182.君は駄目
喫茶《都忘れ》二階、個室。
複数人が階段を上がってくる音が微かに聞こえ、シャロンは緊張で喉を鳴らした。
意味もなく男装用のジャケットの襟を正し、ネクタイの結び目に手を触れる。やがて扉がノックされ「お連れ様がお見えです」と声がかかると、隣に座っていたダンと共に立ち上がった。
「こんにちは、アンソニー様。」
いつもより少し低い、落ち着いた少年のような声でシャロンは微笑む。横に控えたダンも無言で軽く俯く程度には頭を下げた。シンプルなグレーのベストを着たアベルは、軽くネクタイを緩めながら部屋に足を踏み入れる。
「久しいね。ルイス」
「えぇ。お元気そうで何よりです。」
アベルはテーブルを挟んでシャロンの正面まで歩き、後から部屋に入ったチェスターは腕にかけていた二人分のコートをコート掛けへと運んだ。アベルの手振りでシャロンとダンは一拍遅れて着席し、ウェイトレスはぺこりとお辞儀をして退室する。
やがて注文した飲み物が全員の前に配られると、アベルは優雅に脚を組んでからシャロンとチェスターを見やった。
一つ頷いて、チェスターが口を開く。
「アベル様。俺達が相談したい事、なんだけど……《先読み》された未来の話なんだ。」
《未来視》とも呼ばれるスキル。
起きる可能性のある未来を知る事ができ、具体性は個人差がある。視覚情報を得る人もいれば、聴覚の者、心に浮かぶ雰囲気だけを感じ取る者などそれぞれだ。
チェスターはシャロンと共通の友人に《先読み》持ちがいるとして、自分の両親が雪の日に襲撃を受けること、馬車ごと崖から落ちて亡くなること、それは二月頃であること……そして、現場にいたかまではわからないが、企んだのは叔父のダスティン・オークスらしいという事を伝えた。
「……考えにくい話だな。」
吟味するようにゆったりと瞬きをして、アベルは呟く。
チェスターの父、パーシヴァル・オークス公爵は軍務大臣にして前騎士団長。襲撃を受けたにも関わらず、大人しく馬車の中に留まっているとは思えない。
アベルから否定的な言葉が出た事に少し眉を下げ、シャロンが訴える。
「あくまで《可能性の未来》……でも、念のために備えたいと思うの。」
「そもそもの話だけど、君達は僕にその《先読み》持ちの素性を明かさないって事でいいんだね?」
「……ごめんなさい。そればかりは。」
「わかった。このスキルはいくらでも騙れるだけに、信用できる相手かどうかが重要だ。騎士を動かしたいなら余計にね。」
叱るでも不快感を示すでもなく、アベルは事実を淡々と述べた。
シャロンとチェスターが自分を騙そうとしているとは思わないが、彼女らの言う《先読み》持ちがどんな思惑を持った人物なのか、アベルには判断のしようがない。
――俺にそいつの素性を隠す意味がわからないな。何かしらの犯罪者か?この二人の共通の知り合いと言えば、画家のガブリエル・ウェイバリーだが……あれは《使い魔》持ちだとわかっている。
「少なくともこれに関して、その人は嘘を言ってない。俺は信用してるよ。」
チェスターが真剣な顔で告げると、シャロンも頷いた。
以前ここでチェスターと打ち合わせた時とは違い、シャロンはアベルが「《先読み》持ちはシャロンではないか」と考える事はありえないとわかっている。
あの夜、魔力を込めた水晶が魔法を防いでみせた瞬間から。
シャロンは少なくとも《先読み》持ちではありえなくなったのだ。これで堂々と話ができるというもの。
「絶対ではないけれど、可能性の一つとして信じてもらえたら…」
「信じないとは言ってない。」
きっぱりと返され、シャロンとチェスターが希望に満ちた視線を交わす。
「素性が気になりはするけど、言わないならそれでもいい。君達二人がそれほど信用する相手なら、他の《先読み》持ちに検証させる価値はある。」
「検証……」
シャロンは驚いた様子で繰り返した。可能性の未来は、実際にその出来事が発生するまで確かめようがないと考えていたのだ。
