205.幻想を抱かずに
明け方、バターフィールドの《使い魔》は王都へ帰ってきた。
十三番隊の騎士、メルヴィン・ベアードからの長い報告書を携えて。
誰もが「まずありえない」と考えていた、公爵一行および隠密二班で対処不能な事態。恐ろしい制圧能力を持つ稀有なスキル。ビビアナ・オークス公爵夫人に後遺症が残ったが、ダスティン・オークスは捕縛し、死亡者がいないこと。
ただし、スキルを使っていた少年とその仲間は正体不明であり、逃亡したこと。内密に同行していた、リビー・エッカートを始めとする者達のこと。
報告を受け、国王や特務大臣も含めた緊急会議が行われた。
誰もがその内容に衝撃を受けつつも、増援の派遣は速やかに決定される。王都周辺に潜伏していた敵は既に騎士団が捕らえていたのだ。
魔獣が出た以上、敵方は狩猟と同様に《夜教》の関与が疑われる。
ゆえに自殺の危険性も考慮し、斥候が潜伏場所を数か所に絞り込んだ後で一斉に行動不能に陥らせるという作戦が決行された。
結果捕えたのは、狩猟の後で行方をくらませていた令嬢である。
コテージでロイを始めとする騎士達が魔獣と戦う様子を眺め、黄色い声をあげていたうちの一人。魔獣の関わる案件に二度携わった人物となるため、貴重な情報源として厳重に身柄を拘束された。
そして、昼過ぎ。
薄緑の髪をハーフアップにした騎士、ロイ・ダルトンは、第二王子アベルに呼び出されて彼の部屋へ来ていた。
「防音ですか。確かに彼女、すごい大声でしたね。」
これから面談する相手を思い浮かべ、ロイは長い指を自分の顎にあてる。
殺されると叫んで泣いていた少女。流石に一晩経って、こちらに害意がない事くらいはわかったはずと思いたいところだ。
「あぁ。それに君影の話は貴重だから、決して外に漏らさない形を取りたい。内側に置くのは僕とあの二人だけだ」
アベルが身支度を整えながら言った内容に、ロイが訝しげに僅か、眉を顰める。
風の魔法による防音をするのは構わない。
しかし内側が三人だけという事は、ロイ自身も防音効果の外。話を聞くなという事だ。今更、信用できないとも言わないだろうに。
「…どのようなお話を?」
「ちょっとした確認だ。」
黒地に金の刺繍が入った上着に袖を通すアベルは、珍しく帯剣ベルトをつけていない。愛用の剣は昨日折られたばかりだ。今から会う、君影国の戦士の手によって。
「お前なら言い触らさないとわかってるから頼んでる。」
念押しのような言葉。
内緒話をしていた、などと言い触らす心配のない人物に、それでも聞かせるつもりのないこと。第二王子の横顔は普段通り涼しげなようでいて、どの表情はどこか重い。
ロイは顎に添えていた手を下ろし、アベルの正面に回った。金色の瞳が自分を見上げるのを待って、静かに問う。
「それは……貴方がいつか姿を消してしまわれる事と、関係がありますか。」
アベルは否定しない。
瞬きと共に視線を外し、懐中時計で時刻を確認する。
「そろそろ行こうか。」
「まだ、あの時の褒美を賜っていませんでしたね。我が主」
部屋の入口へ歩き出そうとしたアベルが、足を止める。
『ロイ、お前は何がいい。』
『フフ、《保留》でお願い致します。いつか、思いついた時に叶えて頂きたく。』
その場に跪いて、ロイは彼を見上げた。
特別成果を上げたわけでもない、あくまでアベルの厚意でしかない褒美だ。望んだところで強制力など元より無く、実現するかは本人の意向による。先程の質問に言葉を返さなかった時点で、事情を話すつもりはないのだろう。
それでも聞く機会の一つも無しにこちらを無視されては困ると、ロイは願いを口にする。
「貴方が何をお考えなのか、知る許可を。」
否定しない事が答え。
ロイが以前から察していた通り、アベルはいずれ姿を消すつもりでいる。
