きの口からどうにか言葉を絞り出し、大人しく閉じた。お母様は私が聞き逃す事のないよう、ゆっくりと言い直してくれる。
「王妃教育も、予定より随分進んだわね、って。」
どうやら聞き間違いではなかったみたい。
ぱちぱちと瞬いて、私は喉が渇いたわけでもないのに紅茶のカップを傾けた。お母様は何事も無かったかのように話を続ける。
「未確定の上にまだ入学前でしょう?本来要求されていたレベルはもっと低かったの。」
「えぇと……私は、王妃教育を受けていたのですか。」
「そうよ~。あの人がね、伝えて貴女がその気になってしまったら、結婚が早まるかもしれない!…って言うものだから、とりあえず内緒にしてみたの。いつ気付くかしらって。」
「気付きませんでした……あの、どれが王妃教育だったのでしょう?」
お母様が合図すると、侍女がサッと書類をテーブルへ広げた。
私の学習課程が書かれた長い紙を、お母様の綺麗な指がトントンと指していく。
最初はトン、トン、だったのが、最終的にトトトト、とほぼ間隔がない。たくさんだ。なんということ。王妃教育を受けてるでしょ、なんてチェスターに言われた事があったけれど、合っていたのね。
「我が家が公爵家だから少し多いのかしら、と考えておりました。」
特に語学や他国の風習については、女神祭最終日の夜会に参加要請があったように、アーチャー公爵家の娘としても必要な知識だったと思う。
お母様は片頬に手のひらをあて、やんわりと微笑んだ。
「ふふ。殿下のどちらかと婚約していたら、さすがにきちんと伝えなければいけなかったでしょうね。」
ウィル達と婚約する人は、どうあっても王妃教育を受けなければならない。
たとえ婚約していない方が王になっても、もし早くに亡くなってしまったらその息子か、あるいは残った方が兄弟の後を継いで王になり、婚約者は王妃となるのだから。
「畏れ多くも婚約者候補ではあると思っておりましたが、既にそういった授業も始まっていたとは……驚きました。」
「無駄になる知識ではないもの。王妃になるならない関係なく、貴女が努力しただけ、貴女は素敵な女性になるわ~。」
なるほど、だから王妃教育だと言わなくてもよい、と。
そして私がうっかり気付かなかったものだから、いい加減教えてくれたという事ね。
「そうしてきちんと修めたら、今度は貴女が教育係にもなれるじゃない?将来何をするにも、選べる選択肢が増えるのは良いことだわ。」
「…おっしゃる通りです。」
私はハッとして少し目を見開いた。
年老いた時、その時代の王妃候補の方に教えるだけではなく。
たとえば――たとえば、そう!
カレンのような、王妃教育を受けていない子が唐突に王妃になる場合にも!教育係になれる可能性が!?
「お母様……私これからも頑張りますわ。」
「うふふ、応援しているわよ~シャロンちゃん。」
「はい!」
この胸にしっかりと情熱の火を灯して、私は頷いた。
平民では王家に嫁げないから、その時には貴族へ養子に入ってからとなる。流石に我が家へ養子なんて無理だけれど、教育係としてならもしかしたら、力になれるかもしれない。
可能性があるなら備えなくては。だって、そう。
カレンがウィルやアベルと一緒になるなら、お友達である私が教育係に選ばれる確率は高いのではないかしら。
それに、ジェニーはウィルの隣を目指している。
もし王妃教育の授業で悩む事があれば、一足先に始めていた私が相談に乗れる事もあるかもしれな……あら?そういえば語学がその一環だったなら、ソレイユの言葉の発音が難しくて、と言っていた話がちょうどそれなのでは。
「学園で何かあればいつでも手紙を頂戴ね。困った事でも、嬉しい事でも、何でもよ。」
「ありがとうございます、お母様。」
「うふふ。良い人ができたらそれもね~。」
なんておっしゃるけれど、お母様ご自身は学園ではどなたにも靡かなかった。
「そうですね、いずれは…。」
私は卒業までに国内のどなたかと婚約しておく……何なら卒業と同時に結婚してしまう事が、私自身のバッドエンド回避に繋がる。
少なくともゲームの《学園編》である一年目は、そんな事情は後回しだけれど。
今日は二月の終わり。
夜中にはまたアベルが来てくれる予定だ。
ほんの三日前に会ったばかりの彼の姿を思い浮かべて、私はなんとなしに窓を見る。雲一つない青空が広がっていた。
この部屋からでは窓辺に寄っても見えないだろうけれど、庭に埋めたあの種はよく育って、小さな蕾が数えきれないほどできている。一つ二つずつだけ、一センチもない小さな小さな花が咲いた。
きっとあと少しで見ごろだと思う。
入学までの間にもう一度くらい、アベルは来てくれるかしら…
「……ふふ。」
楽しそうな声がして、はっと視線を戻す。
お母様が春の日差しのような温かい目で私を見ていた。いけない、ぼうっとしてしまったわ。
「すみません、お母様。私…」
「いいのよ。でもよかったら一つだけ答えてちょうだい。」
「何でしょう?」
「今、どなたの事を考えていたのかしら?」
「……?アベル殿下が――」
と、言いかけて唇をキュッと閉じた。
今夜私の部屋にお忍びで来てくださるので、なんて言えるわけがないわ!?そこはカットしなくては!しかもよく考えたら、寸前のお母様との会話が「良い人ができたら云々」だもの。アベルの名前を出したら、私が彼とそうなる事を望んでいる、と勘違いされかねない!
『だから、君とそういう…親密な関係だと思われたら、困るでしょ。』
前回来てくれた時、私はアベルにそう言われている。
つまり、幼馴染くらい仲良しと思われる事すら困る、と言われているのだ。
先日はお父様が何やら勘違いなさって、アベルに迷惑をかけてしまったようだし。お母様に誤解されないようにしなくては!
