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ハッピーエンドがない乙女ゲームの世界に転生してしまったので  作者: 鉤咲蓮
第一部 未来を知る者

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192/525

191.そうして壊れた日常は ◆

 



『おい。』

『ひょぁっ!?』


 通路を歩いていたシャロンは、突然声を掛けられて小さく悲鳴を上げた。

 口を押さえて振り返ると、軽く目を見開いたアベルが立っている。


『…驚き過ぎだ。』

『あ、アベル……ごめんなさい。ちょっとその、不安に思いながら歩いていたものだから。』

 どきどきする心臓を押さえて息を吐き、シャロンは制服の上に羽織った肩掛けを直した。

 等間隔に小さな照明がついているとはいえ、夜の学園は暗い。

 寮へ向かうこの通路は外にあり、屋根付きだが左右に壁はない。周りに植えられた草木は、昼間には目に優しいものであるのに、日が落ちると何か潜んでいそうな暗闇へと変化してしまう。


『こんな時間に一人で出歩くな。寮に戻るだけか?』

『えぇ。調べものをしていたら遅くなってしまって…』

『送っていく。レオはどうした』

 シャロンに歩くよう促し、アベルは隣に並んだ。

 腰の帯剣ベルトには入学前に作られた剣が納まっている。もう一年近くになるので、シャロンもすっかりアベルがその剣を持っている姿を見慣れていた。


『お腹が空いたみたいだったから、先に戻るよう言ったの。』

『あいつ……』

『レオは悪くないわ。私もすぐ出るから大丈夫って……言ったのだけれど、ふふ。気付いたら数時間経っていて。』

 吹く風はそう強くなかったが、冬の空気は冷たい。

 苦笑して両手の指先を擦り合わせるシャロンを一瞥して、アベルは視線を前に戻した。


『寒いか?』

『少し。でも平気よ、貴方は?』

『問題ない。……そこにいるのは誰かな。』

 先の暗がりで動かない気配を、通りすがりではなく「身を潜めている」と判断してアベルが問う。

 がさりと草むらを揺らして立ち上がったのは、金髪をサイドテールに結った女生徒――キャサリン・マグレガー侯爵令嬢だった。

 小さな葉っぱを一枚頭に乗せ、「見つかってしまった」と言わんばかりのしょんぼり顔をしている。


『まあ、キャサリン様…ご機嫌よう…?』

 なぜ草むらなどにという疑問を隠しきれず、シャロンは片手を頬にあてて瞬く。

『ご機嫌よう、シャロン様……その、わたくし…内緒にしますと、見なかった事に致しますという意思表示のつもりで……』

『えぇと…?』

『先刻はチェスター様に言付けて、第一王子殿下を裏庭に呼んでいらしたでしょう?ですのに、その――…あっ…失礼。ここで言う事ではありませんでしたね…』


 アベル達は固まった。

 チェスターがシャロンを理由に、ウィルフレッドを呼び出す。こんな時間に、誰もいないだろう裏庭へ。


 それが本当なら、異様な状況だった。


『アベル!』


 脇目も振らず走り出したアベルを、シャロンが慌てて追う。

 後ろから焦ったようなキャサリンの謝罪が聞こえてきたが、構っている場合ではなかった。足の遅いシャロンを待つ事なく、アベルは脚に魔力を流して地面を蹴る。



『うわぁっ!?』


 近道のために別の通路を横切ろうとして、誰かの目の前を通った。声と髪色、体格からしてカレンだろう。


『アベル?え?ど、どうしたの!?』


 振り返らず返事もせずに走った。

 ただならぬ様子と見たのか、「待ってよ」とカレンの声が追ってくる。


 アベルは裏庭を駆け、その場所を見つけた。

 灯りがついたままのカンテラが傍に落ちていたから、すぐに気付けた。




 大量の血を流して、ウィルフレッドが倒れている。




『――……。』


 近付かずとも、触れずとも、まだ数メートルの距離があろうと、アベルは見た瞬間に兄が事切れているとわかってしまった。助からないと、もう戻ってはこないと、理解してしまった。 

 頭から血の気が引いていく。


『アベル、一体何が……、え?』


 後ろから来た足音が止まり、よろめき、駆け出した。

 カレンがウィルフレッドに近付こうとして、がくりと崩れ落ちる。震える手を伸ばして、肩を揺する。その行動の無意味さを、アベルは知っていた。


『うそ…何で、ウィル……ウィル!誰がこんな事を――』

『はぁ、はぁ……アベル、カレン…』


 息を切らすシャロンを振り返ろうとして、しかしアベルの身体は動かなかった。「見るな」と言うべきなのか、彼女にこそ見せるべきなのか、わからずに。

 ただ黙って、目の前の光景を瞳に映していた。


『……ウィル……?』


 掠れた声で名前を呼んで、シャロンはアベルの横を駆け抜ける。

 もう無理だと一目見てわかったはずなのに、彼女はウィルフレッドの傍に屈んで首筋に指をあてた。信じたくなかったのだろう。当然脈など感じられず、冷たさだけが指に伝わった。

