188.とてもよくお似合い
「ただ」
アベルは小声で付け足した。
「君もわかっている通りまだ弱い。騎士でもないのに簡単に同行許可は出せない」
「…はい。」
「行くなと言うのはやめる。そして君の両親が納得するなら、僕はアーチャー家の決定に文句をつけない。」
「わかったわ」
シャロンは真剣な顔で頷く。
ディアドラは話せば背中を押してくれるだろうが、エリオットは渋るだろう事は想像に難くない。
「リビー、お前もいいな」
「は。」
既に事情は聞いていたらしい。
傍に控えていたリビーはシャロンに目をやり、アベルに視線を戻してから軽く頭を下げた。ヒートアップしてきたメリルがレナルドにもチクチク言い始めるのを眺めながら、アベルは短く息を吐く。
「君に何かあれば、ウィルが悲しむ。」
シャロンの方を見ずに、そう呟いた。
「狩猟の日にも言ったが、命の重さは同じじゃない。自分の身を守る事を優先しろ」
「……はい。」
アベルの横顔をじっと見つめ、シャロンは了承する。
前提として、公爵達が対処できる相手ならチェスターもリビーも動かない。そこに同行するとして、万一があってもシャロンが前に出るのは一番最後。
本来「遊びじゃない」と叱責されてもおかしくない所を、本気だと理解してくれているからこその、最大の譲歩だった。
「ありがとうございます、殿下。」
忠告を重く受け止め、シャロンは深く頭を下げる。
数秒姿勢を維持してから顔を上げると、横からつかつかとエリオットが歩いてきた。それとなくアベルとシャロンの間に滑り込んでいる。
「殿下、お忙しい中ご足労頂きありがとうございました。後はこちらで。」
「わかった。僕はこれで失礼する」
「ぁ…」
シャロンは思わず声を漏らし、咄嗟に自分で口元を押さえた。
さっさと立ち去ろうとするアベルを見て、なぜか急に焦ってしまったのだ。しかし理由もなく引き止めていい場面ではない。無かった事にしようとしても、声が聞こえてしまったらしく既にシャロンへ視線が集まっている。
――ど、どうしましょう。「ご機嫌よう」?お礼は今言ったばかりだし、私はただ「またね」って、あぁでもお父様もリビーさんもいる場だから、王子殿下にそう声をかけるのは少し変かも…かと言って「またお会いできる日を」なんて言うのはクドクドしているし、なんだか意味合いが重くなってしまいそうだし……な、何か言わなくちゃ…
ほんの数秒が長く感じられ、シャロンはおろおろと視線を彷徨わせ、所在なさげに胸元で軽く手を握る。それを不思議そうに見ていたアベルは一度瞬くと、何か思い当たったようにふと笑みを零した。
「大丈夫だから、安心しろ。」
少しだけ眉の下がった優しい瞳で、幼い子供に聞かせるように言う。
シャロンは一気に顔が熱くなり、小さく頷く事しかできなかった。焦ったせいかどきどきと鳴っている心臓を押さえ、リビーと共に去っていくアベルの背を見送る。
――こ…子供扱いされてしまった……?
