219.心臓が凍る時
「ぴぎゃぁあああッ!!」
角を曲がった途端に悲鳴を上げ、倒れかけた少女を従者が支えた。廊下を歩いていた第二王子は立ち止まり、動じた様子もなく二人を見やる。
「ぁああアベル!そ、そなたもっとゆっくり出てこぬか!見目の恐ろしさを自覚せい、たわけめっ!!」
「……、善処するよ。」
彼は少し癖のある黒髪で、切れ長の目は意志の強い金の瞳を抱いていた。まだ十二歳とは思えない威風堂々とした立ち姿で、腰の帯剣ベルトには真新しい剣が納まっている。
そんなアベルの服を見て、少女ははたと瞬いた。
黒地に金色を取り入れた衣服は見るからに最高級の代物で、刺繍からボタンの細工まで精密な図柄が刻まれている。伝統色である淡い青色のマントは、左側だけ肩の後ろへ流してあった。
「何じゃ、今日は催しがあるのか?見るからに正装じゃのう。」
十六歳の少女――君影国の姫、エリはそう言って首をこてりと傾ける。
頬まである内巻きの黒髪は後ろが長く、低い位置でツインテールにしていた。身長は百四十五センチと小柄で、百九十センチ近い従者のヴェンが隣に並ぶと余計に彼女の小ささが際立って見える。
ヴェンは短い黒髪に手ぬぐいを巻きつけて頭の左側で縛り、瞳は血のように赤い。護衛を兼ねる姫の従者を務めるだけあって、屈強な身体つきをしていた。
「肖像画を描かせるんだよ。僕一人じゃないけど」
「おぉ、絵師を呼んだのか!完成したらわらわにも見せるがよい。何せまだ、おぬしの顔を知らんからな。」
最後の言葉は袖に隠してぼそりと言い、エリは蜂蜜色の猫目でアベルを見上げた。
そこには相変わらず、彼に憑いた異形がいる。だいぶ見慣れてはきたものの、直視するとやはり手が震えた。
「…そうだったね。」
「いつできるのじゃ、夜には終わるか?じっとしているのが大変なら、描かせる間の話し相手になってやってもよいぞ。」
「気持ちだけ貰っておくよ。さっき画家には見せてきたから、後は作業待ちなんだ。来月中には納品されるだろう。」
「来月か……わらわ達は発っておるかもしれぬな。まぁよい」
いずれ再び寄る事があればそこで見せてもらおうと、エリは瞬き一つで切り替える。
アベル本人に会えなくなっていようとも、絵が焼け落ちていようとも、国が無くなっていようとも、再訪の機などもう無かったとしても。その時はその時だ。
「そうじゃ、ヴェン。あれを。」
「はっ。こちらに」
ヴェンは丸めた紙を取り出すと、アベルに向けて開いてみせた。エリが自慢げにフフンと口角を上げる。
「今朝方、騎士の者が持ってきてくれたのじゃ。詰所とやらに掲示する貼り紙よ」
エリの長兄を探すための物だ。
八年前に国を出た彼を見つけ出すために、エリ達はこのツイーディア王国へやって来た。
《尋ね人》
名前:アロイス (男性・二十九歳)
出身:谷間
魔力:あり (最適:不明)
特徴:黒髪、瞳に特徴あり
依頼主:ヒメユリ・カバルストル
報酬:金の簪
備考:紅玉と共に待つ、連絡されたし
「……色々と気になる所はあるけど、通じるんだよね。」
「兄様にはな。本人にしかわからぬよう書けと言ったのはおぬしじゃろう。」
「まぁ、そうだけど。」
谷間など山間部にはいくらでもあるし、明確な情報が少な過ぎる。
規定書式の中でも大きい特徴欄にまさか、「特徴あり」とは。妙ちきりんな尋ね人として何とか本人に噂が届く事を祈るしかない。
警備の騎士達から離れている事をちらと確認し、エリは密やかに言った。
「わらわ達の国には《君影草》という花があるのじゃが、これは国の者達には《谷間の姫百合》とも呼ばれておる。カバルストルはわらわの正式な名をもじったもの。すなわち、君影のエリが兄様を呼んでおる。」
「ふぅん…」
「フフ……《姫》であり、《百合》のように麗しきわらわ。ぴったりな偽名であろう?」
「紅玉というのは君の事?」
半開きの流し目でポージングしているエリを放置し、アベルが確認する。
ヴェンはくるくると紙をしまいながら一礼した。
「は。エリ様がお一人で来ていると思えば、心配なさいますので。」
「赤い瞳は珍しいから《紅玉》か。」
「えぇ。これは忌み子の――」
「ヴェン!」
エリが鋭い声を上げ、ヴェンを強く睨みつける。
「わらわ達の命令を忘れたか。」
そこに立っているのは確かに、君影国の姫だった。
