194.風よ今こそ
ツイーディア王国騎士団十番隊の騎士、エイブラム・ガイストは暇を持て余していた。
二十歳未満に見られる童顔に、百七十センチもない身長。肩につく長さのダークブラウンの髪は、サイドはそのままに後ろは低い位置でちょこんと縛っている。
雪降る中で騎士団統一のコートに身を包み、寒さで赤くなった鼻をズズ、とすすった。体を思いきり動かせばすぐ暖まるのだろうが、隠密行動中の今はそうもいかない。
「なぁ~、暇じゃね?」
すっかり暗くなった空や黒く見える針葉樹の森を横目に、何度目かもわからない言葉を吐き出した。真後ろを歩いている騎士が注意するようにガイストの肩を指の背で叩く。
「ちゃんと周りを警戒しろ。任務中だぞ」
「崖がヤバイんだろ?今まだ普通の道じゃん。」
「それでもだ。」
叱るように言って、十三番隊の騎士、メルヴィン・ベアードは深緑の瞳を周囲にはしらせる。同じ色の髪は後ろで一つに結い、ほっそりとしたポニーテールが揺れていた。
ガイストの前には騎士が二人歩いており、一人は闇の魔法で四人の姿を隠し、もう一人は風の魔法で壁を作る事で防音・防風を担っている。要人警護を主とする九番隊の所属である彼らは、ガイストの愚痴にも集中を途切れさせる事なく進んでいた。
十メートルほど先を行く馬車の一行が残す轍や蹄、足跡の上を踏みながら。
「つーか風なくてもさみーね。ちょっと山ナメてたわ。」
「その手袋のせいじゃないのか。」
「だろーなぁ…。」
指先をこすり合わせつつ吐息で温め、ガイストは眉尻を下げる。
彼がつけている手袋は他の三人より薄手だった。内側に毛皮が仕込まれていないのだ。
「でもこれじゃないとナイフの感覚狂うからさ。」
「なら我慢しろ。」
「うわっ。そこは仕事熱心だなって褒めてくれよ。」
「熱心に思われたいなら口を閉じるんだな。ブラックリー隊長に言いつけるぞ」
「つめてぇー…。」
げんなりした顔で文句を言いつつも、ガイストが話し相手を振り返る事はない。誤って何の跡もない雪を踏みつける事もなかった。
馬車は四つ角に明かりを灯し、前後を守る騎士が乗った馬もランプを下げている。お陰で夜の山道と言えど、ガイスト達が護衛対象を見失う事はありえなかった。
だんだんと勢いを増している雪は、防音のために張った風の壁を可視化しかねない。ベアードが加えて風を生み出し、ただの気流に見せかけるよう工夫を施した。雪を動かすだけなら魔力はさほど必要ない。
「崖に差し掛かります。注意を。」
四人の中で先頭にいた騎士が短く伝え、ガイストはダークブラウンの瞳を前へ向けた。
前方を行く馬車の左側は高い壁のようになっており、右側は崖だ。
――つっても、馬車がすれ違える幅の道の端から崖っぷちまで、十までいかないけど八メートルくらいあるじゃん。向こうが落とそうとしてる間に余裕で対処できるな。
ガイストは魔法の威力調整が下手だが、こちらには魔法が得意なベアードがいる。
たとえ馬車を囲う騎士達が襲撃の相手にてこずっても、最初から「馬車が崖に落ちるかも」と知っていてベアードが対処できないわけはない。ガイストはそう考えていた。
変化は唐突で。
オークス公爵夫妻が乗った馬車、それを囲む護衛の騎士達、全員が一斉に動きを止めた。
降る雪まで、全て。
「――…は?」
続けて明かりが全て消える。
思考が止まる間にも、ガイストの手は反射的に剣の柄へ、ナイフの柄へ、伸びていた。
「宣言、光よ照らし出せ!」
ベアードが咄嗟に、馬車があるだろう辺りの上方に光の魔法を発動させる。
浮かび上がったのは不自然にピタリと止まったままの騎士達、馬、雪……何もかもが異常だった。そこだけ時間が止まっているかのように。時間を止める魔法など、スキルなど、おとぎ話ですら聞いた事がないのに。
「ウォオオオオアアアアアア!!!」
ビリビリと空気が震えるほどの歓喜が聞こえる。
