212.神秘には神秘を ◆
『いやぁああああああああああああ!!!!』
絶叫が響いた。
兄を探す最後の手段として渋々騎士団に相談し、城へ招待されてしまった君影国の姫――エリは、廊下に尻餅をつく。
護衛の大男、ヴェンと付き添いの騎士が何事かと視線を辿れば、先にいるのは通りすがりの第二王子だった。距離はあるが流石に絶叫は聞こえたのだろう、こちらを見る彼に特段変わった様子はなく、剣もきちんと鞘に納まっている。
エリ達の案内をしていた壮年の騎士が訝しげに眉を顰めた。
『姫君?どうかなさいましたか。』
聞きながら手を差し伸べたものの、エリの耳には届いていないらしい。それどころかヴェンまでもが目を見開いて驚愕していた。
『エリ様、あれはまさか…!』
『……ッ間違い、ない…《凶星》じゃ……ぁ、ああ…まさかこんな…』
エリはぼろぼろと涙を流し、立てないのか力なく靴裏で床を擦っている。ヴェンはそんな彼女を庇うように前へ出たが、額には汗が滲み、全身を悪寒が襲っていた。
『落ち着いてください、あちらの方は我が国の第二王子殿下です。何をそんなに驚かれて…』
『ヴェン、あれが…あやつが全て目覚めたら…』
『ッここで……!』
殺さなければならない。
そう思ったが、ヴェンは刀の柄に手を伸ばしながら顔を歪めた。
場所は王城、相手は魔法大国ツイーディアの王子。
殺す前にこちらが捕われるだろう。
『――失礼。何をお考えで?』
現に、ヴェンが抜刀できないよう騎士に腕を掴まれた。
ホワイトブロンドの長髪を後ろの低い位置で結った、双剣使いだろう壮年の騎士。エリが他国の姫であり、護衛ヴェンの帯刀を許す事もあって、案内役に選ばれたのが彼だった。二番隊長、ダライアス・エッカート。
目の前で王子に向かって抜刀するなど、許すはずもない。片手でヴェンの腕を掴みながら、反対の手では自分の剣をすぐ抜けるよう構えている。
『殺さないでぇ!』
床に座り込んだまま、エリが必死の形相でエッカートの脚にしがみついた。
『姫君。いきなり殺しなどしませんが、先に刀を抜こうとしたのは』
『殺さないでくれ、頼む!お、おぬしらは王子が人を殺そうとしても知らん顔をするのか!?わらわ達を見殺しにするのかッ!!』
『何を…』
不可解な言動にエッカートは当惑したが、第二王子アベルを見て「人殺し」とくれば、市井の噂でも真に受けたのだろうと考えた。
彼が手にかけた事があるのは犯罪者であり、誰彼構わず殺すわけではないのだが。
視線を戻すと、騒ぎが自分のせいと察したのか、アベルは既に立ち去っていた。
エリは泣きわめきながらエッカートに縋り、ヴェンはアベルがいた場所を見つめたまま、首筋に冷や汗をかいている。よほど緊張したのか呼吸も乱れていた。
――殺気を出されたわけでもないのに、なぜこうまで怯える?以前どこかで会っていたのか?それにしては、殿下の方に心当たりはなさそうだったが……。
後で話を聞きに行くべきかと考えつつ、エッカートはヴェンの腕を離した。今から追いかけようとするほど馬鹿ではないだろう。エリは涙を拭いながらヴェンにしがみついた。
嘘か真か、君影国は死者に通じる術を持つという。
他国と交流の少ない、深い霧が覆う山々に囲まれた神秘の国。もしかすると彼らには、アベルが今まで奪った命が見えているのかもしれない――エッカートはそんな馬鹿げた事を考えて、すぐに打ち消した。自身もこれまで幾度となく敵の命を奪ったからだ。やはり市井の噂だろう。
『街で何を聞かれたのか存じ上げませんが、殿下は強く賢明なお方です。下手な真似はなさらぬよう。』
『…賢明、か。そうなのじゃろうな……あれでこちらへ来なかったのだ、さぞ賢明な魂を持っているのだろう。』
そう呟くエリは嫌悪と恐怖に顔を引き攣らせていた。
『……刀に手をかけた時点で捕えます。お忘れなきよう。』
恐ろしい噂はあれど、アベルは国王夫妻譲りの整った顔立ちをしており、決して初対面で嫌悪される外見ではないはずだ。君影国には独特な感性があるのかもしれない。
娘がここにいたらエリを睨んでいただろうと考えるエッカートに、ヴェンが神妙な面持ちで声をかける。
『エッカート殿、でしたね。我々は殿下と顔を合わせぬ方が良いようです。』
