186.先生vs私達
赤い短髪。
右目には黒い眼帯をつけ、鋭い左の瞳は緑色をしている。細めながらも凛々しい眉に、引き結ばれた薄い唇。軽薄さなど微塵も感じられないその美丈夫こそ、ツイーディア王国騎士団の副団長、レナルド・ベインズ卿である。
今は騎士服の上着だけ脱いだ出で立ちで、左手には黒革の手袋をはめ、訓練用に刃を潰された剣を握っていた。
対峙するのはシャロン・アーチャー公爵令嬢。
薄紫色の髪をポニーテールにまとめ、同じ色の瞳でレナルドを見据えている。こちらは革製の防具を装着し、刃の潰れた細身の剣を持っていた。
そして、彼女の護衛であるダン・ラドフォード。
灰色の短髪に三白眼。百八十センチ近くなってきた身長はレナルドともそう変わらない。両手に装着した銀のガントレットが日の光に反射する。
三人が立っているのは、騎士団本部にある演習場の一つだ。
広い客席にはシャロンの父母であるエリオットとディアドラだけが座り、その後ろに侍女のメリルが控えている。
まるで授業参観だと思いながら、シャロンはレナルドがルールを再確認してくれるのを聞いていた。双方暗器の類は禁止、レナルドは魔法禁止等のルールは、ディアドラと打ち合わせて決められたものらしい。
「よろしいですね。シャロン様。」
「はい。」
抗議すべき事は特にない。レナルドの言葉に頷いたシャロンは、緊張を抑えようとつい癖で自分の胸元に触れた。いつもならそこにある感触は、今は無い。一度しか発動しない魔法をここで使ってしまう事のないよう、自室に置いてきたのだ。
ダンは黙ってレナルドを睨みつけている。鍛錬に参加していなかったため、その実力は未知数だ。
レナルドとシャロンは剣先を上にし、ダンは片手の拳を横にして胸の前に掲げる。
剣を習いたいと言い出した結果を見せてほしいとエリオットは言った。護衛となったダンの実力を見る場でもあるだろう。彼の指南役をしていたランドルフの姿はなぜかないものの、
『勝手は許さない。僕を説得したいならベインズから合格をもらえ』
唐突に決まったこの試合がどういう意味を持つのか、シャロンとダンは理解していた。結果は必ず、アベルのもとに届く。
「「「よろしくお願いします。」」」
開始前の礼を聞き届け、ディアドラは立ち上がった。
艶やかな唇を開いて、普段シャロンが聞くよりも幾分低い、凛と張った声を響かせる。
「では――始め。」
ダンが最初に地面を蹴った。
レナルドを殴りつけようとし、彼が一歩ずれて回避したところを追うように反対の手で二発目を叩き込む。初撃をかわされるのは想定内だ。レナルドはその拳を剣で受け止めながら後方へ跳び、着地点に横から飛び込んできたシャロンの突きを身体を捻ってかわす。
シャロンは剣を片手で持っており、剣を振り下ろすレナルドの腕を、空いている方の手で横から払う。か細い少女の、片腕で。到底無理な話だ。力負けするに決まっている。
魔力が込められていなければ。
「はあ!!」
前へ出ている方の足を強く踏み込み、シャロンはレナルドの腕を叩き払う。無理な体勢だという自覚はあったので、できる限り全身に魔力を巡らせた。ほんの一秒しか持たないが、お陰でどこかを痛めるような事もない。
レナルドが眉を顰める。シャロンが時折見せる怪力をここで使うとは思わなかったのだ。
骨折に至るほどではないものの、強い衝撃を食らって剣を持つ腕が横へ弾かれる。シャロンは身体を捻って跳び退るようにして距離を取り、レナルドはその間に目の前まで迫っていたダンの攻撃を避ける。赤髪の端を拳が擦った。
