214.甘やかし過ぎ
「こらーーーーッ!!!」
第五演習場に叱責が響く。
血と汗を飛び散らせて切り結んでいた二つの影はピタリと動きを止め、互いに跳び退いて距離を取った。
「…っ、ウィル……?」
影の片方、声を聞いた時点で相手を把握していたアベルが、手の甲で鼻血を拭いながら入り口を見やった。いつも平静な呼吸は荒く乱れ、紅潮した頬を流れる汗が首筋へと伝う。
「あれ……すみません、施錠…したつもりだったのですが。」
もう片方、第一王子の大音声など初めて聞いたブラックリーは、おかしいなと零しながら竜胆色の短髪を掻き上げた。こちらは左頬がスッパリ切られ、顎まで血が垂れた跡がある。
それぞれ着ていたはずの上等な上着は地面に脱ぎ捨てられ、この寒空の下、シャツにベスト、ズボンにブーツという軽装だった。あちこちに蹴られた跡や切り裂かれた跡、土汚れなどが見受けられる。
二人は剣を鞘に納め、数十メートルほど離れた入り口から駆けてくるウィルフレッドに向き直った。互いにそれとなく歩み寄り、ウィルフレッドが到着する前にとぼそぼそ言葉を交わす。
「まずい事になった。あれは怒ってる」
「怒っていらっしゃいますね。せめて治癒を終えた後なら言い訳も……空、暗いですね。何時なのでしょう」
「うん?……暗いな。」
一つ瞬いて、ちらりと空を見たアベルは同意した。
薄暗いという程度なので日が落ちてすぐなのだろうが、二人が剣を抜いたのは夕暮れよりも前の話だ。手合わせに熱が入るうち、随分と時間が経っていたらしい。
ようやく二人のもとに着いたウィルフレッドの腰には、アベルと揃いの真新しい剣がある。
「一体何をやってるんだお前達は!!」
「ウィル、何でここに?」
「何でじゃない、アベル!お前に怪我をさせた事が知れたら、彼の首が飛ぶかもしれないんだぞ!!」
「うん、内緒にしてほしい。」
「それはッ、勿論そうするけども……ブラックリー隊長、貴方もだ!治せばバレないという話ではない、あまり弟を甘やかさないでくれ!!」
「申し訳ありません、第一王子殿下。」
ブラックリーが素直に直角九十度で頭を下げた。
ぷんぷん怒るウィルフレッドの後ろには、護衛騎士二人が控えている。
緑髪を低い位置でまとめて身体の前へ流したヴィクター・ヘイウッドは、横に立つ同僚を苦い顔で見やった。
茶髪をポニーテールに結った女性騎士、セシリア・パーセルは、今日も緊張感のない笑顔で三人を眺めている。ヴィクターの視線に気付くと、赤紫の瞳を彼へ向けた。
――あれは甘やかしたって言うのか?アベル様があんな姿になってるの、俺は初めて見たんだが。
――ウィル様が止める前の二人を見たか、ヴィクター!とても楽しそうだったな!
――何で目を輝かせてるんだ、馬鹿!ニコニコするな、笑い事じゃないぞ!!