アベルの言う他の《先読み》持ちについては、チェスターには明確に予想がついた。クローディア・ホーキンズ伯爵令嬢の事だろう。
「内容については…あの公爵が馬車ごと転落するなんて、普通は考えにくい。でもその可能性が提示されたのであれば、そうなるだけの何かが起きたという事だからね。備えが必要だという意見には賛成する。」
シャロンは思わず「ありがとう!」と笑いかけそうになったが、なんとか堪えた。まだだ。シャロンとチェスターがこっそり尾行するという話には至っていない。
チェスターは居住まいを正してアベルを見た。
「…アベル様。可能であれば、リビーさんの力を貸してもらえませんか。誰が関わっているか全容が不明である以上、その時が来たら父上や護衛の者達にも内密で後ろをつけたい。」
「……お前がか?」
「はい。」
「私とダンも。」
シャロンが言った途端、アベルの片眉が僅かに上がる。
彼が「許すわけないだろう」と考えたのは誰の目にもわかる事だった。それでも食い下がらなければと、シャロンは少し前のめりになって彼を見据える。
「見届けると約束したの。何も無ければ大人しくしているわ。もちろん何かあったって、問題なさそうなら手出ししない。……お願い、アベル。じっと待っているだけなんてできないの。」
「ただの我儘だね。」
「えぇ。貴方やリビーさん、チェスターにもダンにも迷惑をかけるし、閣下や護衛の方々にしてみれば余計なお世話かもしれない。だけど、嫌な胸騒ぎがするの。……ダスティン様に会って、貴方はどう感じた?」
真顔のパーシヴァルと共に兄弟仲良く踊っていたダスティン。
時折ジョークを挟みながら笑う姿を、ゲーム画面で嘲笑に顔を歪めた彼を思い出し、シャロンは胸元で軽く拳を作った。
「私には、普通の方にしか見えなかった……だから余計、提示された《可能性》が怖いのよ。」
「……。」
目を閉じて、アベルは一度だけ指先で膝を叩く。
『今日は、チェスター様の叔父様もいらっしゃるそうですね。殿下はお会いになった事がございますか?』
『ない。公爵の弟とはいえ一介の商人だし、普段王都にいないようだしね。』
「君はあの時既に、《先読み》の話を知っていたわけだ。」
視線を合わせて聞くと、シャロンは頷いた。
アベルの言う「あの時」がジェニーの快気祝いの事だとしても、あるいは水晶の実験をした夜の事だとしても。シャロンは未来を知っていた。
一つため息をついて、アベルは問いに答える。
「…僕を避けているとは思った。」
予想外の答えに、三人は僅かに目を見開いた。
シャロンも、チェスターも、ダンも、快気祝いの席でそうは感じなかったからだ。しかし考えてみれば、ダスティンの様子に注意を払ってはいたが、誰に接触しているかまでは気にしていなかったと気付く。
「ただ、それは商人の多くがそうだ。グレーゾーンに手を出している輩なんかは特にね。僕が騎士団と関わり深い事はある程度知られている。……あるいは、《人殺しの王子》と関わりたくないか。だからさして問題視しなかった。」
「……俺は、アイツちょっと薄気味悪かったけどな。良い奴っぽさが過ぎて。」
ダンがぼそりと言う。
シャロンは既に聞いていた意見だが、初耳だったチェスターは困惑して視線を泳がせた。記憶の中の叔父はいつも明るく笑い、軽くおどけ、温かい家族の輪の中にいる。
「そういえば…《先読み》された未来では、叔父上は口調が違ったんだっけ?」
「え?えぇ……一人称や、閣下の呼び方も違うという話だったわね。性格もだいぶ。」
「……なるほど?」
紅茶を一口飲み、アベルは呟くように言った。カップをソーサーの上に戻し、顎に軽く手をそえる。
――違法増強剤《ハート》が、とある公爵領で密造されている……それが真実で、オークス公爵領の話だったとしたら。ハワード・ポズウェルが公爵に面会を求める理由も、それに関するものだったとしたら。
《ハート》は、魔力の増強剤としては最も効果が低い。
