201.凶星の片割れ
双子の星が生まれる時、女神は長き旅路を終える。
片割れは死を振り撒く凶星となるだろう。
ならば片割れは、死に追われる凶星となるだろう。
近付くな、近付くな。
凶星の双子には決して近付くな。その命を失いたくないのなら――…
「ちっとも情報がない。どうしたものかのう……。」
朝食に使ったフォークを皿の上に置いて、少女は悲しげに呟いた。
百四十五センチしかない身長とメリハリのない体つき、顔立ちも幼く見えるが花も恥じらう十六歳の乙女である。内巻きがかった黒髪は耳の前側は頬の高さで切り、後ろは低い位置でツインテールにしていた。
「やはり、騎士団を頼るのも手かと思いますが。」
少女の向かいに座る百九十センチ近い大男が無愛想に答える。
その瞳は赤く、黒の短髪に額の高さで手ぬぐいを巻きつけ、頭の左側で縛っていた。年齢は三十二歳と、ちょうど少女の倍である。
二人は共に故郷独自の衣服を着ていたが、このツイーディア王国においては目立ってしまうため、今は長いローブの下に隠していた。
「しかしな、ヴェン。騎士団は王の配下と聞く。《凶星》が聞きつけてわらわをパクッと食べに来たらどうするのじゃ。」
「…エリ様。《凶星》は人間です。」
「たとえじゃ、たとえ。大熊のような巨体かもしれぬぞ!」
がお、と両手の爪を立てる仕草をしてみせ、エリはヴェンを見上げる。
凛々しい眉に鋭い目つき、鮮血のように赤い瞳。十人の子供が見れば十人とも逃げ出す恐ろしさだが、エリはぽっと顔を赤らめて頬に両手をあて、目をそらした。
「な、なんじゃなんじゃわらわを見つめて!朝っぱらな上に、他の客もおるのじゃぞ?もっとこう…雰囲気というものを大事に…ごにょごにょ…」
君影国の姫、エリシュカ・バルボラ・バストルは、従者ヴェンツェスラフ・メルタに恋をしている。それはヴェンも薄々、というよりエリが堂々と告白するので理解してはいるのだが、赤子の頃から知っている姫をそういう風に見るのは難しいものがあった。
特に、エリの見た目が幼子のままなので。
「この国の王子は十二歳、今年で十三歳になる年の頃だそうですから、巨体という事は無いかと。」
「まずはじゃな、その……てっ、てて手を握るとかそういう、あの…」
「エリ様。」
「ひゃい!」
「少し王城に近付いてしまいますが、貴族の屋敷が多い方にも行ってみますか?アロイス様は特別な方ですので、気に入られて…」
考えながら話すヴェンが険しい表情をしているのを見て、エリの顔が青ざめる。
化粧の濃いでっぷりとした老婆が下卑た笑みを浮かべ、無垢な笑顔で首を傾げる兄にジリジリと近付いていく姿を思い浮かべた。老婆は息が荒く、涎を垂らしながら兄の服に手をかけ…
「――使用人にでもされているかもしれませんね。」
「なななならぬならぬっ、そんなふしだらな!!」
「…ふしだら…?」
「………、こほん。けほっ、ごほん。」
エリは決してわざとらしくない、何も誤魔化してなどいない咳払いをいくつかすると、居住まいを正してシャンと背筋を伸ばした。
「ヴェン、急ぎ兄様を見つけるのじゃ。」
「支払いをしてきますので、少しお待ちください。」
「うむっ!」
深く聞かれずに済んだ事に心から安堵しつつ、エリは威厳ある返事をした。
ヴェンが立ち上がると、二人がいる食事処の外から突然、明るい少年の声が響き渡ってくる。
《王都の皆さーん!聞こえますか、こちら王国騎士団十三番隊副隊長、ジェリー・ニコルです!どうも~♪》
エリ達が王都へ着いて二週間余り、そんな事は初めてだった。
店内を見回すと、他の客達も戸惑った様子で辺りを見回している。大きなテーブル五つ分ほど離れたカウンターにいる店主が、嬉しそうに「おお」と笑った。
「ニコ坊の声だぁ、懐かしいな。」
「店主、知っているのか。」
《緊急連絡、騎士団より緊急連絡です。これよりは二番隊、エッカート隊長に代わります。》
「そりゃそうさ。近所じゃ有名な鼻血ったれでな…」
「鼻ったれ?」
「いや、鼻血ったれだ。」
ヴェンはよくわからない会話をしながらカウンター前へ歩き、財布を取り出す。エリは椅子に座ったまま、脚をぶらぶらさせて外から聞こえる声に耳を澄ましていた。
《――ダライアス・エッカートです。現在王都三門に魔獣の群れが接近し、我ら騎士団が交戦中です。事が収まるまで正門、西門、東門には近付かぬようお願いを致します。混乱に乗じた犯罪の危険も――…》
――まじゅうとは何じゃったかのう。ヴェンが立札を見て何か言っておったような…群れと言うからには獣か?
