17.帰り道
ガタン。
馬車が大きく揺れて、目を開いた。
ぼやけた視界には二頭並んだ馬の背と、その先で開いていく仰々しい門扉。
一体ここはどこで、私は今、何に寄りかかっていたのかしら――…
「起きた?」
我が国の第二王子殿下だった。
冷ややかな金色の瞳がこちらを見ている。私の口から「はわ」なんて意味のない声が漏れて。
不敬な距離に思わず仰け反ったら危うく落ちそうになり、ブラウスの襟を掴んで引き戻された。色んな意味で心臓がドッドッドッと音を立てる。
アベルはわかりやすく眉根を寄せた。
「危ないでしょ。」
「はい…ごめんなさい。ありがとうございます……」
お礼を言って周囲を確認する。私達を乗せた馬車は、今まさに王城へ到着したようだった。
第二王子に御者をさせているあいつらはなんだと、騎士達が馬車を指して青ざめたり叫んだりしている。
後ろを振り返ってみると、青年はまだ伸びたまま。
その前の席では、行商人が「ここがお城ですかァ!」と嬉しそうに騎士達へ手を振っていた。たぶんそれは今すぐにやめたほうがいいわね。
「アベル様」
声をかけてきたのは随分と背の高い騎士だ。二メートルまではいかなさそうだけれど、お父様より背が高いのは確か。
薄緑の髪は前髪を全て後ろへ流してハーフアップにし、片手を胸にあてた彼は目を閉じてにっこりと微笑んでいる。
「部屋の準備はできていますよ。」
「この男をそこへ。所持している毒草の検分と事情聴取を頼む。新種ではない」
「承知致しました。さぁ商人殿、こちらへ。」
「毒?あれ、何の話です?貴方さっきの人ですよね?」
行商人はやっぱり状況を飲み込めていないようで、疑問符をたくさん浮かべながら連行されていった。……連行されてる事にも気付いていないかもしれない。
毒草だとは知らなかったみたいだけれど、一応彼も雑草という認識で薬草だの香草だのと言って売り、おまけに実害も出ているのだから、当然お咎めはあるだろう。
「こいつはどうしたい?」
気絶したままの男――たぶんこの馬車の本来の御者さんかその見習い――をちらりと目で示して、アベルが聞いてきた。私はもちろん屋敷に連れて行きますと答える。
お金をお渡ししなくちゃいけないわ。……あら?でも手綱を握ってくれたのはアベルだから…その場合どうしたらいいのかしら。
この方の馬車を勝手に使ったのは確かで…
「下町に馬を一頭預けている。手間賃と売却額の倍で買い戻しだ」
私が悩んでいる間に、アベルがお城の人にてきぱきと指示を済ませている。私は口元に手をあててひっそりと小声で聞いた。
「アベル、貴方この後は?できれば屋敷に戻ってお金を返したいわ」
「そこは気にしなくていいけど…まぁ、面白そうだからついて行こうかな。」
面白そうとは?