いつも「またね」と言っていた事が急に駄々っ子のように思えてきて、シャロンはふらりと一歩後ずさる。恥ずかしいやら情けないやらでたまらなくなり、両手で顔を覆った。
「旦那サマが青ざめて震えてっけど、あれ大丈夫なのか?」
「いつものだと思いますが、奥様、いかがしましょう。」
「そうねぇ、レナちゃんはどう思う?」
質問を受けて僅かに首を傾げたレナルドに、メリルが「お似合いかどうかという事です」と小声で伝える。
なぜ自分に聞くのか不思議に思いながら、レナルドはディアドラに目を戻した。
薄紫の長い髪を飾る髪留め、隙間からちらりと見える耳に光るイヤリング、演習場の土がつかない長さのシンプルながら質の良いドレス。防寒対策に上着も重ねながら、よく観察すれば身動きの邪魔にならない作りである事がわかる。今日も今日とて彼女が暗器を隠し持っているだろう事も窺えた。
華麗ながら隙のないディアドラ・ネルソン隊長は、アーチャー公爵夫人となった今でも相変わらずだ。レナルドの回答など決まっている。
「とてもよくお似合いかと。」
エリオットがぱたりと倒れた。
◇
「うっ……」
身体にはしった痛みに顔を歪め、ダスティンは目を開けた。
縛られてはいないが、木造の床に無造作に転がされていたようだ。ぼやけていた視界は瞬きをする度に鮮明になっていく。パチパチと音を立てる暖炉の前、絨毯が敷かれたスペースに椅子とテーブルが置かれている。
足首を反対の脚の太腿に乗せるようにして、一人の少年が椅子に腰かけていた。
「おっ、起きたか?」
膝に何か本を広げていたらしい彼は、ザラついた声で楽しげに笑う。
聞き覚えがあった。だが、思い出せない。
鼻から下を隠すようにスカーフを巻きつけ、茶色いガラスのはまったゴーグルで目元を覆い、フードを深くかぶっている。特殊な粉薬を使い、その声質を誤魔化している誰か。
「あん、たは…」
床に腕をつき、ダスティンはぐらつく頭を押さえながら背を丸め、緩慢な動作で起き上がった。頭を押さえていた手を下へ、顔全体を撫でるようにして離す。
部屋の隅にはベッドが一つあり、入口の扉を守るように屈強な男が二人並んでいた。夜なのか、カーテンの隙間から見える窓の外は真っ暗だ。場所に覚えはないものの、椅子に座る少年だけは記憶のどこかに引っかかっている。
「オレを忘れちゃったのか?寂しいなー……んちゃって。ハハ!」
「…えっと。」
明るい茶髪をぐしゃりと混ぜ、ダスティンはフラつきながら立ち上がった。
扉を守る男達は唇を一文字にし、目元はフードに隠れているもののダスティンを睨みつけている事だけは雰囲気でわかる。警戒されているのだ。
テーブルに置かれていたフルーツ盛りからリンゴを取り、少年はクシャリと齧りつく。彼だけは何の警戒心もなしに、膝に本を置いたまま背もたれに身を預けていた。そう珍しくもない果実を味わうように目を閉じ、むぐむぐ咀嚼する。
ダスティンは気まずさと――底知れぬ恐ろしさを感じて、口を開いた。
「すまない、君は誰かな。悪いけど思い出せないんだ。酔い過ぎたのかも。」
自分から酒の匂いがしない事に気付いていながら、笑う。
現状を把握しなければいけなかった。なぜ自分がここにいて、目の前の相手は誰なのか。気さくな馬鹿でも装って。少年は空いている方の手で本のページを掴み、後ろを見もせずに投げ捨てた。
「ハハハハ、そうしてるとすっごい普通の人だな!オレ助けてあげたんだけど、覚えてる?」
「助けた?……誰からだい?俺は確か…」
「見張られてたんだよ。そのまま待ち合わせに来られると困るからさぁ。」
クシャリ、クシャリ。
少年の口の中へ、果実が潰れて押し込まれていく。果汁で濡れた指をぺろりと舐め取って、彼はダスティンに笑顔を向けた。
「かっ攫ったわけだ。あ、つけてた奴らは殺してないぜ?関わるの面倒だもんな。」
「…見張るとか、つけるだとかって、俺をか?誰がそんな事…」
「宣言!」
汚れた手指を揺らし、少年が唱える。
「水よ、俺と遊ぼうぜ?」
空中に水が現れ、彼は手を突っ込んだ。濯ぐというより、ぐちゃぐちゃに掻き乱すように指を動かす。握ったり開いたり、掻き分けたり。それを楽しむような笑みを浮かべて。
まるで何かの臓物を掻いているようだと、ダスティンは内心顔を歪めた。この少年から離れた方がいいと本能が言っている。しかし、どうやって。
ばしゃん、と床に水が飛び散った。少年はズボンに手を擦り付けて水分を拭きとる。
「今ってどこまで覚えてるんだ?オレの事忘れたのはわかったからさ。教えてくれよ、あんたは誰の手下?」
