215.なら一人で行ってくる ◆
はらり、はらりと木の葉が落ち始める秋のこと。
小さな子供が一人、広い庭の隅にある木の下へやってきて、幹を背に座り込んだ。軽く積もった落ち葉がくしゃりと泣く。
少し癖のある柔らかな黒髪、幼子にしては落ち着き払った金色の瞳。明らかに服の仕立てが良いその子供を、男はチラと見ただけで放置した。
その色合いを持つ四、五歳ほどの子供など、正体は容易に想像がつく。
いずれ立ち去るだろう、そう考えた男は再び目を閉じた。
子供は膝を抱えて前方の地面を見つめている。ほんの時折、けほ、と空咳をしているのは気になったが、風邪を引く格好でも気温でもなかった。
そのまま五分、十分、十五分。
『きみ…そこでずっと、何してるの?』
幼い声がして、男は目を開けた。
身動きせずに瞳だけで下を見ると、子供は相変わらず地面を見ている。そこには芝生より少し背の高い草が生えているばかりで、他に目につくものは無い。周囲に人もいない。
『……だれを殺しにきたの。』
答えなかった事で敵と認識したのか、子供はそう聞いて立ち上がった。
ようやくこちらを見た瞳はしかし、焦点が合っていない。男の姿が見えているわけではないのだろう。ただそれにしては、彼の顔には恐怖も、高揚も、疑心も、好奇心さえもなかった。
――なるほど、《子供らしくない》…か。確かにな。
唇を閉じた子供は僅かに眉根を寄せていて、不機嫌に見える。
男はなぜかその目に、何かを諦めたような暗さがあるように思えた。
『手を出してこないなら…ぼくではないんでしょ。……だれがねらい?』
ごん、と木の幹をノックして、男は魔法を解除した。
太い枝に寝転んでいたのを起き上がり、地面へ飛び降りて跪く。竜胆色の髪に凛々しい眉。左目の下には泣きボクロがあり、子供を見据える黄金の瞳は瞳孔が開いていた。
『失礼致しました、第二王子殿下。』
『……騎士か。』
男が団服を着ているのを見て、第二王子アベルは幾分か、本当に僅かだけ、眼差しを和らげた。男は跪いたまま頭を下げる。
『十番隊所属、アイザック・ブラックリーと申します。』
『…顔、上げていいよ。何をしてたの。』
『非番のため、姿を消す魔法の鍛錬をしておりました。』
『……こんな所でやらないで。まぎらわしいから』
『申し訳ありません。』
真顔のブラックリーを、アベルは変な物でも見るような目で見ていた。眉を顰め、じとりと細めた目で。小さな手は片方、気だるげに首筋に添えられている。
時折耳に入る「第二王子はこちらを鬱陶しそうに見る」という噂の通りだった。幼い子供には泣かれるか逃げられるかの二択だったブラックリーは、それを「自分を他の大人と同じように見るのだな」と認識し、ただ見返した。
『……別に、もう行っていいけど。』
『畏れ多くも一つ、お伺いしてよろしいでしょうか。』
『…なに。』
『殿下はどうして俺に気付けたのですか?』
寝転んではいたが、魔法の発動に関わる集中を切らした覚えはない。
確実に周りからは見えていないはずだった。
『木の葉』
ぼそりと答えて、アベルはブラックリーが寝転んでいた太い枝を見上げる。つられてそちらを見ると、また新たに一枚、はらりと落ちて枝を掠り落ちていった。
『木の葉が、きみの体にあたって……風とも違う、変な動きをしてた。』
『…それを見て、怪しんで来たというのですか。』
『だれかいると思って…ぼくを、殺しにきたのかもしれないし。』
『そのように予想されたなら、どうして騎士を呼ばなかったのです?』
『……別に。けほっ…』
アベルは顔をしかめ、目をそらす。
首筋に添えた手を下ろす瞬間、爪で掻いたのか白い肌に赤い線がはしった。血が出るほどではないが、痛々しい。
『…失礼ながら、お風邪を召されているのですか?』
あり得なかった。
それならばアベルは部屋から出されていない。わかっていたが、ブラックリーはそう聞いた。
『……ぼくは《健康》だよ。』
『しかし、咳が』
『気を引きたいわけじゃない。』