「――…くださったお花が、もうじき見ごろだなと思ったのですわ。」
「まぁ、素敵。」
「はい!どなたの事と言いますか、お花の事です。」
「うふふ。そうなのね~。」
「そうなのです!ずっと咲くのを楽しみにしていたので、嬉しくて。」
「あらあら…」
よし、アベル自身の事ではないと念押ししてお伝えできたわ。
これでお母様も正しく認識してくださったはず。
「でもちょっぴり気を付けるのよ、シャロンちゃん。」
麗しい微笑みを浮かべたまま、お母様はまるで真理を告げるような、少しだけ低い声で言う。
気を付ける事。
何かしら……私はほんわかしていた気持ちを引き締め、姿勢を正した。お母様は私を真っ直ぐに見つめ、再び唇を開く。
「あの花を女性に、それも種で贈って育てさせる……殿下ったら、アピールの仕方が意外と」
「お母様」
真剣にストップをかけた。
やはり私の話は誤解を生みやすいのかもしれない。どこを間違えているのかしら。
あれは下町へ行った時、私が何の花かも確かめずに取った袋を、アベルが代わりに支払ってくれただけだ。きちんと報告したはずなのに。
お父様やお母様と話す時、ちょっぴり気が抜けて説明が下手になっているとか?
だって同じ貴族令嬢とのお茶会なんかでは、こんな誤解生まれないもの……生まれてない、わよね?なんだか少し不安になってきたところで、ふと窓の外を見た侍女の一人が目を見開いた。
「奥様。王城から煙が……」
「え?」
思わず呟いてしまったのは私。
お母様は立ち上がり、黙したまま窓辺へ寄る。私も静かに席を立った。
炎は見えない。大火事ではないらしい。
けれど空に細く立ち昇る黒煙が見えているのだから、ボヤという言葉では済まないだろう。すぐに対処されたのか、魔法で掻き消されたのか。煙はあっという間に薄れて見えなくなった。
お母様に視線で合図された侍女が一礼して退室する。
「…何かあったのでしょうか。」
「どうかしらねぇ。案外、やんちゃな騎士の喧嘩かもしれないわね~。」
やんわりと笑って、お母様は席へ戻った。
同じように椅子へ座りながら、私は胸元で手を軽く握る。心臓がどきどき鳴っていた。
本編の前だから、きっと関係ないはず。
無事に決まってる、のに。
その夜、私は約束通りアベルを待ったけれど……いつもの時間になっても、彼は来なかった。
「……やっぱり、あの時の煙は何かあったんだわ。」
もう二時間は待っている。
メリルが灯した火が消える前に小さな燭台へ移して、私はベッドの上から空を見た。
窓は閉じて、カーテンは開けて、ふわふわの絨毯とクッションを置いた額縁に肘をつく。暖かい服は着ているけれど、部屋が冷えてきたから今は布団を分厚いマントのように肩にかけていた。
サイドテーブルにある冷えた紅茶を温める術は、私にはない。
お腹がひんやりしてしまうだろうけれど、寝る前に一杯、朝起きてもう一杯、飲もうかしらなんて考える。
たくさんの星が輝く夜空は、もう何度も見てきたはずなのに。
どうしてか今日は一段と空の色が暗いように思えて、ちかちかと瞬く星々すら不安を煽るようで、これではいけないと首を横に振った。
大丈夫、と言い聞かせて目を落とす。
手の中でかさりと擦れたのは、一度だけアベルから貰った手紙だ。たった一枚きりの短い手紙。その後半に書かれた文をそっと指でなぞる。
《もし行けなかった場合は急用が入ったと思ってほしい。》
そう、きっとそれだけの事なのだ。
アベルの身によくない事が起きたとは限らない。忙しいだけかも…アベルではなくとも、ウィルに何かあって、それで離れられないとか?陛下や王妃殿下はご無事だろうか、サディアスだって普段お城にいるはずだし、近衛のタリス様達も……いえいえ、煙はすぐ消えていたもの。
「だ、大丈夫。大丈夫よ」
私がここで考えていても仕方ない。
切り替えようと、私は折り目通りに手紙を畳んだ。布団から抜け出して机にしまって、もう寝ましょうと決める。ベッドに上がる前に、冷めてしまった紅茶を喉へ流した。
元通り窓の前に戻って、一拍。
首の後ろへ手を回した私は、アベルに貰ったアメジストのネックレスを外した。もう彼の魔力は残っていないだろうそれを軽く握って、星空へ祈りを捧げる。
――月の女神様、太陽の女神様。殿下達のご先祖にあたる、歴代王家の皆様……
心の中で唱えながら、ふと、つい最近同じように懸命に祈ったような気がしてきた。
そんな事あったかしら。
――今日は城で騒ぎがあったのでしょうか。どうか今を生きる星々が、彼らを守る人々が、無事でありますよう、
「にっ!?」
ガクン、と落ちて目を見開いた。
それは唐突にベッドが消失したような感覚で、
座り込んだ私の前に、草原と青空が広がっている。
「「――…え?」」
男性の声と重なった。
数メートル先に立ち尽くす彼を見て、私は硬直する。
「誰だ、君は。」
フードの中に見える金髪は今よりも長くて、後ろが肩についていた。眉間に皺を寄せ、鋭くこちらを睨む碧眼には困惑が滲んでいる。腰にある剣の柄に手をかけたその青年は、裾のほつれたローブの下に簡素な騎士服を着ていた。見覚えのないデザインだ。
その格好は、年齢は、色は、どういう事なのか。
「…お父、様……?」
呆然として零す私を見つめ、その人はますます訝しげに眉を顰めた。




