19.初めての魔法
アベルの言葉が、頭の中に残っていた。
『鍛錬より前に魔法を使って、魔力を使用する感覚を覚えておくといい。』
それはどういう意味なのだろうかと。
『そしたら気付けるはずだよ。…意識してできるようになれば、君はもっと強くなる』
強くなる――その言葉に勇気づけられる。
鍛錬のために庭へ出た私は、メリルにお願いして桶を用意してもらった。
「宣言。」
真っ直ぐに手を伸ばし、空中に水が生み出される様子を想像する。
集中しているせいか、伸ばした手のひらがじわりと暖かい。
「私の手の向く先、あの桶の上に」
まずは留まって、そこから落ちるように。
「手のひらと同じくらいの水を、出してください。」
ごぽり。
「っ!」
自分がした事のはずなのに、つい目を見開く私の前で。
空中に現れた水はバシャリと桶へ流れ落ちた。
「……!」
唖然として少し口を開いたまま、見守ってくれていたメリル達に視線を向ける。皆すごい速さでコクコク頷きながら拍手してくれた。
私はまだちょっぴり信じられない心地で視線を戻し、おそるおそる桶の中を覗き込む。
何も入っていなかったはずの桶には――満たすには程遠い量だけれど――確かに、水が入っていた。
「ゃ…やっ――」
「すごいじゃ~ん!」
「ったぁあ!?」
喜びに両手を振り上げた私は、歓声に割り込まれて思わずよろけてしまった。
聞き覚えのある声の主を探すと、器用にも屋敷を囲う柵の上、身を乗り出して笑うその人がいた。
「チェスター様!」
「あれ…俺って様付けだったの?よっと!」
こてんと首を傾げてから、こちら側に頭を倒すようにしてぐるりと回転し、手を離して華麗に着地する。
後ろで一つに括った赤茶の長髪をふわりと流して、彼はゲームの立ち絵そっくりにウインクした。
「久し振り~シャロンちゃん!元気だった?」
それはもちろん元気だけれど!やっぱり玄関からは来ないのね!?
にこ~っと笑って手を振るチェスターがどうして現れたのか、サッパリわからない。いえいえ、仲良くなりたいという気持ちは強いから、嬉しい事ではあるのだけど。
「はい。お陰様で、元気ですわ。」
混乱で笑顔がひきつっていないかしらと思いながら、軽く淑女の礼をする。
私はチェスターの事を何度も考えてきたけれど、なんだかんだ、本人に会うのはまだ二度目なのよね。前回は挨拶だけでろくに話していなかったし。
「堅いなぁ…まぁ、そっか。アベル様に対してどうでも、一応同じ公爵家で?かつ年上の俺を、本人の許可なく気さくにはできないよね。」
その通りです。
と、今の私の顔には書いてある事でしょう。
チェスターはわざとらしく、しみじみとした顔で頷いた。
「うんうん、じゃあ様付けと敬語はナシって事で☆」
「ありがとうございます。…えぇと、どうしてここに?」
「シャロンちゃんに会いたくなってさー、あ、待って。」
チェスターは屋敷の中へ向かおうとした侍女に声をかけ、
「俺が帰るまで、執事さんには内緒でもいい?ね、お願い。」
胸の前で両手を合わせ、苦笑して小首を傾げた。
未成年とはいえ、よその公爵家の嫡男の頼みを無下にもできない。侍女はこちらに視線を向け、私が頷いたのを見てからお辞儀をして去っていく。
「…貴方もアベルも、ランドルフを避けるわね。」
「まぁ俺達みたいのはね~。疑うわけじゃないけど、用心しちゃうよね。」
「……?少し厳しいけれど、とてもいい人なのよ?確かに昨日は、アベルの前でお説教を披露していたけれど。」
「え、何それ。シャロンちゃん怒られちゃったの?」
チェスターが「面白いもの発見!」とでも言いたげに目を輝かせるので、私は慌てて否定する。
一緒に来た御者が少し口が悪かったので、雷を落とされていたのだと話した。
ちなみにそのダンは今日、馬車の持ち主に謝罪するべくランドルフにしょっぴかれていった。
私も行くと言ったのだけれど、ランドルフに「大人しくしていてください」と言われてしまったのよね。大丈夫かしら。
「そういう事なんだ。はは、その御者もある意味大物だね。公爵家のご令嬢に暴言だなんて。」
「アベルにも文句をつけるものだから、聞いているこちらがひやひやしたわ。」
「うは~、ちょっと見たかったなぁ。」
次に来る時会えるかもしれないとは、不確定なので言わないでおいた。
ダンは孤児で、これまでは物を盗んだり空き家を勝手に使ったりして過ごしていたみたい。ランドルフはお父様がお戻りになったら彼の事を相談すると言っていた。
「それで、シャロンちゃんは魔法の練習中?」
言われてハッとする。そうだ、私は初めて魔法を成功させたのだったわ!