 小さな唇が戦慄き、声にならない吐息を零す。

 動きを止めてしまったシャロンの傍で、カレンは涙を拭って立ち上がった。


『ぐすっ……わ、私…先生を呼んでくる!』


 足音が遠ざかっていく。

 立ち尽くすアベルの前で、シャロンはじっとウィルフレッドの死体を見下ろし――声を上げて泣きだした。


『ウィル!!何で…どうしてっ!やだ、やだよ……何で……!』


 ぼろぼろと涙を零しながら、何の意味もない治癒の魔法を施そうと、深い傷跡に手をかざす。僅かずつ傷口が塞がっていく。肩掛けがずり落ちて地面に触れ、赤い血で汚れる。

 死体に残った傷は治さず、事件捜査のために残しておくべきだった。

 しかしアベルが動かなかったのはそう考えたからではなく、ただ……ただ、動けなかった。


『…ウィル……』


 悲しみにくれた声で、シャロンは彼の名を呼ぶ。

 懸命に学んでいた治癒の魔法を、もう痛みも何もない人間にかけ続ける。殺す事を目的としてつけられた傷跡は、一年生に治しきれるものではないのに。


 だが、そうして当たり前なのだろうと、アベルは思った。

 彼女は今、将来を誓い合った相手を喪ったのだ。涙を流し、名前を呼び、痛々しい傷を治そうとする。それはきっと、人として何も間違っていない。



 ――俺は、何なんだろうな。



 アベルは歩き出した。兄の名を呼ぶ事も、涙を流す事もなく。

 やはり自分は何か欠落しているのかもしれない。そんな事を、頭の片隅で考えながら。

 一歩目さえ踏み出せば後はそのまま、立ち尽くした時間など無かったかのように、二人のもとへ歩く事ができた。


 シャロンが治癒の手を止め、アベルを見上げる。涙に濡れた瞳が、頬が、カンテラの灯に照らされて光っていた。

 胸が締め付けられるような痛みを覚えながら、アベルは片膝をついてウィルフレッドの傷へ手をかざす。技術の代わりに魔力をつぎ込んで、強引に全てを塞いだ。


『アベル…』


 縋るように自分を呼んだシャロンと、目を合わせる事ができずに。

 アベルは立ち上がり、無言のまま踵を返した。


 魔力で高めた脚力に風の魔法による後押しを加え、男子寮に向かう。通りすがった生徒や職員が目を瞠って何か言っていたが、耳に入らない。

 チェスターの部屋の前へ来ると扉を一撃で蹴り砕いた。


 誰もいない。


 二度と戻らない事を示すかのように、部屋の中は綺麗だった。





 ――頭が、痛い。



 感情が抜け落ちたかのような無表情で、アベルは馬を走らせる。

 大雨が外套を叩いていた。風の魔法で雨を遮る事もできるが、今は自分がどれほど濡れようが構わなかった。頭を割られるような痛みがジクジクと続いている。



 ウィルフレッドは死んだ。殺された。

 アベルは仇を殺し、王位を継ぐ者として在らねばならない。



 その仇がどうしてあいつなのだろうかと、アベルは考える。

 多くの人間と関わる自分は、いずれ裏切りに遭う事もあるだろうとわかっていた。アベルとは異なる信念のもとに裏切る者、目先の利益に釣られた者、脅されてやむなく従った者。

