218.できれば次の人生は ◆
アベルの死体は見つからなかった。
『ま、そうだよね。』
崩壊した玉座の間から瓦礫が撤去されても、大量の血痕だけが残っていた。
戦いで傷ついた城の修復作業が進んでも、私達の傷が癒えても、新しい王が誕生しても。
『俺なんかの剣であの人が死ぬわけない。』
彼は生きていると、チェスターは信じていた。
『戻っては来ないんだろうけどね。姿を消すためにやったんだろうし』
『……探しに行くの?』
聞くと、チェスターは悲しい顔で微笑んだ。
『私も行く!』
『駄目だよ』
ぎゅっと抱きついた私の耳に、優しい声が届く。
背中に回った腕は私を抱きしめ返してくれた。もうすっかり慣れてしまった彼のぬくもりを失わないように、私は身を寄せる。
『アベル様を止めるって目的は果たしたんだから、君はもう俺といるべきじゃない。』
『どうしてそんな事言うの…』
『俺は王子殺しの大罪人だ。本当なら名乗り出て極刑を受けないといけないのに、我が身可愛さにまだ隠れるつもりでいる卑怯者。』
『…我が身可愛さ…?そんなの嘘。だって、アベルを探すのはっ!』
泣いてしまいそうだ。
声が震えるのを必死に堪えて、ただ目の前の人を失わないために唇を開く。
『…殺して、もらうため、でしょ……?』
ちゃんと覚えている。
壊れていく玉座の間で、貴方が叫んだ事を。
――俺は……貴方を止めて、それで、アベル様に殺されるために、ここまで……!
貴方はずっと、死にたがっていた。
他ならぬアベルの手で、殺されたがっていた。それが、六年前にした約束だったから。
『でも、アベルはもう、貴方を殺さないよ……。』
たとえどこかで生きていたとしても。探し出せたとしても。
だってあの時、彼は答えをくれていた。
――ウィルはお前の死を望まない。
『……けど、俺は…』
『貴方を頼むって言われたの。アベルに。』
言葉にする事で、私自身にも決意が漲っていくようだった。
抱きしめていた身体をそっと離して、今にも涙が落ちそうな瞳を見上げる。
『俺はね、カレン……望んでないんだよ。』
『わかったって言ったの、私は。』
最後の最後、瓦礫の向こうで笑ってくれたアベルに。
託されたし任された。城を脱出した時のように、たとえ嫌がられたってこの手を引っ張って行く。
『あの人を失って俺が残るなんて、そんな結末許されない。』
『私にアベルとの約束を破らせないで。』
これは彼が望んでいる事でもあるのだと、私はチェスターの目を見て言い聞かせる。
私の大好きな、優しい茶色の瞳が揺れていた。
そっと手を伸ばして頬に触れる。
大丈夫、ずっと傍にいるから。
どうか選んでほしい。
『一緒に生きよう、チェスター。』
流れ落ちた透明な涙が、私の手を伝った。
縋るような口付けを受け入れて、
いつまでも、どこまでも。
貴方といられるのなら。
『……本当に、俺でいいの?』
一緒に生きると決めて、翌朝。
まだそんな事を聞いてくるチェスターのおでこを、ちょん、と指で小突いた。
『チェスターじゃないと、嫌。信じられない?』
『…ううん、信じるよ。ありがとう、カレン。』
『ふふ』
こうして笑い合えるなら、何度だって伝えられる。
強く抱きしめて、優しいキスをして、私がどれほど貴方を愛しているかって――
コンコン。
宿の扉がノックされて、私達は顔を見合わせる。
誰だろうと思う間もなく開錠の音がして、あっさりと扉が開いた。
『やぁ、おはよう二人とも!』
『あ、アロイスさん!?どっどうしてここが…か、鍵は!?』
『もちろん、宿のご主人が気前よく貸してくれたよ。』
そんな馬鹿な!とは思うものの。
私もチェスターも、今更この猫面をつけた「自称謎の男」に、いちいち突っ込む気は起きない。
『そんな事より、これからここに騎士が来るようだよ。』
『騎士…!?』
『おっと、逃げない方がいい。君達は彼らの話を大人しく聞くと良いだろう。今日はそれだけ伝えに来たんだ。』
『どういう事?』