「お嬢ちゃん、おい、お嬢ちゃん!」
ひそひそと囁く声に、エリは振り返った。
奥のテーブルにいた髭面の男が忍び足で近付いてきて、切羽詰まったような表情で言う。
「あんたら、アロイスを探してるんだって?」
「ぬ…知っておるのか?」
相手が囁き声なのに合わせてつい小声になりながら、エリは前のめりに聞き返した。男は頷き、店の奥の壁にある開いた窓を指す。
「よかった、俺らだけじゃ助けられねぇと思ってたんだ。」
「あ、兄様は危ない状況なのか?」
「シッ!店主も事情を知ってるから、あの兄ちゃんも後から来る。急いでついて来てくれ!」
「わかった!」
ヴェンは店主と話し中で、他の客は皆ぼんやりと声の響く外の方へ顔を向けている。髭面の男とエリはひっそりと窓から抜け出した。
街の人々は顔を見合わせたり魔獣について不安げに話しているものの、荷物をまとめに走る者は殆どいない。自分の目で見ていないから現実味がないのか、よほど騎士団を信頼しているのか。三門を封じられたら出られないという諦念ではないだろう、ここは魔法の国なのだから。
山育ちのエリは、髭面の男の走りに余裕でついてきている。
どこへ向かっているかはまるでわからないが、いくつも角を曲がって、人気はどんどん少なくなっていた。「俺らだけじゃ助けられねぇ」という言葉が真に迫ってきて心が急く。
「わらわが遅かったばかりに……兄様、どうかご無事で…!」
「足が速いな、お嬢ちゃん。もうちょっとだぜ!」
「あぁ!」
チカッ、と空が光って反射的に見上げると、天高くに薄く発光する半透明の壁が形成されていた。思わず立ち止まり、ポカンと口を開ける。
「な、なんじゃ、あれは!?」
《国王陛下の守護が張られました、どうかご安心を。》
騎士の声が再び響き渡った。
ツイーディア国王の力によるものかと知り、エリは感嘆のため息を漏らす。美しい魔法だった。
《魔獣は我ら騎士団が討ち果たしますので、今しばらく三門には近付かないよう、重ねてお願い申し上げます――》
「すごいのう、きらきらとして……、むっ?」
視線を前へ戻したエリは瞬いた。
髭面の男とその仲間らしい男達五人、合わせて六人がにやにやと笑ってこちらを見ている。害意ある者の笑い方だ。
「ヴェン――」
反射的に名を呼んで振り返ったが、誰もいない。当たり前だ、何も言わずに店に置いてきたのだから。エリは不機嫌に唇を尖らせ、男達を睨みつける。
「むう、なんじゃおぬしら。兄様の名をどこで知った!」
「お嬢ちゃん達が話してたのを聞いたんだよ。安心しな、暴れなければ痛い事はしねぇ。」
距離を縮められる前にと、エリは大きく息を吸って叫んだ。
「ヴェン!わらわはここじゃ!!」
「無駄だねぇ、俺ぁ風の魔法が使えるのさ。」
男達はじりじりと近付いてくる。彼らにまったく焦った様子がないのを見て、エリは困惑した。
「風?それがどうしたと言うのじゃ…おぬしら今に見ていろ!ヴェンが来れば一捻りに…」
「まぁ子供じゃ知らないよな。お前ら、やっちまえ!」
「嫌じゃ、わらわに触るな!」
エリは慌てて走り出そうとしたが、ローブのフードを掴んで引っ張り戻された。一瞬首が締まり、抵抗が弱まる。
「ぅぐ!」
「へっへへ、捕まえた!」
「離せ、汚い手で触るな!」
「そう暴れるなって、悪いようには…」
必死でもがくエリの頭上を、ひゅん、と風が切った。
「ぶげぇ!!」