「あぁあああッ!!」
咆哮を上げてダンが繰り出す連撃を避け、剣で防ぎ、レナルドは隙を突いて胴体に一撃を叩き込む。寸前、シャロンが右側から飛び込んできた。レナルドの死角を狙ったようだが、足音と気配で把握している。
ダンへの攻撃を優先すれば、シャロンの剣がレナルドの身体に食い込むだろうという状況。
しかしレナルドは攻撃を中断するのではなく、スピードを増した。そのままダンを後方へ吹っ飛ばし、シャロンの突きをギリギリ剣で払い、驚いている小さな身体を蹴り飛ばす。
「ぐあっ!」
「きゃあ!」
きちんと防具を狙ってあてられた蹴り。シャロンは咄嗟に魔力で身体の防御力を上げ、さらにダメージを軽減した。
だが、痛みを減らしただけだ。蹴られた勢いで飛ぶ距離は変わらない。思わず一瞬瞑ってしまった目を意識的に開け、受け身を取ってすぐに立て直す。
シャロンが顔を上げると、レナルドはダンに追撃していた。
二人の方へ駆けながらその攻防を観察する。あっという間にダンが追い詰められていく。
「宣言!風よ、――ぐっ!」
唱え始めた途端、レナルドは攻防の隙をくぐり抜けるようにしてダンの顎に掌底を食らわせた。強制的に宣言を中断させ、剣を振る。
「ダン!」
シャロンが割り込み、レナルドの剣をギリギリで止めた。
そのまま走っては間に合わない距離だったが、最後の一歩で脚に魔力を込めたのだ。シャロンは「ダンから離れさせなくては」という一心で、レナルドの剣を受けたまま彼の胴体を蹴りつける。
片腕でガードされたが、強化した脚による一撃はそれでもレナルドを後退させるだけの威力があった。
「ッてぇ…」
ダンは不快そうに呻きながら体勢を立て直し、「宣言」と呟く。
即座にそちらへ走り出したレナルドにシャロンが切りかかるも容易く防がれた。ダンは宣言を唱えるのを止めずに拳を振りかぶる。恐れずに言い切った者勝ちだ。
「風よ、こいつをぶっ飛ばせ!」
振り抜いた拳そのものはレナルドにあたらないが、暴風とも呼べる風がその身体を吹き飛ばし、客席の土台に叩きつけようとする。
レナルドは冷静に空中で身体を捻り、先に剣を突き刺してから足裏で壁に着地した。一秒にも満たない時間での調整だ。そしてダンの風が途切れると剣を強引に引き抜き、地面に降り立つ。
二人は既に駆けてきている。
シャロンはレナルドとダンどちらの動きも見える位置をとっていた。レナルドは先頭のダンを迎え討つと見せかけ、寸前で横へ跳ぶ。着地した足は強く踏み込み、一足飛びにシャロンへと迫った。
「――っう!」
シャロンが目を瞠り、咄嗟に剣で防御の姿勢をとる。前へと走っていた足は止めきれていない。ガン、と大きな音を響かせて剣がぶつかり、斜め下へと押し飛ばされた。立て直すには時間も距離もない。シャロンの身体は背中から地面に叩き落とされ、跳ね返った。
「う゛ぁっ!」
「お嬢!!」
レナルドの横からダンが突っ込み、追撃を防ぐ。
攻防の最中に剣が掠って頬が切れても構わず、ダンは強引に自分の身体を押し込むようにしてレナルドを下がらせる。
シャロンは剣から手を離してはいなかった。痛みに顔を顰めながらも立ち上がって走り出し、自分は大丈夫だと報せるように叫ぶ。
「宣言!水よ現れて、レナルド先生のもとへ!」
唱え始めた瞬間から周囲を警戒したレナルドは、ダンの攻撃を防ぎ、いなし、時に切り返しながら違和感を覚える。シャロンの視界の範囲、特に自分の周りは左目で確認した。だが、彼女が唱え終えても、辿り着いて参戦しても、何も起きなかったのだ。
――不発か?
