210.手に残る感触
アーチャー公爵邸には、当主エリオットからの手紙が届いていた。
忙しい中で綴ったのだろう、ほとんど走り書きのような字で、便箋の半分にも満たない短さだ。夫人であるディアドラはそれを読み、娘がオークス公爵夫妻を守るべく戦闘に加わっていた事を知った。
「奥様」
顔を上げると、オレンジ色のボブヘアが目に入る。
蒼白な顔で怯えた瞳をしているのは、娘シャロンの専属侍女、メリルだ。エリオットから手紙が届いた事を知り、シャロンの事だろうと察して聞きに来たのだ。
「シャロン様は…」
「無事よ。」
その一言でメリルの緊張が解け、しかし笑うでもなく、疲れたように息を吐いた。力がこもっていた肩は下がり、脚から力が抜けそうになりながら、ディアドラの前とあって持ち直す。そうしてようやく、力のない笑顔を浮かべた。
「何よりです。本当に……」
「襲撃は起こり、あの子達は敵と戦ったわ。」
「え…」
「騎士から「お陰で助かった」と報告があったそうよ。あの人がこちらにまで書いてくるのだから、世辞ではないのでしょうね。」
ディアドラの美しい顔に、普段の優しい微笑みはない。かつて騎士だった女がただ冷静に、手紙を読み取った結果を口にしている。
メリルは前で揃えていた手をぎゅっと握り、唾を飲み込んだ。
――シャロン様は、無事だった。……それは怪我がない、というだけのお話ですか?心は?…他の方々は?
「皆様、ご無事だったのですか?」
「敵味方ともに、死者はいないそうよ。ランドルフは重傷を負ったけれど、治癒で治る範囲。」
「…ランドルフさんが…」
「えぇ。」
シャロン達の同行が決まる前から、ランドルフはシローファの街へ行っていた。シャロンが来る事を聞いて、心配で様子を見に行ったのだろう。
彼がいなければ、重傷を負ったのはシャロンだったかもしれない。あるいは、敵の誰かをシャロンが手にかける可能性だってあったかもしれない。
苦い気持ちになって、メリルは口の中を弱く噛んだ。
「出番があったなら、無駄ではなかったという事。立ち竦まずに動けたという事…これで、あの子の同行は「子供のワガママ」ではなくなった。我が娘ながら、見事だわ。」
「奥様、差し出がましいようですが…もう、いいのではないでしょうか。」
「…何がかしら。」
「これ以上……人を傷つける方法を学ぶ必要は、ないのではありませんか。」
体術、剣術、攻撃としての魔法、暗器。
公爵家の令嬢には決して必要ではないレベルの武術を、シャロンは熱心に学んできた。危険な事は止めて欲しいが、護身術の範囲ならメリルも賛成だった。しかし本人が目指しているのはその先、自分を守るだけではなく、誰かを守るための力。
守られる立場に甘んじていればいいのに。
まるで、もっと強い誰かの後を追うように。
「理解、していなかったかしら。」
ディアドラは冷たく目を細めた。
苦しげに視線を彷徨わせている侍女に向け、わかりきった事を言う。
「あの子は守るための力を欲しているのであって、傷つける力を欲しているわけではない。」
「もちろんです。しかし結果として人を傷つけたら、それは」
「あの子自身の傷になる、とでも?」
ディアドラは先に否定の意思を示し、それによってメリルが口ごもった。まっさらな平穏を望んで話すには相手が悪い。
国を、王家を、民を守る為に剣を取り、血にも濡れるのが騎士の務め。
侯爵家の令嬢でありながら騎士隊長にまでなったディアドラが、人を守れるようになりたいという娘の意志を否定する事はない。
守る為に血を浴びた人間の気持ちなど、メリルよりもディアドラの方がわかっている。
――でも、シャロン様は奥様じゃない。