なのになぜ広まっているかといえば、気分の高揚と多幸感が長時間得られるからだ。ゆえに重度の依存症に陥る者が多い。唇や歯の裏に塗りつけ、舐めて服用する。
禁断症状は強い苛立ち、不安感、動悸。
そして、人格の破綻。
「…チェスター。叔父が来ている間に荷物を改めたりは?」
「してない、ですね。」
「そう。」
ダスティン・オークスが既に《ハート》を服用しており、来月、人格の破綻がもたらされるのだとしたら。大まかには筋が通る。
シャロンは不安げに二人を見比べた。
「何か思い当たったの?」
「……少しはね。チェスターの同行は認めるよ。リビーには後で言っておく。」
「ありがとうございます。」
チェスターが深く頭を下げる。シャロンがこくりと喉を鳴らした。
「…私は…」
「君は駄目だ。親の許可もなしにご令嬢を危険な場所に送れない。」
「――…許可が、あればいいのね?」
確かめるように聞くと、アベルの瞳がシャロンへ向けられる。
「それが全てじゃない。公爵は許可しないだろうけどね。」
「ダスティン様も、誰かはわからないけれど敵の一人も風の魔法を使うわ。ダンは良い助けになると思う。」
「君は水だ。」
「えぇ。できるだけ下がっているから。」
「騎士ではなく君を行かせる理由が全くないね。駄目だ」
「では勝手についていくわ。」
「…何だと?」
アベルがあからさまに眉を顰めた。
チェスターは僅かに開いた唇の前に手をかざし、どうしたものかと瞳だけで二人を見比べている。ダンが豪快にアイスティーを喉へ流し込んだ。
「王子サマよぉ、邪魔なのはわかるけどお嬢の強情っぷりも中々だぜ。あんたがマジで協力しないんなら、本当に屋敷を抜け出すかもな。」
「……君は馬に乗れないだろう。」
「俺は乗れんだよなァ。」
氷を口の中で噛み砕き、シャロン・アーチャーの従者はにやりと笑ってみせる。
シャロンははっとして口元を押さえた。
「そう…そうよね。確かにそうだわ。あぁ、私ったらそこが抜けていた。乗馬の練習もしなくては」
「やめろ。君がどこへでも行けるようになると収拾がつかない。」
「ヒヒ。そんなに心配なら、城にでも閉じ込めりゃいいんじゃねぇの?」
「ダン、アベルはそんな事しないわ。…でも……私の開錠技術がどこまで通じるかは、少し気になる所ね。」
「………。」
アベルが黙って背もたれに身を預け、額に手をあてた。
ダンは至極楽しそうに脚を組んでそれを眺めている。チェスターはそろそろと手を伸ばしてコーヒーを一口だけ飲んだ。
――ちょっとちょっと、あんまりうちの王子様の機嫌損ねないでね!?俺これから一緒の馬車で帰るんだから!
「えーっと……問題はさ、その未来がいつかって話!ねっ。」
仕切り直しというように軽く手を叩き、チェスターが笑いかける。アベルは背もたれに寄りかかったまま、気だるげに視線を寄こした。襟元を緩めたせいか妙に色気がある。
「《先読み》結果を聞いた感じ、雪は十センチ以上積もってる。王都じゃない可能性が高いよね。うちの両親が揃って王都を出るとなれば、少なくとも俺は必ず知らされる。下手に《先読み》とズレても怖いから、父上に話すのは予定が決まってからが良いと思うんですけど、どうです?」
「そうだね……」
――オークス領の内偵……公爵家、それも現役の大臣の領地ともなれば慎重な確認が求められる。騎士の選抜と計画、実行。報告を受け、凡その疑惑が固まって監視役と共に現地へ行くのは……確かに、来月半ば頃だろうな。
アベルはゆっくりと身を起こし、三人を見回した。
「《先読み》の検証もあるし、この件は僕が預からせてもらう。知らせてくれた事には礼を言う。……シャロン」
「はい。」
シャロンはぴしりと背筋を伸ばして返事をする。
緊張した面持ちの公爵令嬢に、第二王子はにこりともせず言い放った。
「勝手は許さない。僕を説得したいならベインズから合格をもらえ」
ブクマ、ご評価、ご感想ありがとうございます。
とても励みになっております。
ワクチンをやってきたので、今週の更新はここまでです。