幼く愛らしい容姿を持ちながらも彼女は、己の気迫でもって従者を跪かせる。
「…失礼致しました。」
「言うてみよ。そなたは何者だ」
「エリ様の従者であり、護衛です。」
「それでよい。兄様の友だという事も努々忘れるな」
「――…は。」
頭を垂れたヴェンから目を離し、エリは少女の顔に戻って口角を上げた。
「大声を出してすまぬな、アベル。」
「いい。」
アベルは短く返した。
気になる単語はあったが、エリの様子を見るにこの場では語らないだろう。
「そういえば、君の兄もあの話は知ってるのかな。僕達のこと。」
軽く握った拳で口元を隠すようにして、アベルが聞く。
エリが教えてくれた、《未来を告げる者》――恐らくは《先読み》のスキル持ち――が残した話のことだ。
双子の星、すなわち星と呼ばれるツイーディア王家に生まれる双子。
片割れは死を振り撒く凶星になり、ゆえに片割れは、死に追われる凶星になる。
「知っておるとも。あれは兄様が国を出るよりも、生まれるよりもずっと前。二百年ほど昔の話じゃからな。」
「公爵家に手紙を出したのも、その頃という話だったよね。」
一体何代前になるのかは調べればわかるだろうが、大事なのは当代がそれを知っているかどうかだ。知っていたならアベル達が生まれた時、国王に何か言っていてもおかしくない。
「うむ。その一族は我が国の血を引くらしいからのう、何も教えぬのもアレだと思ったのじゃろ。もっとも、手紙がちゃんと届いて読まれたかは知らぬぞ。」
「そうだろうね。」
閉鎖的な君影国から突如、公爵宛に手紙が届く。それも内容は予言じみたもの。
公爵が読む前に悪戯として処分されたかもしれないし、真面目に受け止めたとしても、二百年という歳月ですっかり忘れられた可能性もある。
「当代に聞いてみればよかろう?王都にはおらぬのか。」
「ドレーク公爵だけはいないんだよ。代々別の場所に住んでいて、こちらには滅多に来ない。ただ会った事はあるから、恐らく僕に憑いたものは見えていないはずだ。」
「見ても叫ばなかったという事じゃな!」
「…動揺は無かった。たぶんね。」
巧妙に隠しただけかもしれないが、少なくとも目は合った。
アベルは、聞く機会があれば手紙について確認する事に決める。
「君の兄は見えるのか?僕と会ったら襲ってくるかな。」
「見えるが、うぅむ。ビックリして固まるのではないか?無垢なお人じゃからなぁ。」
「ふぅん…」
相槌を打ちながらヴェンを見やると、眉を顰めて微妙な顔をしていた。言うべきか言わないべきかと、引き結んだ唇が歪んでいる。どうやら完全な無垢とも言い難いらしい。
見られている事に気付き、ヴェンは真顔に戻った。
「…万一の時はお気を付けを。殿下」
「うむ、頑張って生き延びるがよい。」
――それを、おぬしが望めるならば。
踏み込み過ぎる台詞は心の内に留めて、エリは口角をくいと上げる。
「兄様は強いぞ。」
◇
「いやぁ、テンション上がっちゃうなぁ!」
この上なく上機嫌な様子で、男はくるりとターンする。
ところどころにピンクのメッシュが入ったエメラルドグリーンの長髪は、一つの大きな三つ編みとして揺れている。普段は適当に縛られてぴょこぴょこと毛が飛び出ているそれは、今日ばかりは世話人の手でキチリと仕上がっていた。ただそれも数時間前までの話で、本人が気にしないためにやや乱れてしまっている。
「お菓子もお茶も沢山あるし、星にも会えたし。」
城に招かれたからにはと、普段着ている絵の具の染みだらけのポンチョは引っぺがされた。質の良いシャツにパリッとしたジャケット、折り目がきちんとついたズボンによく磨かれた革靴を履いている。
年は二十代半ばほどだろうか、中性的な顔立ちはそれこそ絵姿のように整っており、本の挿絵から飛び出してきたと言われても信じてしまいそうな、人間離れした造形美だ。
ガブリエル・ウェイバリーは、深みのある青緑の瞳をきらきらと輝かせて言う。
「最高だね!まさに。」
「馬鹿野郎、ギャビー……俺はもう、何回心臓が止まったかと思ったよ……。」
歓喜の翼で空でも飛びそうな画家とは裏腹に、髭面の画商、フラヴィオはソファに座って重く肩を落としていた。
血の気を無くし、唇は青くなり、何を思い出してかブルブルと大柄な身体を揺らしている。
ぐいん、と両腕を斜めに伸ばすようにして、ギャビーは彼の顔を覗き込んだ。