嬉しさがふつふつとこみあげてきて、ついにっこり微笑んでしまう。
「えぇ!まだ今、初めてできたのだけれど。」
「一番の適性は水かな?」
私が頷くと、チェスターは「俺も~」と笑って、桶の方へ手のひらを向けた。
「宣言。水よ、満たせ」
ざぱん、と。
桶の中にみるみる膨れ上がるようにして現れた水が、最後に桶の内側に触れてその形を崩した。八分目くらいまで綺麗に水が入っている。
「わぁ…!」
しまった、思わず子供のような歓声を…って、今の私は子供だったわね。とはいえ、令嬢としてもう少し慎ましくしなくては。
こほんと空咳を一つする。
「すごいわ、こんなに沢山のお水!宣言もとても短くて。」
「宣言はね~、自分がどこまでなら《言わなくても、ある程度正確に》発動させられるのか、ちゃんと試しておくといいよ。言わなくても大丈夫でしょって考えてたら、いざって時に不発になるからさ。」
「…自分の実力は、常に弁えておくべきということね。」
以前、アベルにも言われた事だ。チェスターは一度瞬いて、そうだねと微笑む。
「宣言。水よ浮け」
桶に入っていた水がぶよぶよと塊になって浮かび上がった。チェスターは今、手を差し出したりはしていない。
「手でも指でも、なんでもいいんだけど、補助で使うのはアリアリ。騎士団だって、魔法を使う時に腕や剣を振ったりするしね。でも、使わないのもアリ。」
「その辺りはお好みで、という事ね。」
「そうそう。まだ十五の俺が偉そうに言うのも何だけど……魔法はね、シャロンちゃん。ちゃんと発動できればそれでいーの。宣言とか手振りの補助を使わずに失敗するより、使って成功させた方がいい。……君は、戦いを想定してるんでしょ?」
最後の言葉に、少しだけ瞠目した。けれどすぐに頷く。
「――えぇ。」
「ふふ、変わってるねぇ。…だったらやっぱ、魔法は大事だね。相手の力量でも全然違うけど、ほとんどの戦闘で魔法が関わってくるし。」
「…貴方も、既に誰かと戦った事があるの?」
「えぇー、それ聞いちゃう?」
困ったな~と言いながらチェスターは頬を掻き、肩をすくめてみせた。
「ほら、我が主ってああだからさ。一緒にいると色々あるって事で。」
「……アベルはどうしているの?彼、魔法は…」
使えない事に、なってるわよね。
「う~ん、あれはね、別格。騎士団ならまだしも、ご令嬢は真似しない方がいい、ほんと。」
「というと?」
「あの人、剣で切ればいいと思ってるから。」
真似しちゃ駄目だよともう一度念押しして、チェスターはうんうんと頷いた。
それ、まさか魔法で出されたものを切り裂いている的な話かしら?危なすぎるのでは…
「っと…そうだ、そろそろ落とす前に、桶の中見てみてよ。」
「中?」
チェスターに言われて、まだ浮いたままの水の塊をちらりと見てから、桶を覗き込んだ。
中身は全て浮き上がったと思っていたけれど、小さな水溜まりが残っている。
「それは君が出した分。」
質問するより前に、チェスターが教えてくれた。
「他の人が魔法で出したものを、直接操る事はできない。――これも、覚えておいてね。」
私が桶から身を引くと、浮いていた水がぱしゃりと桶に戻る。
「俺が言ったことなんて、学園入ったらソッコー習うだろうけどね。」
確かに、私が図書室で読んだ本にも書かれていた事もあったけれど、やっぱり実際に目で見るのと読むのとでは違う。
魔法の実戦を経験した人から、「今後の戦闘のための」アドバイスをもらえる事は、入学前である今は特に貴重なものだ。
「…ありがとうございます。」
つい敬語になって、私はチェスターに頭を下げた。
「大した事じゃないよ、ほんと。魔法についてだったら、サディアス君の方がよっぽど詳しいだろうしね。今度聞いてみるといいよ」
「そうね…時間を取ってもらえるといいのだけれど。」
正直、彼が付き合ってくれるとは考えにくい。
とても忙しいのだ、彼は。将来この国の宰相になるべく、とにかく勉強、勉強、勉強なのだから。この前来てくれたのだって、ウィルが連れてきたからこそでしょうし。
私が困り顔で考えていると、チェスターは軽い調子で言った。
「あぁ、王立図書館で捕まえるといいよ。そしたら向こうから誘ってくれるから」
「えっ?」
「コツは話を伸ばすことかな~。」
まるで何度か捕まえた事があるかのように、チェスターは目を閉じてそんな事を言う。
サディアスが、チェスターを誘う?……駄目だわ。まったく想像がつかない。
だってサディアスはチェスターが苦手…というか、ちょっぴり嫌っているというか。
「めちゃくちゃ嫌そうな顔はされるけどね!」
ああ、やっぱりそうなのね…。
「王立図書館はとっても広いけれど…どうやって彼を探せばいいかしら。」
「まず前提はね、持ち出し禁止棟。わかる?」
――なるほど!