「互いに中々相手がいないのはわかる、わかるが……ッ駄目だろう!程度というものがある!」
「うん」
「はい。ごもっともです。」
「アベル!お前はもっと自分を大事にしなさい、この前そういう話をしたばかりだろう!」
「うん」
「ブラックリー隊長も!弟が良いと言っても気を付けてくれなければ困る、騎士隊長の貴方が嬉々としてやりあってどうするんだ!」
「はい。仰る通りです。」
第二王子と十番隊長が並んで大人しく叱られているのは中々の光景だったが、ヴィクターにはそれを楽しむ余裕などなかった。周囲に他の気配がない事を探りつつ、ウィルフレッドに声をかける。
「ウィルフレッド様、先に治癒を。」
「あぁそうか、その通りだ。ありがとう、ヴィクター。ブラックリー隊長を治してあげてくれ。」
「いえ、自分で治せますので、お気持ちだけ。」
「わかった。ではアベル、腕を出しなさい。」
「え?」
アベルが目を瞠って聞き返した。てっきりヴィクターかセシリアに治されると思っていたのだ。
ウィルフレッドは「ほら」と手を差し出している。
「べ、別に良いだろう、ちょっとくらい俺が治したって……確かに、遅いけど…。」
「……わかった。」
アベルが覚悟を決めた顔で左腕を差し出した。
白いシャツが裂けて赤い染みができている。自分の頬の傷を治しながら、ブラックリーは不思議に思ってアベルを見やった。多少副作用があるだろうとはいえ、兄の治癒を嫌がる理由がわからない。
ちらりと護衛騎士二人を見やると、ヴィクターは気の毒そうに目をそらし、セシリアも「これも試練」とでも言いそうな顔で生温かく微笑んでいる。
アベルに視線を戻すと、治癒のために左腕を差し出したまま、険しい顔で右の袖を噛んでいた。切り傷自体はさほど大きくもないはずだが、ウィルフレッドはまだ手をかざしている。アベルの額にじわりと汗が滲んだ。
「ふ……ッ、」
苦しげな吐息が微かに漏れ、指先がぴくりと動く。
集中しているのだろう、ウィルフレッドは真剣そのものといった表情で、塞がっていく傷口をジッと見つめていた。やがて傷のあった肌がすっかり綺麗になると、達成感のある笑顔で顔を上げる。
アベルは素早く右手を下ろした。
「これでよし!」
「…っありがとう、ウィル……」
「残りは俺がやりましょう。」
「あぁ、頼むよ。ヴィクター」
後の治療はヴィクターが引き継ぎ、その間にセシリアが地面に放られた上着を回収して土埃を叩いている。
自分も腕の傷を治そうとシャツの裂け口を広げたブラックリーに、ウィルフレッドは小声で話しかけた。金糸のような髪がさらりと揺れる。
「ブラックリー隊長、俺は治癒の魔法があまり上手くなくて、さっきみたいに遅いんだ。数を重ねられればもう少しとは思うんだけど、コツのようなものはあるかな。」
「そういう事でしたら、俺の治癒をやってみますか?」
「いいのか?時間がかかってしまうけれど。」
「はい。」
「ありがとう、ではやらせてもらうよ。」
王妃殿下譲りの爽やかな青い瞳を煌めかせ、ウィルフレッドはブラックリーの傷口に手をかざした。塞がるところを想像しながら魔力を込める。
「あ゛ッ!?ぐ……」
咄嗟に片手で自分の口を押さえ、ブラックリーは即座に真顔へ戻った。
ウィルフレッドが焦った様子で顔を上げる。
「すまない、いきなりだったかな…」
「…すみません、驚いただけです。問題ありません。」
「そ、そうか。では改めて…」
すん、と冷静そのものの顔で手を下ろしたブラックリーに、ウィルフレッドは安心したように笑って作業を再開した。
ブラックリーはグッと目を閉じてから開き、ヴィクターの治癒を受けるアベルを見やる。目が合った。「絶対に言うな」とばかりの形相でこちらを睨んでいる。
ものすごく痛い。
例えるなら、鋭利な棘がついた灼熱の金属棒を傷口に突き刺し、回転させながら掻き乱されている、といったところだ。灼熱と激痛と血管が削られる感覚。むしろ血管がぶちぶち切られているようにすら感じる。仮にも「治癒」という枠の中で一体何が起きているのか。副作用にしても度を超えている。
ブラックリーは、いっそ拷問訓練だと思って過ごす事にした。