 それでも、最初が彼だとは予想していなかったのだ。


 ただこうなった以上、なぜその判断に至ったか想像するのは容易で。



 オークス公爵邸は、静かだった。



 繋がれていない馬が一頭、所在なさげに庭の木の下に佇んでいる。

 アベルは馬から降り、そのまま屋敷に入った。鍵はかかっていない。階段を駆け上がり、唯一開きっぱなしになっている扉の前で止まる。外套から、髪から、水滴が落ちた。


 チェスター・オークスは、こちらに背を向けて立っている。


 変わり果てた姿で寝台に横になる妹の前で。

 男性らしき爛れた死体を二つ、床に転がしたまま。



 何もかも最悪の形で予想が的中している事を知った。



『チェスター、答えろ』


 部屋に足を踏み入れ、アベルは剣の柄に手をかける。

 チェスターは緩慢な動作で振り返った。



『ウィルを殺したのはお前か。』



 茶色の瞳に光はなく、全て諦めたような、疲れた顔をしていた。

 なのに彼はアベルの姿を目に映すと、希望の光が見えたかのように眼差しをやわらげる。

 その意味すらも理解してしまった。



 殺してもらえる事への安堵だと。



『――はい。』


 返事が聞こえた時には既に、アベルは剣を抜いていた。

 自分の従者を務めた男の身体を貫く。


『お前を許せない。』


 本音だった。

 どれだけ付き合いがあろうと、どんな事情があろうとも許せる事ではない。許してはいけなかった。



『だが――…気付けなかった、俺の落ち度だ。』



 後悔に顔を歪め、アベルは己への憎しみをつのらせながら吐き捨てる。

 血が噴き出す事を承知で剣を引き抜くと、雨に濡れた外套が赤く染まった。


『すまない。チェスター』


 アベルが先に察していれば、探っていれば、気にかけていれば、こんな事にはならなかった。

 自分にも責任があると理解した上で、裁判を待たずに今殺す事を。気付けなかった事を、アベルは謝った。

 チェスターは涙を流し、微笑んで口を開く。


『ごめん…ごめん、な…アベル様……』


 床に倒れた衝撃で血を吐く姿を、アベルは剣の柄を固く握りしめたまま見下ろしていた。


『ウィル、様が……貴方、に』


 虚ろな目をしたチェスターにはもう、アベルが見えていないのかもしれない。

 唇を震わせた彼の声は、ほんの微かにだけ聞き取れた。


『国を、守っ…て、と……』


 目が閉じていく。

 ウィルフレッドの最期の願い。チェスターの最期の言葉。


 いずれ自分が壊れると知っているアベルには、叶える事が難しい願いだ。

 兄がいなくなったのだから、猶更。


 それでも。



『……わかった。』



 それでも、アベルは了承の言葉を返す。


 チェスターは安心したように力を抜き、そのまま二度と動かなかった。






 どれくらい時間が経って部屋を出たのか、城へ着くまでの道のりがどうだったのか、アベルの記憶には残っていない。


 気付けば返り血と雨で汚れた外套を着たまま、城の廊下を歩いていた。

 着替えを促したい使用人も事情を聞きたい騎士達も、一様に声をかけられずにいる。普段気楽にアベルと話している一番隊のタリスでさえ、今の彼には話しかけられなかった。


 突き刺すような殺気が満ちている。


 ウィルフレッドが死んだ事実が、チェスターに裏切られた事実が、気付いてやれなかった事実が、アベルの心を確実に蝕んでいた。

 頭が痛む事など、首にヒタリとあたる殺意と同じ。慣れてしまえば無いものとして扱える。


 ――ああ、だが…今日は一段と、鬱陶しい。


 不快感に顔を歪め、アベルは自分の首筋に触れた。

 抑えきれない怒りは力となって指先に表れ、ガリガリと皮膚を削る。焼けるような痛みも流れる血もどうでもよかった。この程度で死にはしない。

 手を下ろして前を見据えた。父である国王への報告を義務と認識し、足は勝手に玉座の間へと進んでいる。

 邪魔をすれば何をされるかわからない――彼を目にした誰もがそう感じていた。



『アベル!』



 ぴたりと、足が止まる。

 引き留めようとする騎士の手を振り払い、廊下の先にある客室からシャロンが飛び出してきた。なぜいるのか、学園から一人で来たのかと疑問はあったが、考える余裕はない。


 彼女はアベルにとって、決して死なせてはならない《兄の最愛》だった。


 無意識に放っていた殺気が、殺せない相手を見て消えていく。

 今にも泣きそうな顔で駆けてきたシャロンは、アベルの前に来ると手を伸ばした。


『触るな』


 端的な命令に手が止まる。

 彼女が傷ついた顔をした事を認識しながら、それが何故かも考えられないまま、アベルは言葉を続けた。



『お前が汚れる。』



 感情のない声を聞いて、シャロンはアベルを見つめ――涙を零した。

 最後の一歩を踏み出し、両手を伸ばして冷たい身体を抱きしめる。チェスターの血に濡れたアベルを。


『……離せ。』

『嫌よ…』

『俺が誰を殺してきたか、わかってるのか。』

 シャロンは彼の胸に顔を押し付けたまま頷き、ますます腕に力を込める。アベルにとってはあまりに弱い力だった。

 なのにどうしてか、振りほどけない。

 ウィルフレッドの傍に置き去りにした事を思い出し、微かに目を伏せた。


『……あんな状態で一人にして、すまなかった。』

『いいの、私の、っ事は……それより貴方が、』


 自分が、何だというのか。

 急激に襲ってきた疲労感に抗いながら、アベルは俯いた。雨に濡れた匂いに混じって微かに、花のような柔らかい香りがする。

 無意識に片腕をシャロンの背に回し、彼女がそこにいる事を確かめた。



『――…少し、疲れた。』



『っ…そう、ね。疲れたわよね……』

 掠れた声に胸が苦しくなり、シャロンはさらに涙を流す。

 ウィルフレッドの死に、チェスターの行動に最も傷ついたのはアベルのはずだ。ようやく零してくれた心の欠片を、触れてくれた腕の感触を離さないように、身を寄せる。


 肩にかかる重みが少しずつ増していき、二人は廊下に膝をついた。

 まるで抵抗のない身体を支えながら、シャロンはアベルの首筋を流れる血に気付く。片手を傷口に添え、治癒の魔法を施した。痛みがなくなるように、少しでも苦しみが消えるように。


『今は休みましょう、アベル。ここにいる。傍にいるから……』

『――……。』


 細い腕が自分を抱きしめる強さを感じながら、アベルはゆっくりと目を閉じた。




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