チェスターが聞き返したけど、アロイスさんは笑っただけだった。
お面に空いた真っ暗闇の目から私達をじっと見て、頷く。
『忠告もこれで最後――縁があれば、また会おう。』
アロイスさんの姿が消えて、後には私達の部屋の合鍵だけが落ちている。……返しておいてねって事、だろうなぁ。
私は鍵を拾ってテーブルに置いた。
『どうする?チェスター。私は信じてもいいと思うけど…。』
『……そうだね。念のために隠れてて、って言いたい所なんだけど。』
『一緒にいる。』
『そう言うと思ったよ。』
それから、ほんの数分。
荷物を軽くまとめ終える頃には、次のノックが聞こえていた。
『お久し振りですね、オークス公爵家のチェスター様。』
『…はい。』
『随分長い行方不明でしたが……貴方は、公爵になる事を望みますか?』
『……!あり得ません。俺にそんな資格ない。』
『よろしい。では、名を変えて生きてみますか?』
『…それって……』
予想外の申し出に、私達は顔を見合わせた。
チェスター・オークスは行方不明者から死亡者へと変わる。けれど、家名を変えるなら何事も別人として受け入れると。
『陛下が与えた選択肢です。取るも取らないもご自由に。』
『――…ありがとう、ございます……。』
チェスターの腕に触れて、目を合わせて、私達は騎士さんに頭を下げた。
まだこれから先、大変な事が沢山あるんだと思う。
それでも何度だって乗り越えて、二人一緒に生きていく。生きていけるんだ。
この、ツイーディア王国で。
◇
『なに、それ。』
ようやく出た言葉。
『ただの事実です。』
ティム・クロムウェル騎士団長は、そう言って椅子の背もたれに身を預けた。
軽く軋む椅子の音を聞きながら、俺は団長室に突っ立っている。
いや、いや。
ちょっと、待ってよ。
『あの、シャロンちゃんが…そんな風に殺され……、っ。』
吐きそうになって、口を閉じた。
嫁入りのために旅立った彼女が襲撃され、殺されてしまった事は知っていた。でもまさか、そこまで惨い殺され方だったなんて。
カレンには言えない――言えるわけがない、こんな事。
『何、の、恨みがあって……』
『ありませんよ。恨みなんて』
『え……』
クロムウェル騎士団長は、水色の瞳で俺を見る。
俺と違って、最期までアベル様を助けて死んだ彼と…同じ色で。
『その後クリス・アーチャーは気が狂い……どういうわけか、アベル様への怨嗟を吐き続けながら死にました。アベル様には、そこまで伝えませんでしたけどね。』
そんな
『娘の仇を討とうとした閣下は、敵のスキルを受け……夫人と自分の部下、全員をその手で嬲り殺しました。正気に戻りそうになかったので、レナルドが討ち……それで、アーチャー公爵家は全滅です。』
そんな事って、あるかよ。
優しかったあの子が、ずっと俺達を心配してくれたあの子が。
どれほど苦しんで、痛い思いをして、辛い中で。
残された家族まで…
『じゃあ……アベル様が、あの国を襲ったのは…』
『純然たる敵討ちです。』
もう疲れたと、そう零したアベル様の顔が頭に浮かんだ。
一体どんな気持ちでいたのか、想像するより早く涙が溢れ出す。嗚咽が漏れて唇を噛んだ。
『世間で言われているような開戦理由ではないですし、あちらの民を見せしめに虐殺したというのもガセ。……まさか、そこまで信じていたわけではありませんよね?』
『そう、ですけど…なら何でアベル様は、俺達にそう言ってくれなかったんだ。』
虐殺なんてしないって事くらいわかってた。
噂されてるような理不尽な理由で、同盟国を攻めるような人じゃないって事も。
だから、「何でだ」って聞いたのに。
貴方ははぐらかすばかりで、教えてくれなくて。
『何で……』
『それは私が答えられる事ではありませんが……これ。』
ぱさりと、封筒が放られた。
懐かしい筆致でクロムウェル騎士団長の名が書かれ、既に破られた封蝋は金色。腕で涙を拭って、俺は入っていた紙を取り出した。
『貴方が断ってくれて良かったですよ。』
なんだ…?