目をぱちくりさせて首を傾げていると、座席の方から「ッてて…」と声が聞こえた。
「よかった、目が覚めたのね!」
御者台に膝をついて振り返ると、ちょうど起きたばかりらしい三白眼が私を捉え、カッと目を見開いた。
「あってめぇ!!このクソガ…キ……」
声が尻すぼみになり、小さな瞳があちこちへ動く。
しまった、混乱させたかしら。目が覚めたら城で警備の騎士に囲まれているだなんて、どうしたって怖いわよね。
「なん…は、はぁ!?ど、どういう…」
「目が覚めたなら君に代わってもらおうか。」
立ち上がったアベルが軽やかに地面へ下りる。
後に続こうとした私に彼が手を差し伸べると、さざ波のように騎士たちからざわめきが広がった。その反応に疑問を覚えつつ、私は手を支えにアベルの隣へ着地する。
ただならぬ空気を感じてか、灰色髪の彼も馬車を降りた。
眉間に深く皺を寄せ、こちらを睨む様子はまるで……野良犬の威嚇のよう。
アベルが向き直って名乗る。
「僕はアベル・クラーク・レヴァイン。この国の第二王子だ」
目をひん剥くってこういう事を言うのね。
彼は唖然としてアベルを見つめ、じゃあお前はなんだよとばかりに視線がこちらへ向いた。
スカートではないけれど、私は片足を引いてちょっとだけ腰を落とし、すぐ姿勢を正す。
「アーチャー公爵家長女、シャロンです。」
家名を聞いた事があるのか、それとも単に「公爵」という言葉に反応してか、青年の眉がピクリと動く。
騎士達からのプレッシャーを一身に受け、彼はひどく不本意そうな顔でゆっくりと跪いた。
「……ダン・ラドフォードと申します。」
「僕達はこれから、君の馬車でアーチャー公爵邸へ向かう。道順は伝えるから気にしなくていい。……引き受けてくれるよね?」
ダンは黙って頭を下げた。
アベルは質問形式をとったけれど、城で騎士に囲まれた状況で、第二王子であるアベルの依頼を断れるわけがない。実質命令だ。
「アベル様。」
「ひゃあ!?」
すぐ横から聞こえた声に思わず悲鳴が漏れ、飛び上がってしまう。
顔の下半分を黒い布で覆った黒髪の女性騎士が、跪いた姿勢で茶色の瞳をアベルに向けていた。
い、いつからそこにいたのかしら…。
「伝言は済んでおります。ちょうど出ようとしていた所だったので、助かりましたとの事。」
彼女が頭を下げた時にキラリと光った物をよく見ると、前髪を金色のヘアピン二本で留めているようだった。
髪はショートヘアかと思ったけれど、実際は後ろの低い位置で一つに括っているみたい。髪が細いようで、するりと流れるような綺麗な黒髪だ。
「わかった。…リビー、無駄な事はしなくていい。」
「っ……失礼致しました。」
リビーさんというらしい騎士はびくりと肩を震わせ、深く頭を下げた。
無駄な事とは?
「シャロン、行くよ。」
振り向くと、既に座席へ上がったアベルが手を差し伸べてくれていた。気付くのが遅れてしまったわね。一言謝ってその手に掴まる。
御者台に上ったダンは黙ったまま馬車を出発させた。
ガタガタと馬車が進んで、城の門が閉じていく。
あれだけ騎士がいて誰も来ない事をふと疑問に感じて、私は隣に座るアベルへ目を移した。
「そういえば、貴方の護衛騎士の方は?」
「さっきの二人だよ。行商人を連れて行ったのがロイ、君をわざわざ脅かしたのがリビーだ」
わざわざ、という言葉にきょとりと瞬く。
私が気付けなかったのは勿論だけれど、彼女自身、あえて気配を消して近付いたということ?
「不快にさせていたらごめんね。」
申し訳なさそうな様子は微塵もなくアベルが言う。
私は緩く首を横に振った。
「驚きはしたけど、不快とまで言わないわ。…でも、なぜそんな事を?」
「君の実力を見るためだと思う。」
「…なら、まだまだ力不足と思われた事でしょうね…。」
アベルの邪魔にならないだけの力があるか見ようとしたのだわ、きっと。
足手まといと認識されたでしょうから、次は「さほど手間のかからない人」くらいに見てもらえるよう、少し気を付けましょう。
「なにも無駄と言う事はないわ、アベル。貴方を守りたいと思ってくれているのだから。」
「君はズレてる。付き合う人間が危険かどうかは、僕が見定めるって意味だよ。」
「危険?」
つまり、私がアベルを狙う刺客である可能性を考慮されたと?