遮るように言って、アベルは煩わしそうに首筋を擦った。掻いた跡が痛いのだろうかと、そう思いながらブラックリーは開きかけた口を閉じる。
誰かに、そう言われましたか――などと。
『少し……のどが渇いただけ。…用意しろと言ってるわけじゃない。ほうっておいていい』
『お待ちください。』
どこかへ歩き出そうとしたアベルを引き止め、ブラックリーはベルトの小物入れから水筒を出した。唇をつけずに少し自分で飲んでみせてから差し出す。毒見と気付いたアベルは思いきり顔をしかめ、水筒をブラックリーの方へ押し戻した。
『きみから取る気は――…ちがう。ぼくは王子だから、こんな物は飲めない。…それは、きみが飲めばいい。』
『殿下。貴方が飲まないなら、この水は意味もなくここへ捨てます。』
『は……?』
相手は国の第二王子で、ブラックリーは騎士の一人に過ぎない。
それでも今目の前にいるのは、ただ強がって何かを我慢しているだけの、四歳の子供だった。ちょうど二十歳になった男の凝視に根負けし、アベルはため息をついて水筒の水を少し飲んだ。
『……ありがとう。』
『いえ。少しでも楽になれば良いのですが。』
『…生きてるから、問題ないよ。』
『……殿下、』
『ぼくにはウィルがいる』
ぽつりと呟いたアベルは、その時ようやく僅かな笑みを灯した。
愛称で呼ばれるのをブラックリーは初めて聞いたが、確認するまでもなくそれは、第一王子ウィルフレッドの事だろう。アベルの双子の兄で、子供らしく少しだけヤンチャながらも、明るく優しい方だと噂に聞く。
『ウィルがいるから、ぼくは大丈夫だ。』
『……どうか、ご無理はなさらずに。』
『もともと健康なんだから、何も問題ない。』
ブラックリーは眉根を寄せた。やはりこの王子は、不調を訴える事を諦めている。何か言おうと口を開いたが、アベルの方が早かった。
『ぼくも聞いていいかな。』
『…何なりと。』
『きみみたいになるには、どうしたらいいだろう。』
『俺ですか?』
『うん。隠れてる間、きみの呼吸は聞こえなかった。みごとだ。身体も大きくて、力がある。十番隊はたしか、ケホッ……一人での強さが求められる部隊だと、聞いたから。きみは強いはずだ。』
それは到底、四歳の子供が口にする内容ではない。
アベルは魔法で姿を消した相手を見つけたばかりか、正体不明でも恐れずに近付いて背を晒し、聞き取れなかったらしいとはいえ呼吸音の有無まで確認した。
――この幼さで、なんという人だ…。
双子の王子を知る人々の中には、既に「次期国王は第一王子で決まりだ」と言う者もいるらしい。ブラックリーはどちらの派閥に与するつもりもないが、この才能が埋もれる事は防ぎたいと思った。
『ぼくは…まだしばらく生きているから、今のうちにウィルの役に立ちたい。』
『しばらくも何も……あと数十年ありますよ、殿下。』
『できる事をふやしておきたい。人は、どうしたら強くなる?』
どうしたものかと、ブラックリーは首を捻る。
王子殿下の教育など、一介の騎士に過ぎない自分が関わって良い事ではないだろう。ただ、子供の質問に答えない大人というのも、良くはない。
『そうですね…魔法はまだ無理でしょうから……』
考えた結果、ブラックリーが教えたのは筋トレや走り込みのやり方だった。
しかし勿論のこと、五歳にも満たない子供に合ったトレーニング量などさっぱりわからない。真面目な彼が己の知識を全て喋り、時に実演し、やりきった顔で仰向けに倒れていくのを、アベルは大人しく眺めていた。
『魔法は、さいてきを知らないといけないって聞いた。』
『あぁ……最適の属性、ですね。あと三年ほどでわかりますよ。』
ちょこんと座った王子殿下の横で仰向けに寝転んだまま、ブラックリーが答える。
だいぶ時間が経ったはずだが、どうも、誰一人としてアベルを探しにここへ来る様子がない。よほどうまく抜け出してきたのか、元々自由時間なのか。十番隊の騎士には知りようもない話だ。
『ぼくは先に石をさわって、知っておきたいんだけど。』
『鑑定石ですか?あれは基本的に教会の保管なので、いつでもできるわけでは…』
『城に一つある。場所もわかるよ』
