209.誰かにとって計算外
「何だそりゃ……。」
時間をかけて兄の話を理解し、ダスティン・オークスは頭を抱えて俯いた。
ツーブロックに刈り上げた明るい茶髪、兄と同じ灰色の瞳。普段髭を短く小綺麗に整えている顎は、今は無精髭まで生えてしまっている。
取り調べが進む中で次々と教えられた自分の所業は、とうに頭の許容量を超えていた。
オークス公爵領の複数の街で分散して行われていた、違法薬物の製造。他領へそれを運んでは売りさばき、表向きの帳簿ではまったくわからないよう隠蔽されていたこと。現場で作業にあたっていた者の殆どが、それを違法だとは認識していなかった。
しかし責任者の立場である数名は事情を理解し、また指示を与えた人物としてダスティン・オークスの名と人相を証言したのだ。
取調室のテーブルに置いた両手を組み、パーシヴァル・オークス公爵は切れ長の吊り目で正面に座る弟を、その手首に嵌った黒水晶の手枷を見つめる。
パーシヴァルは少し疲れがにじみ出ているものの、明るい茶色をした短髪はいつも通り几帳面に後ろへ流し、唇の上に生やした髭も整えられていた。自分が弱った様子を見せては、弟はさらに自分を責める。それをよく理解していた。
ダスティン・オークスの精神が完全に崩壊すれば、真相は闇に消えるだろう。
「お前、記憶はどこまであるんだ?」
「……わからない…」
「《ハート》を最初に摂取したのはいつか、わかるか?お前の人格が切り替わるスイッチだ」
二重人格。
それが、気絶から目覚めたダスティンを騎士団と医師達で調べた結果だった。
違法薬物《ハート》の関与が疑われた事から、ダスティンに見せてみたところ、妙な反応を得た。まるで強い眠気に襲われたかのように意識が怪しくなるのに、薬へ手を伸ばすのだ。
パーシヴァルの許可のもと摂取させ、そこではっきりと人格の切り替わりを確認した。
『…私は、ハジメマシテとでも言うべきか?兄貴。』
もう一人のダスティン――パーシヴァル達の殺害を企み、チェスターと戦った人物――はすべての記憶を有しているようだったが、本来のダスティンはもう一人になっている間の記憶を持たない。
ダスティンが「自分が二重人格者だ」という自覚を得るのは、《ハート》を口にしてから人格が切り替わるまでの僅かな時間だけだった。それも、自分を取り戻す頃には忘れてしまう。
兄や騎士から話を聞いて、ようやく知るに至ったのだ。
「最初に《ハート》を手に入れたのは、たぶん……兄上が結婚した頃だ。」
頭を押さえて俯いたまま、ダスティンが零す。
「俺、は…酒をたくさん飲んで、酔った勢いで娼館に行って……そこで買った女に、よく眠れる薬だって、アレを貰った。本当によく眠れたから、時々寝る前に使うようになって……いつの間にか、毎日……」
眠る前に、あの薬をひとすくい。
時々、妙な事はあった。
寝る前と服が違うように思ったり、物が移動していたり、でもそれは記憶違いだろう。
知らない男に会釈されたり、見た事もない相手が怯えたように逃げ去ったり、相手の勘違いだろう。
「でも、本当は……俺はきっと、気付かないフリをしてたんだ。勘違いにしたって頻度が高かったし、おかしいって思うべきタイミングはあったはずだ……でも、見ないフリをして。そのせいでこうなった…」
自分は何かおかしいかもしれない。
そんなはずはないとダスティンは考えて、酒でも飲み過ぎたんだろうと思って、目をそらした。
「兄上……俺よりずっと頭が良くて、強くて、楽しくて…誰からも認められて、自分の家族があって、何もかも持ってる兄上……貴方には」
涙を堪えるように顔をしかめ、髪をぐしゃりと掻き乱したダスティンはパーシヴァルを見つめた。無表情に見える兄を。ひどく悲しい目でこちらを見る、兄を。
自分の胸に渦巻く感情の正体を探ろうとして、ダスティンはふと、チェスターと二人で話した夜の事を思い出した。
『俺は……馬鹿なんだよ。チェスター』
チェスターが去った後で、いつも通り薬を口にしてから自分が零した言葉。
『だから……なぁ、頼む。兄上、には…』
言わないでほしい。
どうか、どうか。
「貴方には……知られたくなかった。」
瞬いた目から涙が零れた。
捕らわれてから何度泣いただろうか、涙を流したって現実は何も変わらないのに。
「俺がもし、何かヤバイ事になってるなら…兄上達に迷惑をかける。俺なんかのせいで、俺が全部…何もかも、出来の悪い馬鹿だから……!」
「ダスティン…すまない。俺がお前の事にちゃんと気付くべきだった。」
「兄上は悪くない、俺が悪いんだ。俺なんて死んだ方がいいって思った事もあったのに。すぐそうしてればこんな、」
パーシヴァルの拳がダスティンの頬にめり込んだ。
誰が止める間もなく、大きな音を立ててダスティンが椅子から転げ落ちる。立ち会っていた騎士が慌ててダスティンと立ち上がったパーシヴァルの間に入ったが、パーシヴァルは強引に騎士をどけた。ダスティンは上半身を起こし、座り込んだ状態で兄を見上げる。
「死んでいいわけがないだろう。それでは俺は、何も知らず終いだったんだ。」
「けど、兄上…」
「もう一人のお前にも会ったが、アイツだけでここまで巧妙に全てを隠し通せたとは思えない。二重人格である事を知っている誰かが、もう一人のお前に指示を出していた人物がいたはずだ。」