……そ、そんな馬鹿な。偽物のシャロン・アーチャーだとでも思われた?さすがにお父様を反乱分子とは考えていないでしょうけれど……彼女の気配に気付けなくて、正解だったのかもしれない。
「貴方に会うのは何度目かになるけれど、お二人には今日初めてお会いしたわね。」
初対面では警戒されても仕方ない、と自分に言い聞かせる。リビーさんは主であるアベルを心配しているだけなのだ。
「普段連れてないからね。」
「…今更なのだけど、それでいいのかしら?貴方を守るための護衛騎士なのよね。」
「僕の指示だし、今のところ死んでないから、いいんじゃないかな。」
そんな事を言うアベルにちょっと呆れてしまう。
確かに貴方は一騎当千の実力を持つ上に、皇帝陛下にまでなるけれど、今はまだ子供なのに。
どうしてそんな、まるでどうでもよさそうに言うのか。
「アベル…一つ聞いてもいいかしら。」
身体ごと彼の方へ向き直って聞くと、アベルは視線だけ寄こしてきた。
「自分が死んでもウィルがいるからいいなんて、思っていないわよね。」
ガタガタと、馬車が小刻みに揺れている。
否定してほしい。「そんなわけないでしょ」と。
黙ったままのアベルの瞳には一切、揺らぎはなかった。そこからは何も汲み取れない。
「私は嫌よ。貴方も、ウィルも、二人でこの国にいてくれなくちゃ。」
アベルの手が動いた。
それは見えたけれど――刃を防ぐには、到底間に合わない。
私はやっぱり全然未熟なのねと痛感しながら、金色の瞳から決して目をそらさない。この首からあと数ミリのところに抜き身の刃があったとしても。
そんな人ではないと、わかっているから。
たとえ前世の記憶がなくたって、わかっただろうこと。
貴方はここで私を切ったりしない。
「君、僕が何してるか知ってる?」
殺しているわね、ウィルの命を狙った人々を。
「甘い事ばかり喋るようなら、いらないんだけど。」
貴方は、理想だけではやっていけないと知っている。
でも。
「わからないわ。貴方達二人ともが生きていく事の、どこが甘いの。」
これは抱いて当然の希望だと、私は手を伸ばす。
剣を止めるのではなく、アベルの肩に触れてこの身を近づける。
「そんなのはただの当然よ。だって…」
馬車が揺れ、当たってしまいそうだった私の肌を刃が避ける。傷付けないようにと。
泣きそうになっている事を知られたくなくて、目を伏せた。
「貴方が生きてこの国に居ても、ウィルの治世は揺らがないわ。」
――ああ、駄目だ。
堪えていた涙がぽろりと落ちた。
だって、そんな未来私は知らない。
他の誰よりも私が一番、そんな未来を知らなくて。
でも二人とも生きていればきっと、支え合っていけたはずなのだ。
二人には、お互いを排除するつもりなんてなかったんだから。
「大丈夫。私も…守ってみせるから、」
だからもう、あんな未来で、
一人きりで、
「いなくならないで、アベル……」
守ってみせるなんて言ったくせに私の声は震えていて、かっこわるくて、本当は目を見て誓いたかったのに、みっともなくて、まるで縋りつくようにしていて。
とめどなく溢れる涙が、アベルのシャツに染みをつくっていた。
全員に生きていてほしいという私のエゴを、
ちょっと遠回しに否定されただけで、こんなに泣いてしまうなんて。
情けなくて仕方がない。
私は、皆を助けたいのに。もっと強くなければいけないのに。こんなじゃ、駄目なのに。
すん、と鼻をすすって、ふと視界の端で、剣が下ろされている事に気付いた。
いつまでもこのままというわけにもいかない。
私は目元をぐいと拭って、
「…ごめんなさい。」
アベルの顔を見ずに姿勢を戻し、そっぽを向いた。
夕暮れ時の風が涙の跡を乾かそうとしてくれる。
「……それでも」
アベルが呟いた。
「それでも、僕がいなくなった方が早道だ。」
じわりと、涙が滲む。
泣き止みそうだったのに。
アベルはまるで、自分がいる限り平穏が訪れないと思っているかのようだ。
「…そんなの、とんだ傲慢だわ。お膳立てなんて誰が望んだの。ウィルはそんなに弱くない」
アベルから顔を背けたまま、私はぎゅっと顔をしかめた。
もう一度目元を拭って、オレンジ色に染まる雲を睨む。
「諦めてやらないんだから…」
止まれなくて、一人きりになる貴方。
一人きりになって、殺される貴方。
――それこそを良しとした、貴方。
「私は、貴方達と一緒に生きてみせるわ。」
はっきりと告げた言葉には、
剣を納める金属音と、風の音だけが返ってきた。