音源は左、高い壁の上。こちらを見下ろしてニタリと笑う男。明るい茶髪をツーブロックにした――
「ダスティン・オークス!?」
ベアードが叫ぶと同時、ガイストは風の壁を走り出てダスティンにナイフを放つ。ダスティンの目は馬車に向いているが、届きそうだったナイフはもう一人出てきた少年の剣で弾かれた。フードを深くかぶり、色のついたゴーグルをつけた顔の下半分をスカーフで覆っている。
「宣言!風よ今こそ――壊してしまえ、落としてしまえ潰れてしまえ、何もかも!!」
「ベアード!」
「宣言、風よ押し留めよ!!」
ダスティンが唱え終わる寸前にベアードの宣言も間に合った。
動かない馬車や騎士達がズッ、と真横に滑りかけたところを、ベアードと九番隊の騎士が巻き起こした突風が押し返す。拮抗する突風に挟まれ、それでも馬車も騎士達も、空中に止まった雪すら微動だにしない。全てが一つの塊になってしまったかのようだった。
「ッそだろ…!」
ガイストが瞠目して吐き捨てる。
もう一方の隠密班からもダスティン目掛けて魔法攻撃が飛んでいたが、守るように巻き起こる風で全て弾かれた。しかし驚いたのはそれに対してではない。
少年がこちらを指差した途端、扉の開いた巨大な檻が上から放り出されてきたのだ。中に詰め込まれているのは、見覚えのあるオオカミが数十匹。
「上!魔獣だ!!」
あんな物が直撃すれば、魔獣がいなくとも命が危ない。
隠密していたもう一班の四人が姿を現し、魔獣の檻へ大量の風の刃が撃ち込まれる。それは魔獣達を容赦なく殺し、檻を崖へと落とさせたが、無傷の魔獣が幾匹も開いた扉から山道に着地した。
ベアード達の風を途切れさせるわけにはいかない。ガイストはオオカミを二匹一気に切り捨て、投げたナイフで別のオオカミをも絶命させ――
「っ!?」
突如として、身体が止まった。
壁の上へ向かおうとしていたもう一班の騎士達も空中で止まっている。
ガイストと同じ班だった三人もだ。うち二人が風の魔法に注力する間も、残る一人は闇の魔法を発動したままだった。自ら範囲外に出たガイスト以外、その三人は姿を隠していたというのに。
オオカミが炎を吐いたり飛び掛かってきたが、見えない壁に阻まれて届かない。ガイストは理解した。馬車やそれを守る騎士達と、同じ状態になったのだと。
そしてようやく、正しく把握した。ベアード達の集中が途切れたのだろう、突風が弱まり馬車の一行は崖へと滑り出す。辺りを照らしていた光も弱まる。最悪だった。
呼吸ができない。
――俺、は、ちょっともつけど、先に止められた閣下達は……!
やはり時間を止められたわけではなかったのだ。
周りごと固められているせいだろう、音も聞こえない。
崖へと滑り始めた馬車一行が、何かにぶつかったように再び押し戻される。ベアードが浮かべていた光が消えた。隠れていた三人の姿が露わになる。
「宣言!光よ、この場を照らして!!」
新たに光の魔法が発動され、周囲が明るく照らし出された。
足音に反応して魔獣達が振り返る。
「――放て!!」
魔獣が獲物を捕捉するより早く、その身体を矢を模った水が撃ち抜いていく。残った数匹は鋼鉄の拳に骨を砕かれ、あるいは剣で貫かれて絶命した。
馬車を崖下へ落とそうとする風の勢いはそのままに、ダスティンが下を覗き込んで笑う。
「なんだ、お前。こんな所で何をしてる?」
「こっちの台詞だよ…叔父上!!」
血のついた剣を握り締め、チェスター・オークスが吠えた。
ダスティンはククッと笑い――背後から後頭部を殴りつけられ、転落する。
「がッ、あ…?貴様っ…」
少年を真っ先に疑ったダスティンはしかし、その少年も襲撃を受けたらしい事に気付いて認識を改めた。痛む頭に顔を歪め、それでも兄を殺すための風は緩めない。
追加で宣言を唱え、危なげなく空中に浮かび上がってチェスターを見下ろした。頭からぼたぼたと血が垂れ、自らが巻き起こした風に流れて消えていく。