それはなぜなのか、どうして自分達にまで隠すのか。君影国に一体何の関わりがあるのか。
アベルは小さく息を吐き、ロイに向き直った。
金色の瞳は一見して星と呼ぶに相応しい輝きであるのに、どこか底知れぬ深さがある。
「では仮の話として聞くけど、ロイ。お前」
突き放すような、冷えた目をしていた。
「俺を殺せと命じたら、間髪を入れずに殺せるか。」
思わず息を呑む。
黙ったら終わりだと直感した。
「事前に…私が納得するだけの理由を、お聞かせ願えるのであれば。」
「殺さずに済む方法があるなどという幻想を抱かず、誰に誤解され汚名を被るとしてもなお、剣を抜く事ができるか。」
淡々と話す声は、それが正しいと信じている。
「俺が自らこの身に刃を立てる時、仕損じがないかを見張れるか。致命傷に至らないと判断したならお前が俺を殺せ。首を切るでも心臓を穿つでもいい。決して逃すな」
甘かった。
自分は全く見当違いの未来を眺めていたのだと、ロイは理解する。
「――それができないなら、教える意味はない。」
国を出るつもりだと、誰にも言わずに行くのだろうと、そんな話ではなかったのだ。
願わくばリビーと自分も共に、などと。
叶うはずもなかった。
死ぬつもりなのだ、この方は。
絶句している護衛騎士を見つめ、アベルは切れ長の目を細めて視線を部屋の入口へ向けた。会話などなかったかのように歩き出す。
ロイを置き去りにして、部屋を出て行こうとする。一人で。
「……アベル様、」
「ありがとう。ロイ」
振り返らずに呟いて、アベルは扉を開けた。廊下と通じてしまっては話を続けられるはずもない。
もう、ここまでだ。ロイは拳を握り、黙って立ち上がった。
せめて今は、後を追うために。
◇
「嫌じゃぁあああっ!!」
応接室から悲鳴のような叫びが聞こえてくる。
扉の横に立っている騎士は、廊下を歩いてきたアベル達を見て気まずそうに笑った。肩につかない長さの群青色の髪を耳にかけ、濃紺の瞳を抱く目は鋭い。一番隊のマイケル・モーベスだ。
「殿下、その…先ほどここを通った団長から、伝言です。」
「何。」
「先に謝っておきます。すみません。……だそうです。」
アベルは訝しげに眉を顰めた。部屋の中から昨日の少女、エリの声が聞こえてくる。
「ぁ、あんな化け物に初めてを奪われるくらいなら!惚れた男に捧げて死んでやるのじゃ~!うわぁああん!!」
「ンブフッ!」
アベルの後ろにいたロイが吹き出した。
第二王子殿下は眉間に皺を寄せ、唇を引き結んでいる。部屋の中からはヴェンが宥める声も聞こえているが、そちらは低く普通の声量なので、エリの声ばかりが廊下までよく届いていた。
「あの黒いの、やっぱりわらわを食べるつもりなんじゃ!路地裏で襲ってきた時から、狙われて…ひっぐ、うぇえ、わらわが、わらわが見目麗しい淑女であったばっかりに~~!!」
「……どういう事かな。」
腕組みをして、一つため息を吐いてからアベルが聞いた。
モーベスは苦い顔で頭を掻き、応接室の扉を親指で指し示す。廊下の角からは侍女数人が顔を出してこちらを見ていたが、目が合うと一瞬で顔を引っ込めた。
「団長がここの予約取る時、殿下の見合いって名目で取ったみたいで……あの娘、侍女がそれ話してるの聞いちゃったらしいんですよね。」
「ン゛ッ、フフ…道理でこの騒ぎに。」
「何故よりによって見合いなどと……」
「狩猟は潰れましたし、女神祭ではアーチャー公爵のご令嬢だけ噂になったでしょう。団長も殿下が色々つつかれてるのをご存知でしたから、気を遣ったのではないでしょうか。」
悪気はなかったらしいと知り、また先程の伝言からもそれは確かなのだろうと察してアベルは難しい顔で目を閉じた。