パーシヴァルはダスティンの前に屈み、胸倉を掴んで軽く引き寄せた。
灰色の目と目が合う。
「アイツが話さない以上、お前が思い出せる限り全ての記憶を話してもらう。どれだけ時間がかかったとしてもだ。」
「兄上……けど、もしそんな奴いなかったら…俺を処刑した方が、オークス家の」
「もう一発いっておくか」
「わかった、ごめんもう言わないって!」
拳を固く握って振りかぶったパーシヴァルは、ダスティンにゆっくり頷いてみせてから手を離した。ダスティンは床に座ったまま大きく息を吐き、じんじんと痛む頬を擦りながら、椅子に座り直した兄を見上げる。
「……あ…」
自分が床にいて、椅子に座った誰かを見ている光景。
距離も部屋の雰囲気もまったく違うけれど、最近見た景色と重なって見えた。記憶が蘇る。
「…そういえば、あいつ…兄上!」
ダスティンは急いで立ち上がり自分も椅子に座ると、手枷を嵌めたままの腕をテーブルに置いて真正面からパーシヴァルを見た。
「兄上達を襲ったのは、俺と…ゴーグルとスカーフで顔を隠した少年、だったよな?そいつもしかして、声がおかしくなかったか?」
「知ってるのか。」
「短い間だったけど、そいつと話した気が…いや、確かに話した。目が覚めたら知らない部屋で、そいつと、扉に見張りがいて……」
記憶を手繰ろうと視線をあちこちにはしらせ、ダスティンはきつく眉根を寄せる。
パチパチと音を立てる暖炉、テーブルに置かれたフルーツ盛りから、少年は一つリンゴを取って齧っていた。スカーフの下、口元に楽しそうな笑顔を浮かべて。
『今ってどこまで覚えてるんだ?オレの事忘れたのはわかったからさ。教えてくれよ、あんたは誰の手下?』
「どこまで覚えてるかって……そいつじゃなくて、《俺》は誰の手下なのか聞かれた。」
光の魔法だけが頼りの薄暗い夜のバサム山ではなく、明るい部屋の中で。ダスティンは浅黒い肌をした手が、空中に浮いた水をぐちゃぐちゃと掻き乱した光景を覚えている。
少年は《ハート》を投げてよこした。
ダスティンが二重人格である事も、その切り替わりに何が必要かも知っていたのだ。
『オレは仕事を引き受けただけなんだから、抗議したいなら依頼人に言えよなー。』
「それで……自分は仕事を受けただけだって、確かに言ってた。抗議したいならアイツに言え、って。」
「もう一人のお前は誰かの手下、か…」
「問題は、それが誰なのかだよな。あぁクソ…俺の記憶さえ…」
「お前がその少年に会ったのは初めてか?」
「今、思い出せる限りでは初めてだ……でも薬で変えただろうあの声を、どっか聞いたような気はした。話ぶりからしても、たぶん俺じゃない時に…。」
もう一人の人格になっている間の事は、ダスティンにはわからない。
パーシヴァルは考え込むようにテーブルの上で手を組んだ。
「《誰か》にとって……少年とお前が会ったのは、計算外だったかもしれないな。」
少年のスキルによって固定されると、呼吸できない事に加えて周りの音が聞こえない。
よってバサム山の戦いにおける少年の言動については主に、護衛騎士リビー・エッカートやシャロン・アーチャー公爵令嬢が証言した。「テキトー」だの「遊ぼう」だのといった言葉に加え、仮面の男達という戦力を最後にしか使わなかったこと。
それだけでも、綿密な計画や任務の完遂にこだわる人物で無いだろう事はわかる。
「ダスティン、お前はこれから狙われるかもしれない。」
「…あぁ。もう一人の俺がその誰かの正体を知ってるなら……消したいよな、きっと。」
「俺の部下をつける。絶対にやらせはしない。」
「兄上は…そいつに心当たりがあるのか?」
ダスティンの別人格には確かに、パーシヴァルへの悪意があった。
彼に様々な計画を指示した誰かは決して、「手伝ってやっただけ」というわけではないだろう。その誰かにも利益があったはずだ。
本来は相手の抵抗を許さないだろうあの少年に仕事を頼むには、相当な依頼料が必要だと思われる。それを支払う事ができ、少年の情報を知るほど裏の世界に精通し、巧妙かつ狡猾な計画を作る人物。
そして王都襲撃事件とバサム山、どちらも魔獣が確認されている。
狩猟の時は《影の女神》を主神とする宗教団体、《夜教》が何らかの理由で第一王子ウィルフレッドを狙ったと推測された。しかし騎士団長ティム・クロムウェルの報告によれば、今回ウィルフレッドはまったくもって安全だったという。
パーシヴァルには一人、もしや、と思う人物の心当たりがあった。
今のところ魔獣や《夜教》との関連は見つけられていないが、自分を邪魔に思っているだろう事は随分と昔からわかっている。第二王子派の筆頭であるため、第一王子に対して悪意がないとも言えなかった。
「…長年、調べ切れていない男ならいる。」
影が見えたと思えばすぐに姿を消す。
証拠も証人も、跡形もなく。
確かな仕事ぶりで国の重職に就きながら、怪しい噂を纏い、けれどいずれも核心には至らない。
ジョシュア・ニクソン公爵。
長い紺色の髪に水色の瞳。
自身より六つ年下である法務大臣の姿を思い浮かべ、パーシヴァルは僅かに目を細めた。