「…俺はただの商人だ。誰かの手下って事はない。」
「へぇ!本当にすげーんだな、喋る心配なくて安心。でもレアケースなんだろ?」
「……何の話を」
「ほら。」
ポケットを探り、少年は小さな瓶を床へ放り投げた。
飾り彫りが施されたそれは薬の容器。足元まで転がって止まると、ダスティンは自然と手を伸ばして拾い上げた。自分の物だとすぐ気づいたからだ。
「――こ、れは…」
睡眠薬だ。
ダスティンの脳はそう回答する。寝る前にひと掬い、口に含むといい。心が晴れるから。よく眠れるようになるから。無意識に蓋を開け、ダスティンはそのまま指で掬い取った。何かがおかしい。
ここがどこかも知らず、自分が誰につけられたかもしらず、離れた方がいいと感じた少年を前にして、寝る前に口にすべき薬を含んでいる。
全てがおかしいのに、それならどうすればいいのか、ダスティンはわからない。
思考が混ざり合うようなどろりとした感覚。
自身に何が起きているかを思い出し、ダスティンはよろよろと歩いて床に倒れた。足が上手く言うことを聞かなかったのだ。もう一つの意識は、進む事を拒否した。その結果だった。
少年は楽しそうに弧を描いた目で見下ろしている。
ダスティンは恐怖と自己嫌悪に震えながら手を伸ばし、少年の靴に手をかけた。
「どうしたんだ?いきなり這いずりだして。」
「頼む…俺はどうなってもいい、から……だから、」
「はは」
「家族にだけは、手を出さないでくれ……」
「あっはははは!!」
腹を抱えて大笑いし、少年は掴まれた方の足でダスティンの顔面を蹴り飛ばした。
「俺はどうなってもいい?ぷぷ…馬ッ鹿じゃねぇの!お前なんか狙ってどーすんだよ。なーんにもならないじゃん。」
「大事、な゛んだ……頼む、頼む゛……」
「オレは仕事を引き受けただけなんだから、抗議したいなら依頼人に言えよなー。ま、聞いた限りお前にはエサ以外の価値ないし、無駄だと思うけど。」
けらけらと笑って立ち上がり、少年はダスティンの頭を踏みつけた。
上からじぃっと見下ろせば、灰色の瞳はどこを見ているのか虚ろになっていく――かと思えば、ぎょろりと少年を睨み上げた。
振り払われる前に足をどかし、少年はにこりと笑いかける。
「おはよう!目覚めはどうだ?」
「最悪だ、クソガキ!」
ダスティンは憎々しげに吐き捨て、立ち上がりながら踏まれていた箇所を執拗に掃う。ジャケットの襟を整え、ハンカチで鼻血を拭って舌打ちした。
態度が急変した彼を見て、少年はげらげら笑い始める。
「性格変わり過ぎ!っはははは!面白れ~!」
「ふざけるな!閣下とは別で金を払っているんだ、次また私に無駄な怪我をさせてみろ、許さんぞ!」
「い~よ別に許さなくて。オレをどうにかできるならやっていいし!」
できないだろう事をわかっていて、少年はそんな事を言う。
ダスティンは額に青筋を立てながら椅子を引き、どかりと腰かけた。この少年の能力があれば、人を殺す事などあまりにも容易い。それをわかっていたからだ。
「で、何でいきなり騎士の見張りがついてたんだ?連れ出すの、ちょ~っとめんどかったんだけど。」
さっきまで座っていた椅子に靴のままぴょんと乗り、少年はしゃがんで聞く。治癒の魔法で鼻血を止め、ダスティンは脚を組んだ。
「年末に開かれたパーティーでうちの王子殿下達に会った。何も粗はなかったはずだが、それがきっかけかもしれんな。」
「あ~、はは。噂は色々聞いてるぜ。双子で~、金パツと黒アタマでぇ~。」
馬鹿にしたように間延びした声を出し、少年はわざとらしく指折りし始める。ダスティンは片眉を吊り上げて不快を示した。
「閣下の前ではやめておいた方がいいぞ。あの方は第二王子派だからな。」
「へぇ~。‘ クソじゃん ’!」
「……。」
ダスティンは黙ってフルーツ盛りに手を伸ばし、異常がないか調べてから一口かじりついた。少年の話す言葉を理解できている事など、わざわざ伝える必要もないだろう。
ソレイユ王国出身の暗殺者。
金さえ払えば類稀なるその力を使ってくれると言う。
「けど、そっかぁ……第二王子が動いてるかもってんなら、もちーっと詰めとこうか?金は貰うけど。」
「確実に兄貴を殺せるか?」
「それはもちろん!任せてくれよ。ただあんま人数多いと邪魔されっから、人削っとこうぜ!」
「どうするつもりだ。」
「協力してもらう。」
少年は紹介するように腕を広げ、窓のある壁を振り返った。誰もいない。
訝しげに目を寄越すダスティンを気にも留めず、少年はスカーフの下でにやりと笑った。
「出番だぜ、女神様。オレと遊んでくれるよな?」