「まだ、幼いのですし…」
「だからどうしたの?この国で未成年が剣を手にしても、何も不思議じゃないわ。」
「奥様が騎士隊長様であった事はもちろん存じております。ですが、だからといって――」
「同じとは限らないと言いたいのね。そうよ」
長い睫毛を重ね合わせ、ディアドラは優美にため息を吐く。
メリルを見据えた薄紫の瞳は、まるで心の奥底を眺めているかのようだった。
「それがわかるなら控えなさい、メリル・カーソン。あの子は貴女の妹ではない。」
メリルはびくりと肩を揺らして目を見開いた。
身体は硬直し、底冷えするような感覚が全身を包んでいく。核心を突かれたのだと理解した。
「…わた、しは……」
そんなつもりじゃなかった。
つい口から出そうになる言葉を飲み込む。今まで自覚がなかったとしても、言えば嘘になると思ったから。よろめくように一歩後ずさったメリルから視線を外して、ディアドラはエリオットからの手紙を机に置いた。
「事が終わったのだから、午後には戻るでしょう。予定をキャンセルして、ここにいる事にするわ。頑張った娘を迎えてあげなくてはね。」
会う予定だったのは馴染みの相手なので、断り文句もそう難しくはない。
床に目を落として立ち尽くす侍女を振り返り、軽く腕組みをした。そんな顔で迎えに出られては、帰ってきた娘は心配するし気を遣うだろう。
「あの子の精神に負担をかけたくないのなら、貴女こそしっかりなさい。」
「…はい、奥様。」
メリルは重ねた手をぐっと握り締め、背筋を伸ばして顔を上げた。
切り替えの手本を見せるように、ディアドラはいつもの柔らかい微笑みに戻る。
「下がっていいわ。」
「失礼致します。」
公爵家の侍女らしく完璧な礼をして、メリルはディアドラの部屋を辞した。
二階の廊下を歩き、ポケットから出した鍵で部屋の扉を開ける。
シャロンの自室には、当然ながら誰もいなかった。
『進んで手ェ汚せとは言わねぇが、……過保護なんじゃねーの。』
以前言われたことが頭に浮かぶ。
シャロンを危険から遠ざけるのではなく、共に戦うことを選んだ青年の言葉。
屋敷に来た時はひたすら態度が悪いだけの盗人だったのに、一年にも満たない間でアーチャー家の信頼を得て、今回も従者としてお嬢様の護衛を任された。
ダン・ラドフォード。
メリルより九つも年下のくせして、彼は時々、妙にわかったような口をきく。専属侍女としてずっとシャロンに仕えてきたメリルよりも、彼女に近いと思う時がある。
『お嬢、またな。悪い事したくなったら俺に言え。』
シャロンが得た結果を見れば、ダンが正しかったのかもしれない。
しかしメリルが望む通りに鍛錬をやめて、危険に首を突っ込まずにいれば、シャロンは昨日も今日も屋敷で穏やかに暮らしていただろう。暗殺者と戦う事もなく、命を落とす危険性もなく、ランドルフだって怪我をしなかったかもしれない。
その場合オークス公爵夫妻や同行した騎士達がどうなったかはわからないが、それはシャロンが責任を感じる必要のないものだ。
――護身術が使えたら、もう充分じゃありませんか。
どうか守られていてほしいと、メリルは思う。
何年も騎士として戦ったディアドラとシャロンでは違うのだから。
――シャロン様は、優しいから。だから、たとえ誰かを守るためであっても、人を殺してしまったら
『おねえちゃん……わたし、もうだめ。』
閉じたカーテンの隙間から、太陽の光が差している。
しかしメリルのオレンジ色の瞳には、大きく開いた窓とはためくカーテンが映っていた。幅の狭い額縁で頼りなく立って振り返る、ぼろぼろと泣いている女の子の姿が。
『きもちわるいのが、きえないの。ずっと。』