図書館通いは単に読書家と思っていたけれど、考えてみれば公爵家の長男であるサディアスに手に入れられない本なんてそうはない。
「でね、棟の中でも、身分が確かな人しか入れない所があるんだよ。俺と君は、アイツと同じ公爵家でしょ?本人確認できればよゆーで通れるよ☆」
チェスターがぱちんとウインクする。なるほど、だいぶ場所が絞れたわ。
「呼んで無視された時はね、眼鏡君って呼ぶと目ぇカッて見開いてこっち見てくれるから。」
「そ、それはちょっと…」
「ははは、後はそうだねー、……貴族のおじさん達が内緒話してたら、すぐにそこを離れて。」
少しだけ低めた声で。
チェスターは私の目をじっと見て、忠告した。
「……わかったわ。」
「うん、素直で可愛いね。」
「っ!?」
可愛いっていう場面だったかしら、今!?
ポポッと頬が熱くなり、桶の水で顔を冷やしたくなるけれど、我慢する。
「魔法のお勉強は、なにせ属性のこともあるからね。俺じゃ火の魔法は教えられないし。」
「そうなの?」
「他はできるけど火だけはね~!その点サディアス君はさ…」
笑って話す彼に相槌を打ちながら、私は内心首を傾げる。
チェスターは火の魔法が使えるはずだ。しかも、それなりに。
アベルルートで彼と共にオークス公爵邸へ駆けつけたヒロインは、妹さんのご遺体とともに、間違いなく《爛れた死体が二つ、床に落ちている》のを見つけている。
はず、なのだけれど…チェスター以外の人がやったとも思えないし、学園に入ってから使えるようになるのかしら?
「じゃあ俺はそろそろ行こうかな。話せて楽しかったよ」
「待って、あの…!」
私は慌ててチェスターを呼び止める。
貴方に会えたのなら、私は聞かなくてはならない。
「妹さんの具合は、いかが?」
詳しい症状は別として、オークス公爵家の長女が病弱という話は貴族の大多数が知っている。茶色の瞳が私の目からそれて生垣を見つめた。
「あー、まだ治ってないけど…落ちついてはいるよ。」
「私、お見舞いに行ってもいいかしら?」
「はっ?」
チェスターが目を見開いて私を見た。
その眉間には皺が寄っていて、不快にさせてしまっただろうかと焦る。
「歳も近いし、普段会わない人に会うのも気分転換になるかしらと、思って……」
「……咳、おさまってないけど。」
「もちろん、会う事が負担だったら無理にとは言わないわ。妹さんの安静が第一だもの。」
「違くて、うつるとか……あぁ、いや。」
チェスターはぼそぼそと何か呟いて、額に手をあてた。そのままぐしゃりと髪を掻き上げる。
「…本気なら、妹に聞いてみるけど。」
「本当に?ありがとう、チェスター!ごめんなさいね、急な申し出をして。」
「……また、連絡するね。」
「待ってるわ。何か喜んでもらえる手土産がないか、探しておくわね。」
お花がいいかしら果物がいいかしら、それともぬいぐるみ…と、今から考えを巡らせてしまう。
ようやく会えるという安堵で胸がいっぱいで、私はチェスターの困惑した眼差しには気付かなかった。