あまりの酷さに熱に浮かされたような心地を覚えながら見下ろすと、ウィルフレッドは至極懸命に集中している。悪気がまったく無く、心優しい方であろう事が痛いほどに、それはもうとても痛いほどに伝わってきた。事実を知れば本人はかなりショックを受けるだろう。
とはいえ、これほどの激痛を言わないとは。
――アベル様。兄君を甘やかし過ぎです。
これは、いつか誰かが言わなければならない。
釘を秒間十六連打で打たれるような痛みに変わってきた理由もわからぬまま、ブラックリーは流れ落ちる汗を拭いながら決意した。
「よしできた!どうだろう?」
「……そうですね。殿下には拷問の才が」
「それで、ウィルは何でここに?」
ブラックリーの台詞にしっかりと声をかぶせ、アベルが尋ねた。
ウィルフレッドが「あぁ」と頷いて答える。
「お前の、月末の予定を確保しておくよう陛下から頼まれてね。騎士団に行ったら、演習場の方へ行くのを見たと聞いて。」
「そう。陛下からという事は、何か公務?」
「なんでも、入学前に肖像画を描かせたいそうだ。」
「肖像画?」
アベルは僅かに眉根を寄せて聞き返した。
ウィルフレッドと共にならまだ良いが、万一にも自分一人だけの肖像画となるとまったく気乗りしない。セシリアから受け取った上着に袖を通し、ボタンを留めた。
「国王陛下と王妃殿下、そして俺達の四人で一枚だ。」
「……二人に、絵を描かせるほど時間が取れるとは思えないけど…」
「それは心配ないらしい。招く画家の名は、ガブリエル・ウェイバリー。彼は、一目見れば景色を全て覚えてしまうそうだよ。」
だから絵を描くのは後日になる、と。
ウィルフレッドの話を聞きながら、アベルは一人の男を脳裏に思い浮かべた。
『ボクが緊張したら何か変わるのかい?そうは思えないけどな。』
エクトル・オークションズの地下室に捕われていたという、独特の雰囲気を持った画家。
ピンクメッシュがいくつか入ったエメラルドグリーンの長髪を大きな三つ編みに結い、中性的な顔立ちに青緑の瞳をしている。油絵具で薄汚れたポンチョを着て、女神祭のパレードの日にはなぜか教会の屋根に上っていた。
「あの男か…」
「お前は知ってるんだったな。変わった人だという噂だけど、そうなのか?」
「直接話した事はないけど、そうだね。少なくとも城にはいないタイプだ。」
「へぇ?少し楽しみだな。」
「ただ…陛下達にさえ、礼儀を守るか怪しいかもしれない。ちょっと態度の砕けた男だからね。騒ぎそうな臣下は会わせない方がいいと思う。」
「…俄かに心配になってきた。」
ウィルフレッドが眉尻を下げて顎に手をあてる。
王家が城へ招いた有名画家、不敬罪で処断!などという情報が国民に流れるようでは、まずい。
ふとアベルが視線を上げ、辺りを見回した。
ウィルフレッドとセシリアが不思議そうに瞬き、ヴィクターがハッとして同じように見回す。遮蔽物のない広い演習場のどこにも、アイザック・ブラックリーの姿は無かった。アベルは小さくため息を吐く。
「どうしたんだ、アベル…あれ、ブラックリー隊長はどこだ?」
「…わからないけど、彼、しばらく話しかけないでいると勝手に帰るんだよ。」
「えっ、そうだったのか。滅多に話さないから知らなかったな……というか、全然気付けなかった。いついなくなったんだ?」
「さぁ。僕も気を付けていないと見逃す。」
諦めたように言って、アベルは演習場の入り口へ歩き出した。
ウィルフレッドは弟の横に並び、ブラックリーの顔を思い浮かべる。竜胆色の短髪、瞳は深みのある黄金色をしていて、左目の下には泣きボクロがあった。話すと普通の人なのだが、瞳孔が開いていて基本的に真顔なので、初めて会った時は怖い人だと思った事を覚えている。
「お前とブラックリー隊長って、なんだか似ているな。」
強い所も、気付くといなくなっている所も、先を見据える時の眼差しも。
そう思いながら隣を見ると、アベルはなぜか複雑そうな顔をしていた。ウィルフレッドがどうしたんだと視線で問う。
「……僕は、そんなに瞳孔が開いてるかな。」
吹き出すのを堪えられたのはヴィクターだけだった。