君影国の娘からすれば、「化け物」とまで罵る見た目の王子が見合いの席を設けてきたのだ。あの幼さならば、確かに恐怖で泣き叫んでもおかしくはない。できればもう少し、静かにしていてほしかったが。
ロイは頬が緩むのを隠しもせず、横からひそひそとアベルに話しかける。
「これ、婚約が成立したら」
「しない。」
「力ずくで言う事を聞かせたとか、既成事実がどう…などと、良くない噂が立ちそうですね。」
「…くだらない…」
心底うんざりしたように吐き捨てて、アベルは扉の前に立った。
モーベスが静かに一礼し、扉をノックする。中から「ヒィ!」と悲鳴が聞こえた。
「第二王子、アベル殿下がいらっしゃいました。よろしいでしょうか。」
「……どうぞ。」
答えたのは低い男の声。
アベル達が部屋に入ると、ずび、と鼻をすすった少女が護衛の後ろに隠れた。モーベスは廊下に残り、扉を閉める。
ローテーブルを挟んで向かい合わせに設置された三人掛けのソファ。
その裏に身長百九十センチ近い男、護衛のヴェンが立っている。彼の瞳は赤く、短い黒髪に手ぬぐいを巻きつけ、頭の左側で縛っていた。隠し持っていた武器も全て取り上げられ、ただ険しい表情でアベル達を見つめている。
君影国の姫、エリはヴェンの服を掴み、その後ろに隠れるようにして立っていた。内巻きの黒髪は後ろの低い位置に二つ縛りで、蜂蜜色の猫目をしている。色白の肌には血の気がなく、恐怖に染まった目はアベルを見ているようでいて、しかし決して目が合わない。
下手に距離を詰める事はせず、アベルは両手を広げて自分も剣を持っていない事を示した。
「昨日は手荒な真似をしてすまなかった。話を聞かせてもらう前に、こちらの騎士に防音の魔法をかけさせたい。構わないかな」
「防音?」
「風の魔法です。アベル様と貴方がた以外、話が聞こえないように致します。」
片手を胸にあてて礼をし、ロイがにこやかに説明する。
ヴェンは訝しげにアベルを見やった。
「言っておきますが、貴方がたを殺すつもりなら、拘束するつもりなら、とうにしております。フフ……王子殿下の命を狙った曲者ではなく、客人として対応させて頂いたのも全て、殿下の指示ですので。無礼はなさいませんように。」
「……わかっている。」
問答無用にできるところを、敢えて聞いてやっているのだと。
ロイの冷笑を受けて、ヴェンはゆっくりと頷いた。
「防音とやら、してもらって構わない。」
「では、宣言。風は彼らを囲い、音をその場へ留めるでしょう。」
部屋の中に、大きく球体を作るようにして風が生まれる。
目には見えなくとも明らかに空気が変わった事に、ヴェンとエリは落ち着かない様子で周囲をちらりと見回した。ロイは黙ってアベルに向き直り、一礼する。
黒地に金の刺繍を施した衣服。
少し癖のある黒髪に、全てを見透かすような金の瞳。ツイーディア王国の第二王子アベルは自らの騎士に一つ頷き返すと、風の境界を越えて中へと踏み入った。
距離が近付く事が恐ろしくてエリは無意識に後ずさり、ヴェンの服を引く。
警戒する二人を気遣ってか、アベルはソファよりも手前で立ち止まった。
「僕は魔力がないから魔法は使えない。剣もないし、ここで危害を加える気はないよ。」
「…見合いというのは、何かの誤解ですか?」
「そうだね。僕にそんなつもりはない。」
ヴェンは目をこらしてアベルを観察したが、黒い霧の向こうに霞み、表情の機微はよく見えない。エリは明らかにほっとして息を吐いたが、ヴェンの服を掴む手が緩む事はなかった。
「君達に何が見えているのかを教えてほしい。…話を聞かせてもらえるかな。」
こくり、喉が鳴る。
エリの細い首から聞こえた音だ。彼女は口を開こうとしたヴェンを止め、ゆっくりと一歩横にずれて、正面に立つ少年を見据えた。
「おぬし、本当にまだ……奪われておらぬのじゃな。」