『…本当に、よくご存知ですね。』
王子殿下は四歳だという自分の認識を疑い始めたブラックリーの横で、アベルは長い睫毛をぱちりと瞬いた。そして思いきり眉を顰め、幼児にしてはあまりに鋭い目で睨みつけてくる。
『お前、ぼくの命令が聞けないのか。』
怒りの滲む声は先程までより低く、金の瞳には王家が持つ気迫が感じられた。
反射的に起き上がったブラックリーが唖然としていると、アベルはふと力を抜いて小首を傾げる。
『――ってやると、たいていは教えてくれる。』
『……殿下。あまりそういう事をなさると、王になれないかもしれませんよ。』
不調を訴えられないがゆえの誤解を差し引いても、これでは第二王子の評判があまり良くないのは当然だった。どこの貴族を見て覚えてしまったセリフなのだと頭を抱えたくなる。
『でも騎士が見張ってるから、石にはさわれないんだ。』
『三年ほど待てば、第一王子殿下と一緒に確認できます。それではいけませんか?』
『ぼくはウィルを助けられるようになりたいから……こほっ、あんまり一緒でも、だめなんだ。ブラックリー。きみの力があったら、見張りがいても関係ないんじゃないかな。』
『え。』
アベルは瞳に期待を込めてブラックリーを見上げている。
要は魔法で姿を消して連れて行けと、そういう事だ。慌ててきちんと向かい合った。
『しかし殿下、それは――』
『失敗した時は、ぼくが責任を取る。』
『……大変恐縮ですが、申し訳ありません。それは無理な話です。』
たった四歳の王子殿下に、どう責任が取れるものか。
王子を連れ回した、誘拐を目論んだ、暗殺未遂かなど、いくらでも容疑をかけられるだろう。自分一人の問題ではなく、十番隊や騎士団全体が責任を問われる可能性がある。
アベルは小さな唇に片手をあてて何か考えていたが、やがて頷いて「わかった」と返した。
それから、約一ヶ月後。
『殿下。』
『なに』
『どうやっていらしたんですか?』
『階段以外にあるの?』
王城にいくつも聳え立つ尖塔の一つ。
その最上階に二人はいた。アベルは見覚えのある竜胆色が塔に入るのを見かけ、後を追ってきたのだ。到着してすぐは流石に息切れしていたが、そもそもが新兵のしごきに使われるような階段である。
『俺はまだ子がいないのでわかりませんが、四歳というのは、そんなに体力があるのですか…?』
『わからないけど、きみに教わった事は役に立ったよ。だいぶ楽になったんだ』
『本当ですか!それはよかった…』
自身の喉に手を触れて言うアベルに、ブラックリーが僅かに頬を緩めた。
先日の口ぶりからして、彼の咳について医者はお手上げなのだろうと心配していたのだ。身体を鍛えて快方に向かったのなら、単に心肺機能の成長度合いの話だったのかもしれない…などと想像する。
『それを伝えるために、追いかけてくださったのですか?』
『うん。あと頼みがあって…ぼくに剣を教えてくれないかな。』
『……俺がですか。』
『教育係の予定だと、まだ先なんだ。それでは遅いし…ぼくは魔力が無いみたいだから、剣をやるしかない。』
『まだわかりませんよ、殿下。魔力鑑定するまでは――……』
言いかけて、気付いてしまったブラックリーは唇を閉じた。まさかと思いながら、隣の王子殿下を見る。
『色は出なかった。何のとは言わないけど』
金色の瞳を煌めかせ、アベルは悪戯っぽく笑った。
二人の師弟関係はそうして始まり、十五年もの時を経て――
『俺はお前の正体に、もっと早く気付くべきだった。』
目の前で叩頭するかつての師に、そんな言葉を吐く事になる。
皇帝の寝室で二人がどのような会話をしたのか、詳細を知る者はない。
呼び出しに応じて騎士団長が現れた時、聞こえたのは一言だけ。
――どうか、命だけは
無言で魔法を放った皇帝によって、彼は意識を落とされた。
騎士団長の手で特殊牢へ閉じ込められ、脱出は叶わない。
叫んでも叩いても状況が変わる事はなく。
皇帝を止める事も、助けに行く事も許されず。
アイザック・ブラックリーは、守ろうとした命を失った。