エリを掴んでいた男が吹き飛び、壁に激突する。背後で次々と男達がやられていく殴打の音がする。エリはパッと顔を明るくして振り返った。
「ヴェン!来てくれたん――…」
六人の男達が倒れる路地裏に、ヴェンはいなかった。
それを目にした途端、エリは表情を失った。
「あ……」
喉がひくりと震える。
血の気が引いた。逃げろと本能が警報を鳴らしているのに、ガクリと両脚から力が抜けた。尻餅をつき、限界まで見開いた目に、映る。
化け物が振り返った。
「いやぁああああああああああああ!!!!」
恐怖のままにエリは絶叫した。
這いずってでも逃げ出せばよかったかもしれないのに、声を押し殺して気配を消せばよかったかもしれないのに、後の事など何も考えられない。
それが視界にいるだけで涙はぼろぼろと零れ、ろくに力の入らない脚は意味もなく地面を掻き、頭を抱える腕が勝手に震えている。
「殺さないで、殺さないでぇ!!助けてくれ、ヴェン!!」
「は?」
「ヴェン、どこじゃ!!わらわはここにいる!!殺される、やぁああああ!!」
「ちょっと。落ち着いてくれるかな」
半狂乱で泣き叫ぶエリにその声は届かなかった。
声の主はぴくりと反応して建物の屋根を見上げ、腰に佩いていた剣を即座に抜く。
「何をしているッ!!!」
怒気を込めて叫び、ヴェンは殺すつもりでそれに斬りかかった。
体重も壁を蹴った勢いも乗せて振り下ろした大刀を、ヴェンより明らかに小柄な人影が剣で受け取める。
――馬鹿な。
うっすらと見えるその手や腕の細さと足腰では、到底受けきれる重さではなかったはずだ。
ヴェンはぞっとして剣を弾き、距離を取ってエリを庇う位置に立った。心配だが振り返るわけにはいかない。あの化け物に背中を晒せば終わりだ。
「あ、あぁあ…ヴェン…」
「エリ様、ご無事ですか!」
「っく、うぅ、たっ、立てぬ…すまぬ、立てぬのじゃ……」
「落ち着いて、まずは呼吸を。」
心臓が早鐘のごとく鳴っている事を自覚しながら、冷や汗が流れている事に気付きながら、ヴェンは努めて冷静な声でエリに言う。
「……刀…君影国の者か?」
聞いた年齢と体格は合っていた。
状況に不釣り合いなほど落ち着いた声で、その少年が聞いてくる。
ヴェンには異国の服の名まではわからなかったが、少年は質の良いスラックスによく磨かれた革靴を履いていた。前を開けたジャケットにシャツとベスト、ネクタイを締めている。今の季節にしては冷える格好なので、どこか屋内から出てきたのだろうと思われた。
ただ、そんな事をヴェンは考えもしない。目の前の人物がまともであるはずはなかったからだ。
上半身に纏わりつくようにべったりと、黒い霧のようなものがかかっている。ボタボタと垂れる雫が蒸発して消えていく。
ヴェンが今まで見た事もないほどの色の濃さだった。量だった。あれの半分を背負った大人ですら、まともだった事はない。エリにはもっとはっきり見えている事だろう。
ごくりと唾を飲みこんだ。心に抱いた恐れを押し隠す。
「エリ様、あれはまさか…」
「……ッ間違い、ない…《凶星》じゃ……ぁ、ああ…まさかこんな…」
「そうか…君達はもしかして」
黒い霧の向こう、少し癖のある黒髪の少年は、金色の瞳でヴェンを見た。
「僕に何か見えるんだな?」
「ヴェン、これが…こやつが全て目覚めたら…」
「ッ――今ここで、殺します!!」
背中からもう一本の大刀をも抜き放ち、ヴェンが叫ぶ。
少年は目を細め、黙って剣を構えた。




