202.得られる物は何もない
街の路地裏に、剣戟の音が響いていた。
「はぁ、はぁ……ヴェン…!」
必死に呼吸を落ち着けようと胸を押さえながら、エリは蜂蜜色の瞳を涙に濡らして戦いを見守っている。エリがまともに動けるようにさえなれば、最悪、ヴェンは凶星の始末を諦めて逃げられるだろう。
しかしそれは見つかっていないエリの兄、アロイスが凶星に殺される可能性を許すということ。ヴェンの性格上、そんな事は決してしないとエリにはわかっていた。
ヴェンの方が背も高く屈強な身体つきをしているのに、凶星は地を蹴り壁を蹴り、柔軟に動き回ってはヴェンの攻撃を防ぎ、流し、弾いている。
二本の大刀を操るヴェンに対し、剣一本。時には手足でヴェンの腕を打ち付け、思うように攻撃できないようにしていた。
戦闘経験のないエリには二人の応酬などよくわからず、ただヴェンの攻撃が通っていない事、どちらもまだ血を流していない事だけ認識している。しかし、それもいつ変わるかわからない。
「そっち持て。」
「はいよ」
不意に呑気なやり取りが聞こえて、エリは信じられない気持ちで声のした方を見る。
ツイーディア王国に来てもう何度も見かけた、騎士団の制服。それに身を包んだ男達が、凶星が気絶させた六人をどこかへ運んでいく所だった。
「あ、ぇ……?」
何をしているのか。
その男達をここから逃がすくらいなら、ヴェンを、自分を助けてはくれないのか。
エリはそう考え、《凶星》はこの国の王子である事を思い出す。騎士団はその意に沿うという事か。
――ヴェンを、見殺しにするのか…
じわりと涙が浮かんだ。
騎士の一人はエリと目が合うと、なぜか励ますように笑う。そして眉を顰めてエリの横をじろりと見やった。何を見たのだろうと無意識に目をやると、
「おやおや、怒られちゃいました。」
「ヒッ!?」
いつの間に、一体いつからそこにいたのか。
薄緑色の前髪を後ろへ流してハーフアップにした大男が、エリの横に屈んでいる。服を見るに騎士のようだが、にこにこと目を閉じて微笑んだまま、何かする様子はない。
「く…!」
腹部めがけて振った刃を蹴り上げられて顔を歪めながら、ヴェンは困惑していた。
エリは捕らわれていないし傷つけられてもいない。倒れていた一般人らしき男達が戦いの場から運び出されていく。鍔迫り合いを弾いて距離を取った隙に周囲を確認すれば、小道の先にいる野次馬を騎士が止めていた。
――何だ、この状況は。
凶星は決して、防御一辺倒ではない。ヴェンに攻撃を返してきている。
しかしいずれも致命傷狙いではなく、食らえば眩暈か、下手すれば気絶しかねないものばかり。
凶星と切り結ぶ度に迫る黒く悍ましい霧に冷や汗が止まらない。自分が意識を落とせばエリがどうなるかわからない。
だが、騎士は何をしているのか。凶星を止めるでも、手伝うでもなく。
エリはヴェンより背が高いかもしれない騎士が恐ろしかったが、拳を握り、こくりと喉を鳴らして尋ねた。
「お…おぬしら、騎士なのだろう?人を守るのだろう!?なぜ助けてくれぬのじゃ。あれが王子だからか?」
「どういう意味でしょうか、お嬢さん。貴女はあの二刀使いの男に襲われ、殺されると叫んでいたのでは?」
「なッ!?」
「ご安心を。見ていればすぐ――どうしました?」
振り下ろそうとした平手を容易く受け止められ、エリは悔しさと焦りで真っ赤になりながら叫ぶ。
「馬鹿!馬鹿者ッ!!わらわを襲ったのは小さい方じゃ!ヴェンはわらわの従者じゃっ!!」
「襲った?あの方が、貴女を。ンッフフ、何かの間違いでは?」
「違うものか!男どもが倒され、次はわらわの番だったのじゃ!!」
「……なるほど、道理で手加減を。」
長身の騎士は立ち上がると、口の横に手を添えた。激しく剣と刀をぶつけ合う二人の方へのんびりと声をかける。
「そこの方。どうやら誤解があるようで、ひとまず止まって頂けませんか。」
「ッ、何を馬鹿な!貴殿らには申し訳ないが、ここで見逃すわけには…!」
「どの道勝てないでしょう、貴方。」
事実を突いた騎士の一言に顔を歪め、ヴェンは歯を食いしばった。
黒い霧に覆われた身体を見ればわかる。敵わなくとも、常人に理解されずとも、たとえ刺し違えようともここで潰さなくてはならない相手だった。
しかし恐ろしいまでの反射速度と剛力に立ち向かう術はなく、一向にこちらの命を狙ってこない少年に対し、違和感を覚えているのもまた、確かで。
――いや、太刀筋に迷いが出ては意味も無し!攻める!!
ヴェンは目を見開き、相手が使う剣に狙いを定める。刀を握る手に力を込め、一点に全てを集中させて攻撃を放ち、受けさせた。
「はあッ!!」
バギン!