『…そのようですね。理由をお聞きしても?』
『おぬしらにはわからぬ。』
すん、と鼻をすすり、エリは断言した。
まだ脚に力が入らない様子の彼女をヴェンが抱え上げる。
――人の世に生きる以上、黒き魂が正常な意識を保っているほどに厄介じゃ。演技できてしまうが故に周りは異常に気付けず、討ち果たそうとすればわらわ達が悪になる。《凶星》は随分うまく溶け込んでいるようじゃ。それほどの力を持っていてなお、未だ入りきっていないというのだから恐ろしい。途方もない力を持った魂……ここの王子は確か、十二歳だったか。身体を奪われるのは、一瞬であったろうな……。
近い内に、ツイーディア王国は破滅に向かうだろう。
どれほど常人めいた素振りができる魂でも、黒く染まっているからには。君影の姫と知られるより前に、城ではなく街中で会えたなら、未来のために始末する事もできたかもしれないけれど。
城内で殺すのは不可能だ。
殺せなかった上に弁明できず処刑され、さらには君影国とツイーディア王国の戦争が始まる、それが最悪のパターンだ。
エリ達にできるのは一刻も早く兄を見つけ、この国から離れる事。そして、
『玉座の間へ頼む。』
君影の血を引く公爵家に、かつて出されたという手紙。《凶星の双子》についての予言。
その内容が国王にまで伝わっていれば、あるいは…
◇ ◇ ◇
「泣かないで」
鉄格子に閉ざされた独房の中、寝台に縛りつけられた少女は小さく微笑みを浮かべた。
灯りは通路の壁にかけられた燭台だけで、辺りは薄暗い。
「私なら大丈夫です。だから…泣かないでください、女神様。」
囁くような小声でそう呟き、虚空を見つめて目を細める。
まるで妖精でもいるかのように。
「決めたのは私達で、貴女は何も悪くないのですから……」
魔獣を数十匹、とある人物に譲れないかと、それだけが女神の相談内容だった。詳細を聞き出し、彼女の力になろうと王都襲撃を提案したのは信者達の方だ。
オークス公爵夫妻の暗殺を邪魔されないように。
緊急時の騎士団の動きを見るために。
魔獣の戦闘データを取るために。
「影の女神様」
少女は胸の前で手を組む代わりに、ただじっと目を閉じて祈りを捧げた。
――貴女の愛が、報われますように。
独房には沈黙が流れている。
やがて鉄格子の向こうにある扉がノックされると、少女は目を開けて無感情に天井を眺めた。一人分の食事が運び込まれ、家族が面談を希望しているという話が始まる。
少女は気付かなかった。
誰もいない場所から、一人の騎士が開いたままの扉へ出て行く事に。彼女の独り言――否、語りかけはずっと、聞かれていたという事に。その姿が見えないせいで、気付かなかった。
竜胆色の短髪、常に瞳孔が開いた黄金の瞳。
左目の下には泣きボクロがあり、背丈は百八十五センチと高い。個の力を重視する十番隊の現隊長、アイザック・ブラックリーは、廊下を歩きながら姿を隠す魔法を解除した。突然現れた彼に通りすがりの騎士達がビクリと肩を揺らす。
「お、あ、おお疲れ様ですブラックリー隊長!」
「あぁ。」
今年で二十九歳を迎える彼は気の長い男なのだが、常に瞳孔の開いた目と凛々しい眉が厳しい印象を与え、関わりの少ない者からは怖れられていた。
緊張した面持ちの騎士達からすぐに目を離し、ブラックリーは団長室へ向かった。ノックの後に名乗り、入室を許可されてから扉を開く。
「失礼します。」
「やぁ、ブラックリー。何かあった?」
騎士団長ティム・クロムウェルは柔和に微笑んで彼を迎えた。
肩につく長さの水色の髪を右側で二つに結い、細い眉は困ったように下がっている。水色の瞳がちらりと見やった先、応接用のソファには第二王子アベルの姿もあった。報告書でも読んでいたのか、何枚か書類を持っている。
「例の、襲撃に関わった令嬢の様子を見てきたのですが…やはり夜教の信者でした。」
「というと?」
「誰かに話すように独り言を。」
捕えて以降黙秘を続けていた貴族令嬢だ。
さては勝手に入って身を潜めていたなと思いながら、ティムは突っ込まずに報告を聞いた。ブラックリーも貴族なので、公になればひと悶着あるだろう。関わりたくない。
「…最後には影の女神様、と呼びかけていたので、間違いないかと。」