『それ、使いたくなかったので。』
ふざけんな、
『喜んで受けるとか言われたら、殺さない自信が無かっ』
『何だよこれ!!』
机に紙を叩きつけた。
ぐしゃぐしゃに破り捨ててしまいたいのを堪えたのは、アベル様の字だったから。
だけど許せるはずがない。こんなものは。
『見ての通り、自供書です。』
落ち着いた様子で、クロムウェル騎士団長は俺を見上げた。
冷めた目。サディアス君が生きていたら、同じように俺を見ただろうか。
『それによれば、六年前に起きたウィルフレッド第一王子暗殺事件は、当時の第二王子、アベル皇帝陛下の仕業だった。』
『違う』
『運悪く目撃者となった従者、チェスター・オークスは長きに渡り監禁され…』
『違う、俺が殺したんだ!!俺が……!』
『そうです。だからアベル様はこれを書いたんですよ。』
白手袋に包まれた長い指が、嘘だらけの自供書を叩く。困ったような顔で彼は微笑んだ。
『貴方が望むなら、オークス公爵家を再興できるようにね。』
ふざけんな。
俺が、貴方にそんな事を書かせてまで、望むと思うのかよ。
貴方にとって俺は、そんなに浅ましい奴だったのか。
『それ、私宛の手紙も入ってたんですけどね?チェスターが怒るから、自供書の存在は言うなと。』
『は……なにそれ…』
『私がうまく手を回した事にしろと……無茶、言いますよね。』
言葉を失って、俺は片手で両目を覆った。
やりそう。
こんな、自分が全部被るような事。
アベル様がやりそうだし、言いそう。ふざけんな。絶対に許さない。
『それと、これは私が思って言った事にしろって言われてるんですけど。』
『まだあるんですか…』
『《貴方はアベル様の望みを叶えたんですから、それを罪に思う必要はありませんよ。》』
『……馬鹿じゃないの、あの人……』
『大事な時にこそ周りの気持ちがわからないんですよね。まぁ、私は貴方よりずっと早く何もかも知っていて、何度説得しても駄目で…最終的には意思を汲んで、見送りました。』
見送った。
その言葉の意味を、考える。
手を離すと、クロムウェル騎士団長は俺を真っ直ぐに見据えていた。
『貴方達とアベル様の戦いは、この目で見ていました。』
『……スキルですか。』
『便利ですよ、《遠見》と《念写》のコンビ。』
何が言いたいか理解してしまう。
死体が見つからなかったなんて――嘘だったんだ。
『アベル様のご遺体は、リビー・エッカートが埋葬しました。』
告げられた事実が、心臓に重くのしかかる。
貴方はもういない。
『場所を確認して魔力も切れたので、彼女の帰りを待ちましたが……』
『…帰ってこなかった。』
『えぇ、墓前で自死していました。らしいっちゃらしいですね。』
リビーさん……アベル様が瓦礫に潰されるのを、防いでくれたんだな。
『墓の場所はいつか教えますから――…精々それまで、死なない事です。』
俺は……俺達は、何ができるだろう。
『それは、死ねませんね……。』
アベル様は、俺にどう生きてほしかったんだろう。
『ちなみに国王陛下が貴方に会いたいそうですが、どうします?』
生かしてくれた貴方に恥じないように、生きられるかな。
『…御心のままに。俺は、この国の民だから。』
どうするべきなのか、具体的な事はまだわかんないけど……カレンと一緒に、生きてみるよ。
貴方が守ろうとしたこの国で、
貴方が殺さなかった命が、自然に尽きるまで。
ね、夜空で一番光る星。
気が向いたら地上に戻ってきてよ、できれば俺が死ぬ前に。
言いたい事が沢山あるんだ。
ありがとう、ごめんね、この馬鹿主、わからずや。
戻らないなら迎えに来てよ、できれば俺が死ぬ時に。
その後の話を沢山するから。
国のこと、皆のこと、それから馬鹿げた歴史書を、一緒に読んで笑ってよ。
俺が潰してやったんだって、偉そうに言うからちょっとは褒めて。
それで…それでさ。
貴方が生かした俺がどんなに幸せだったか、伝えるから。
できれば次の人生は、貴方が誰より救われてよ。