「あ」
第二王子アベルの護衛騎士――ロイ・ダルトンは、声を漏らした。彼にしては珍しく一切の笑みが消え、万一にも戦いの余波が及ばないよう気にするべき少女の事も、一瞬忘れている。
それはまずいですね、と考えた時には既に、事は終わっていた。
ヴェンは今なら押し切れると確信した。
相手の剣は真っ二つに折れ、動きは止まっており、武器折りの一撃はそのまま少年の身体へ迫っている。王子殺しとしてツイーディア王国から大罪人とされようが、処刑されようが、後の世のためならば命は惜しくなかった。
――ただ、アロイス。お前と再会できずに終えるのは、残念だが……
走馬灯のように友を懐かしんだ次の瞬間、全身を刺し貫くような殺気がヴェンを襲った。
パラパラと、金属片が落ちていく。
「――…………、失礼した。」
誰に言ったのか、ヴェンの胸倉を左手だけで掴んだまま、少年――ツイーディア王国第二王子、アベルは低い声で呟いた。
気絶したヴェンはだらりと両足を地面に引きずり、力なく垂れ下がった手から大刀の柄が落ちる。二本とも刀身は途中から砕け散っていた。
アベルは瞬き、ヴェンを粗雑に下ろして首に手をあてる。心臓近くを殴ったので下手をすると止まったかと懸念したが、脈はあった。殺さずに済んだらしい。一つ頷いて立ち上がる。
剣を折られて反射的に刀身ごと殴った瞬間理性が働き、ヴェンの身体が飛んでいく前に胸倉を掴んで引き戻せたのがよかった。飛んで何かに激突していたらそれこそ死んでいただろう。
目撃者のいなかった年末の戦いと違って、激突に至る前に魔法で失速させるわけにはいかなかったのだから。
「……剣先は。」
「こちらに。」
周囲を見回すまでもなく、ロイが差し出した。指紋などがつかないよう布の上に乗せてある。
アベルは右手に握ったままの、半分から先がない剣と共にそれを見つめた。
沈黙が満ちている。
エリはアベルの殺気にあてられて既に気絶し、腰を抜かした者がいながらも騎士達は遠巻きにこちらを窺い、ヴェンを捕縛すべきか、まだ近付かないでいるべきか決めかねていた。
「罪状はいかがしますか?」
ロイが薄く微笑んで聞く。
アベルに対する傷害未遂、殺害未遂。誤解があったらしいとはいえ、エリはアベルを「王子」と呼んだ。誰かわかった上で剣を折る程の敵意を向けたなら、申し開きはできないだろう。
「………はぁ。」
ため息を吐いて、アベルは目を閉じた。
相手の動揺、困惑、殺して良いのかという疑問、迷い、全て伝わってきていた。恐らくもう少しで、ヴェンはアベルの言葉を聞くぐらいの耳を持てただろう。
目を開き、折れた剣を鞘に戻す。
「無罪でいい。剣が折れたのは俺の力不足だ」
「…貴方がそう決めたのであれば、そのように。我が主」
ロイは丁寧に礼をし、剣先を布で包んだ。
ちらりとヴェンを見下ろした眼差しが冷え切っていたのは、仕方ないだろう。誤解があろうとなかろうと、アベルに殺意を向けた事は変わりない。
ただ常に閉じたようでいる彼の事であるので、アベルが見ていない以上、それに気付いた者はいなかった。
「無罪と言いますと、この二人はいかがしましょう。牢…いえ、詰所の救護室がよろしいですか?」
エリとヴェン、それぞれに駆け寄りながら騎士が聞く。
武器を失って気絶しているとはいえ、ヴェンには念のために縄がかけられていた。運ぶ途中で目を覚ましたら暴れかねない。
自分に会わなければ恐らく、彼らはこんな騒ぎを起こさなかったはずだとアベルは考える。
『ヴェン、これが…こやつが全て目覚めたら…』
『ッ――今ここで、殺します!!』
見るなり恐怖に顔を歪めた事といい、問答無用で襲い掛かってきた事といい、長年アベルが抱いていた確信はやはり、正しかった。
――壊れる前に、死ななければならない。
彼らが落ち着いたところで、話せたところで、得られる物は何もない。
名称だの他の例だのを聞けるとして、それだけだ。王子と知っていてなお殺そうとしたのがその証。
『…君はつまり、皆で生きていきたいのだから、僕にも居ろと言ってるわけでしょ。』
『貴方は、まるで自分はいなくてもいいという風に言ったわ。』
意味がないはずだ。
ああやはり駄目なんだなと、わかっていた事を知るだけで。
『私はちょっと…それなりに……結構…だいぶ悲しくて、怒ったのよ。』
事実を確認するだけだ。
どうにもならない、事実を。
『だからどうか、覚えていてね。皆、貴方が大好きなの。居てくれなくては困るわ。』
彼女が望まない事を。
『貴方も少しくらい、皆との未来を考えてくれないかしら。』
考えたって、仕方のない事を。
「……城へ運べ。客間を使う」
アベルの指示に騎士達が瞬いた。
この二人はどこぞの重鎮だったのか、しかし王子を襲っていたが、と視線を交わしつつも手は止めない。
「承知致しました!」
騎士達の返事を聞くと、アベルはロイを連れてその場を後にした。
三門は騎士団が、上空は父の防壁が守っている。
自分が警戒すべきは王都内部だと決め、騎士団の巡回経路を頭に描きながら建物の屋上へ跳んだ。一つ事件が起きれば、市民に呼び止められれば、騎士は巡回から外れてそちらへ動く。状況は常に変化しているのだ。
「行かれますか?」
北西――オークス公爵やリビー達が向かった方を数秒見つめたアベルに、ロイが聞く。
元々、街を走り回って守るのは騎士の仕事。アベルがここにいなかったところで誰も咎めはしない。
「…増援は無理だろうな。」
騎士団長は過保護でなければ馬鹿でもない。最悪を想定すれば当たり前の事だ。騎士団が何よりも守らねばならないものはすべて、王都に在る。
その「増援」にアベル自身も含まれる事を正しく読み取り、ロイは沈黙をもって承知した。
リビーも、チェスターも、あの令嬢も。
アベルのもとへ帰りたいなら、万一があっても自力で突破しなければならない。