「女神が泣いてる、か……《夜教》の連中って、まるで本当に会ったような認識の人が多いよね。」
考え込むように目を細め、ティムは机を指で一度叩いた。
ツイーディア王国で多くの人々が崇め祈りを捧げるのは、過去に実在したという人物。
圧倒的な武を誇り各地の平定に尽力した月の女神、そして高度な治癒の魔法で人々を癒した太陽の女神の二人だ。
各地には石像や銅像が残されており、彼女達が神格化されるまでさほど時間はかからなかっただろう。人々は「見守っていてください」「力をお貸しください」と祈りを捧げ、心の拠り所にした。
そんな中、いつからか「影の女神」という単語が、文字通り歴史の影で囁かれるようになる。
三人目の女神。
一切の書物に登場しない彼女の存在を信じる者達は、やがて自分達を《夜教》と呼称した。
「どうです、殿下。会えると思いますか?」
「さぁね。今のところ、僕は会った事がないけど。」
ティムの問いにそう返しながら、アベルはパーシヴァル・オークス公爵の報告書に目を通す。
公爵夫妻の出立日時をダスティンに報せたのは、エイダという古株の侍女だったようだ。またサプライズを企画しているから、パーシヴァルが自分の所へ向かうような事があれば、急いで教えてほしいと。そう頼まれていたらしい。
ダスティンが敵かもしれないという話は、当然ながら使用人には伝えていなかった。報告書には侍女の反応までは記載されていないが、状況を知ってさぞ混乱しているだろう。
「影の女神……あの二人にでも見せてみるか。」
アベルはエリ達を思い浮かべて言った。二人は既に国王への謁見も済ませ、しばし城に逗留する事になっている。
「なるほど、神秘には神秘を…という事ですか?」
「女神も、言ってしまえば死者だからね。」
「ごもっともで。教会の人間が聞いたら怒りそうですけど。しかし部外者どころか他国の姫君ですから、会わせるのはかなり難しいでしょうね。…正直、無理かと。」
「まぁ、そうだね――待て。ブラックリー」
ブラックリーは部屋の扉に手をかけていたが、不思議そうな顔で振り返った。
彼はしばらく話しかけずにいると、勝手に「終わった」と判断して立ち去ってしまうのだ。気付いたらいなくなっている事が多い上に、空き時間は城の庭から騎士団の倉庫までフラフラ放浪するため、一度逃がすと見つけるのが難しい。
「御用でしょうか、殿下。」
「君、今から時間取れるかな。」
「はい。」
「なら少し付き合ってほしい。」
アベルは立ち上がり、「第五が空いてますよ」と言うティムに礼を言って報告書を返した。ブラックリーと共に部屋を出て、演習場へ向かう。
月の女神に愛された剣の天才、第二王子アベル。
騎士団でも三本指に入る実力者、十番隊長ブラックリー。
二人が並んで歩く姿を通りすがりの騎士達は二度見し、あるいはぽかんと目を見開いて見送った。
「剣を折られたと聞きましたが…本当のようですね。新しい物はいかがですか?」
「まだ慣れない。長さも重さも、以前とは違うからね。」
誰もいない第五演習場へ入りながら、アベルは腰に佩いていた剣を抜いた。元々は来月渡される予定だったが、使っていた剣が折れた事で一足早く受け取る事になったのだ。
鍔には王家を表す星の装飾があしらわれた、ウィルフレッドとまったく揃いの物。昨年の事件を踏まえ、装飾のデザインが描かれた設計図は騎士立会のもとで焼き払われたらしい。
「見事な業物ですね。貴方なら、すぐ使いこなせるようになるでしょう。」
「そのためにも相手をしてほしい。師匠」
アベルが真っ直ぐにブラックリーを見てそう呼ぶと、彼は僅かに口角を上げて微笑んだ。距離を取り、向かい合う。
「俺ではもう、その呼び名は役者不足ですよ。」
「そんな事ないと思うけど。少なくともまだ超えてない。」
「……八年半は経ちましたか、貴方に初めて見つかったあの日から…随分、お強くなられました。師と呼ばれるには差がなさ過ぎる。どうか、名で。」
深みのある黄金の瞳でアベルを見据え、ブラックリーはすらりと剣を抜いた。竜胆色の髪が風に揺れる。
「わかった。アイザック」
「始めましょうか、アベル様。」
にやりと笑い合って、二人は地面を蹴った。