「あ゛ぁ!?なんっだ…お前ぇ!!」
見えない敵に振り向きざまの一撃を振るった少年は、相手が防いだ反動を利用して体勢を直した。落下しながらも土の壁を蹴り、くるりと回ってチェスター達のいる道へ着地する。
すぐさま上から追撃してきた女の双剣を避け、全員が視界に入るよう飛び退った。
――おっさんと対峙してるチェスターは放置。黒髪の女剣士がたぶん騎士で隠密系のスキル持ち。フードかぶったチビも剣構えてるけどそこまで強くなさげ。んで、チビが後ろに庇ってんのが……
後方を取られた状態でなお、体の向きだけ変えてこちらを見られない灰色髪の男。
恐らくダスティンの魔法にたった一人で対抗している。少年が正確に状況を把握すると同時、女剣士――リビー・エッカートが連撃を繰り出した。
「うわわっと!危ないじゃねーか、お姉さん!そんな顔すんなよ、せっかくの美人が台無し。」
「黙れ。」
変声粉を使っているだろう少年の声に眉を顰めつつ、リビーは的確に刃を振るう。初手の不意打ちで彼の腹部を刺し貫いていたが、少年は器用にも動きながら治癒の魔法で止血を済ませたらしい。
「せーんげん。」
スカーフの中で、少年は呟く。
生意気な女だろうと名を馳せた公爵だろうと等しく、抵抗もできずに終わる言葉を。チェスター以外の三人に意識を集中して。
「風よ、命令だ。動くな」
リビーがビタリと停止し、目を瞠る。
少年はスカーフの下でにやにや笑いながら残る二人に目を向け――片方に、炎が散るのを見た。
「いッ、て……?」
先程リビーに貫かれた腹部が再び強く痛む。
塞いだ傷口にナイフが突き刺さっている事を把握し、飛んできた方向に目を向けた瞬間、自分を袈裟切りにしようとする刃が見えて剣で防いだ。しかしその攻撃は想定外の重さで、少年の身体が後方へ飛ぶ。
かろうじて受け身を取って顔を上げると、相手がかぶっていたフードは突撃の影響で脱げていた。
薄紫の髪と瞳。
「皆を離しなさい!!」
剣を手にしたシャロン・アーチャー公爵令嬢は、少女とは思えない力とスピードで襲い掛かってきた。スカーフの下で口角を吊り上げ、少年はナイフを抜いて放り捨てる。ピキリと頭が痛んだ。
「――ははっ、くそウケる!!」
こみ上げた喜びと腹部の治癒に意識を向けた彼は、気付いていない。
リビーやダン、ガイスト達にかけたものはそのままでも、馬車とそれを囲んでいた騎士達にかけたスキルは解けてしまっていた事を。
とうに全員が気絶か昏倒をしているだろう時間が経っていたため、無意識に問題ないと判断したとも言える。事実、誰も意識を保ってはいなかった。馬車を囲むようにして騎士や馬が道に倒れている。
そして、ダスティンに拮抗していた男――ダンの動きを止めた時点で、少年の勝ちは確定していたのだ。
振り返らなかったシャロンは、その事に気付いていなかった。
ネックレスにかけられた全属性に対する打ち消し効果は、すぐ後ろにいるダンにも及んだと思っていたのだ。正確には、「シャロンとダンを標的にした魔法」を消してくれたと、思い込んだ。
効果は間違いなく発動し、少年の魔法を打ち消した。
ただし彼は、「二人」ではなく「一人ずつ」にスキルをかけていたのだ。
空中の雪が固まっている範囲をよく見ればわかるように、馬車の一行や隠密班はそれぞれが一つまとめに捕われていた為に、シャロンはその可能性に気付かなかった。見誤った。
もっとも気付けたところで、彼女にはどうする事もできないだろう。
呼吸を奪われながらもダンは堪えたが、崖から道へ押し戻す風の勢いは弱まっていく。それで抑えられるほどダスティンの魔法は甘くなかった。チェスターとの攻防を繰り広げながら、ダスティンは勝利の笑みを浮かべる。
オークス公爵夫妻が乗った馬車は、何も無い空中へと投げ出された。