『ダメ!ゆっくり下りて、こっちへ来なさい!ね、良い子だから!』
『てが、きたないの…ごめんなさい、おねえちゃん』
『待って!!』
夕日のようなオレンジ色の三つ編みが揺れていた。
何もついていない綺麗な手をしきりにこすり合わせ、女の子は顔を歪める。幼いメリルは必死に手を伸ばして駆け寄ろうとした。広い部屋の入口から窓まで、それは十歳の彼女には遠い距離だった。
『おとうさんをころして、ごめんなさい。』
名前を叫んだ。
妹の身体はふわりと外の光の中へ消えていって、メリルが窓にたどり着く頃には、誰もいなかった。外から嫌な音が聞こえ、人の悲鳴が続く。
メリルの父は酒乱だった。
普段とても優しいのに、たまに飲む酒が大好きでやめられない。たとえ翌朝部屋が荒らされ、長女の身体だけが青痣だらけになっていても。泣きながら謝って二度としないと誓って、またやるのだ。
父が酒を飲む晩、メリルは妹に絶対に部屋から出るなとキツく言いつけていた。
酔った父の相手は自分がして、稀に妹の存在を思い出された時は脚にしがみついてでも行かせない。それでも食器の割れる音が、父の罵声が、物が倒される音が、姉のくぐもった悲鳴が、布団にくるまる妹の耳には届いていた。
姉が傷だらけになりながら庇ってくれている事を、彼女は理解していた。
そしてとうとう言いつけを破り、
『おねえちゃんを、はなして……!』
気絶した姉を馬乗りになって殴りつける父に、酒瓶を振り下ろした。
本能的にわかっていた、明確な力の差。
痛みに呻いて倒れ込んだ父を、酒瓶を握り締めて夢中で殴り続けた。怖くて怖くて、目を閉じて、それ以外の方法も相手がどうなったかもわからず、ただ声が消えるまで、ずっと……。
妹が罪に問われる事はなかった。
しかし小さな手に残った感触が、恐る恐る開いた目に映った赤い光景が、彼女の心を蝕んでいった。酒さえ飲まなければ、優しい父だったのだ。事情を知らない大人が妹を白い目で見る事もあった。
そうして彼女は窓から消えた。
メリルは今後の話をするために父の兄弟に会い、たまたまそこを訪れた若き公爵、エリオット・アーチャーと鉢合わせる。もう十五年近く昔の話だ。
人を殺す時、手に残る感触。
それに耐えきれずに妹は自殺した。
メリルはその感触を知らない。どれほど恐ろしいものか、悍ましいものか、わからない。騎士になる人々はきっと、それをあらかじめ覚悟しているのだろう。
しかし、シャロンは違う。
傷つけるために剣を取ったわけではないからこそ、いつか敵を殺してしまった時――妹と同じように、心を病んでしまったら。また、止められなかったら。
――それが、怖い。
ディアドラを味方につけ、エリオットの事すら説き伏せて、シャロンはダンを連れて出て行った。長い付き合いといっても、あくまでただの侍女であるメリルには、彼女を止める力など無い。
心が折れた時、寄り添えるのか。
守れるのか。
自信がなかった。
静かな部屋をじっと見つめて、メリルは肩を落とす。
今日の午後、シャロンはどんな顔で帰ってくるのだろうか。戦いの記憶を思い出して怖がっているか、死者が出なかった安堵に笑っているか、起きた出来事に頭がついていかずぼーっとしているか。
「……どうだったとしても、疲れていらっしゃるに決まってますね…。」
誰にも届かない呟きを零して、メリルは一つ深呼吸をした。きゅっと唇を引き結び、前を見据えるようにして顔を上げる。
ディアドラの言う通り、しっかりしなくてはならない。
――どんな戦いを経験されたにせよ……シャロン様がご無事なら、それが一番なのだから。
心を覆う不安を悟られないように。
メリルは口角を上げ、背筋を伸ばした。