シャロンの表情は鬼気迫るものがある。不発を悔しがる様子もショックを受ける様子もない。ならば、とレナルドは考える。
早くから魔法に目覚め、鍛錬を積んだ少女――それも、あのディアドラ・ネルソン隊長の娘。特務大臣エリオット・アーチャー公爵の娘。ならば。
――不発ではなく、集中を持続させている。
「宣言!風よついてこい、」
シャロンを警戒しつつも、レナルドはダンの宣言を中断させるべく拳を繰り出した。シャロンが横から蹴りつけて止める。
「俺を押し飛ばせ!!」
ダンが宣言を終えると同時、シャロンはレナルドの剣を弾いて後方へ跳んだ。
「ッ、今!!」
片手を剣から離し、レナルドの方を強く見据えたままシャロンは指を鳴らす。やはり発動のタイミングをずらしていたのだ。
レナルドは二人の攻撃を避けるためにその場を飛びのこうとし、
ズルッ。
軸足が滑る。
シャロンの魔法は攻撃するのではなく、レナルドの足下を泥に変えていた。
「っらあ!!」
追い風を受けて勢いを増したダンの拳が、ガードしたレナルドの剣を叩き折ってその胴体へと沈む。レナルドの身体が後方へ飛び、黒手袋に包んだ左手が地面を擦って勢いを殺す。トトン、と足音を鳴らし、レナルドは身を翻して着地した。
ダメージの感じられない、ぴしりとした立ち姿。
こほ、と一つ空咳をしてから、彼は緑色の左目で折れた剣を見やる。剣先は、肩で息をするダンの前に落ちていた。シャロンは飛び退いた姿勢のまましゃがんでいたが、ふらふらと立ち上がる。
「そこまでにしましょうか。」
ディアドラの一声で、ダンとシャロンがくしゃりと座り込んだ。緊張の糸が切れたのだろう。
下へ降りるべく駆け出そうとしたメリルを手で制し、ディアドラは夫を見やる。レナルドから報告を受けていても、娘の実戦を見るのは初めてのこと。銀色の瞳はこちらを見て、眉間に刻まれた皺をほんの僅かに緩めて、瞬きと共に息を吐いた。
ディアドラが譲らない時に、エリオットが譲歩する時の仕草だ。
「シャロンちゃん、頑張ったわね?」
「……かなり手加減されているとはいえ、想像以上ではあった。」
「レナちゃんも満足そうだわ。」
「心配は尽きないが…一定の実力がある事は認めよう。」
「えぇ、認めなかったらそれは理不尽というもの。守る事を放棄はしないけれど、あの子が望む自由も許さなくては。」
微笑んで、ディアドラは立ち上がる。
エリオットも複雑な顔をしながら立ち上がり、客席から地面へと飛び降りた。ディアドラもその後から続きたい気持ちに駆られたが、今はドレス姿。すぐ脇の階段へ大人しく向かう。
こつこつと足音を響かせて階段を降りながら、メリルはお腹の前で揃えた手を不安げに握った。見た目には小さなお嬢様は、もう随分と強くなっている。
『怖くは…ありませんでしたか?』
『とっても怖かったわ。』
『…でしたら、もう』
『でもね。私が怖くて動けないせいで、誰かが傷つく方がもっともっと怖くて……だから、大丈夫よ。もうそんな事にならないために、まだまだ鍛錬を頑張るの。』
護身の域はとうに越えた。
驚いた顔をしながら時々見せるくらいだったあの怪力も、今では明らかに狙って使用している。レオとの試合も勝ち越してしまった。
『人を傷つける方法を学ばれているわけではありません。』
『それで死んだらお終いだろーが。』
ダンとの会話を思い出し、メリルは憂鬱に眉を顰める。
――貴方の言う事は正しい。確かに、敵を優先してシャロン様がお亡くなりになるような事があってはならない。……でも、自分の身を守って逃げ出せればそれで充分でしょう。これ以上お強くなられたら……たとえ誰かを守るためだとしても、人の命を奪うような事に、もし、なってしまったら。
握った手の震えを隠して、ただ目を伏せていた。