「何を沈んでいるんだい、フラヴィオ。とても美しく、楽しい時間だったじゃないか。」
「はぁぁああ……お前、自分がとんでもない無礼者だって自覚がないのか。」
「ないとも!」
「くそぉ!お前はそういうヤツだよ!!」
「ボクはただ、彼らが一番美しい時を見たかっただけさ。そう…」
何があったかは全て覚えている。
耳に聞こえた会話、目に入った仕草、その何もかもを。
自分が言った事も全部。
「《王妃様、もうちょっと眉間のシワとってくれないかな。》」
「縛り首になると思った。」
「《第一王子くんをくすぐれる?あれじゃ固くてつまんないよ。》」
「俺の心臓は凍った。」
「《もしかして笑顔ができないのかな、第二王子くんは。今練習してもらえる?》」
「笑顔で殺されると察した。」
「《王様の頭にネコが乗ったら面白いと思わないかい?》」
「俺達の死に面はさぞ白いだろうよ。――あぁまったく、通訳して良かった!」
不敬罪で首を刎ねられてはたまらない。
フラヴィオは城から来た使者に何度も何度も、それは懇切丁寧にギャビーがとんでもない事を伝えた。自分から頭を下げるかどうかも怪しいのだと。
だからフラヴィオが横について頭を強引に下げさせる事や、ギャビーの発言は物理的に止めて耳打ちさせ、フラヴィオを通じて伝えさせてもらいたいとお願いした。その無作法を許して頂けない限りはとても引き受けられないと。
朗らかなのは第一王子だけで、王妃は極寒の冷笑、国王は考えを読ませない薄い笑み、第二王子はひくりとも笑わない。壁際に並んだ近衛騎士達は無言。
額に汗を滲ませながら、フラヴィオは必死に言葉を選んで通訳した。処刑も投獄も回避したのだ。
ギャビーはからりと笑っている。
「気分が悪いなら外の空気でも吸っておいでよ。庭に出て良いって誰かが言ってたじゃないか。」
ギャビーはお菓子を堪能してからうろつくつもりだろう。歯止め役の自分はそれまでに回復しておくべきだ。フラヴィオはやれやれと立ち上がった。
部屋の扉を開けたところで、通りかかった紺色の髪の少年と鉢合わせる。
会うのは七、八年振りになるが、水色の瞳に黒縁眼鏡をかけたその顔は女神祭のパレードでも見ていた。フラヴィオは慌てて深々と頭を下げる。
「あ!」
丸めた背中をぴょんと跳び越えるように、嫌な予感のする声がした。
止めようと振り返ってももう遅く、好奇心に目を輝かせたギャビーがずかずかと歩いてくる。
「パレードで見た子じゃないか!気になってたんだよ、君の事!」
「は……?」
いきなり詰め寄られ、少年が目を丸くする。ギャビーはお構いなしとばかりに彼の腕を掴み、部屋へ引っ張り込んだ。恐ろしく無礼な行動にフラヴィオが目を見開く。
「ばばば馬鹿野郎、ギャビー!あの時も言ったろ!その方はニクソン公爵家の――」
「フラヴィオ、いってらっしゃい。ボクその間にお喋りしてるから」
「待て、本当にそれだけは!!」
ばん。カチッ。
さっさと扉の鍵を閉め、ギャビーは鼻歌を歌いながらソファへ戻った。
公爵令息のいる部屋の扉を叩く勇気はないのだろう、それきりフラヴィオの声はしない。
「……画家のガブリエル・ウェイバリーと見受けますが。」
「ボクの事はギャビーと呼んでくれ、ギャビーと。」
テーブルの上のお菓子を選んで摘まみながら、ギャビーはにこりと笑う。
サディアスは訝しげに眉を顰め、指で眼鏡を押し上げた。
「どういったご用件でしょう。今更、七年前の話でも?」
「七年前?」
「…肖像画を描いて頂いた時しか、貴方とは関わっていないはずですが。」
「あぁ、それ。何でかフラヴィオも勘違いしていたよね。ボクはニクソン公爵家には行ったけど、君の絵なんて描いてないのに。」
「――……。」
確信を持った声に、サディアスは言葉を失った。
ギャビーはマフィンの食べかすをぽろぽろ零しながら咀嚼している。
ひどく静かだった。
紅茶を水かジュースのように飲み込んで、彼はティーカップを置く。
「それで、誰なんだい?」
サディアスは、無意識に一歩後ずさっていた。
水色の瞳はギャビーに釘付けになったまま、呼吸が浅くなっていく。顔から血の気が引き、冷や汗が背を伝う。頭が、胸の中心が、身体が冷たい。凍りついたように。
全てを覚えている画家は、残酷なまでに美しく、無邪気に微笑んだ。
「君はサディアス・ニクソンじゃないだろう?」




