178.妖精令嬢シャロン・アーチャー
今日で今年は終わり。
前世では「年越しそば」なんて文化があって、仲の良い友達とおそばを啜りながらテレビの特番で笑ったものだけれど、この世界にはおそばもテレビもない。お父様は城に泊まる事になるだろうと仰っていたし、お母様と私とクリスの三人で、いつもより少し豪華な夕食をとった。
サイドテーブルの明かりにだけ照らされる部屋で、私はベッドの上から窓の外を見上げる。夜空には美しい月が浮かび、星々がその周りを飾っていた。
「…色んな事があったわね。」
ぽつり、呟いた。
幼馴染のバーナビーがウィルフレッド第一王子殿下だった、なんて事から始まって。
アベルと出会って、前世の記憶を取り戻した私は気絶。急いで身体を鍛えながら魔法の勉強をして、ダンと出会って…アベルの冤罪事件に、ジェニーの病気のこと。レオの情報からヒロインであるカレンを探し出して、オークションではうっかり捕まって、狩猟では魔獣が出た。女神祭はそれこそ驚きの連続で……。
『…よく似合っている。』
アベルが言ってくれた言葉を、少し困ったように笑う顔を思い出して、まだ外していなかった胸元のネックレスに触れた。
もうそこまで遠くないだろう戦いの日に、きっと私を守ってくれる。
頼りきってはいけないけれど、これがあるだけで心強かった。直接会ったダスティン・オークスはゲームで見たのとはまるきり別人で、もう未来は変わったのかしらとさえ思う。けれど、万一のために。
『なんか、妙っつーか…薄気味悪さはあった。』
ダンが受けた印象のこともある。
年が明けたらチェスターと共にアベルに相談するわけだけれど……今既に、「駄目だ」なんて言って眉を顰める彼の顔が浮かぶけれど、なんとかして許可をもらわなくては。
この目で見届けるまで、「もう大丈夫」とは思えないのだから。
明かりとなっていた小さな火を吹き消すと、窓から差し込む月明かりだけが部屋を照らす。胸の前で両手を組んで、目を閉じた。
――月の女神様、太陽の女神様。殿下達のご先祖にあたる、歴代王家の皆様……どうか、力をお貸しください。彼らが死に別れる事のないように、少しでも助けになれるように、私は精一杯できる事をしたいと思います。未来で、皆一緒に笑っているために……
どぷん。
「っ、!?」
急に水中へ放り込まれて、私は反射的に目を開けた。ゴポゴポと水の音が鼓膜を揺らす。
息ができない!!………あら?苦しくない。という事は呼吸ができている?全然苦しくないのは良いけれど、ここはどこ。
じたじたともがきながら見回すと、水に浮きあがった自分の髪がゆらゆらと顔を撫でる。鼻に水が入ってツーンとする事もなければ、息もできて、でも水の中で。
「どうなっているの?」
声も普通に出る。
ぱちぱちと瞬いた私の頭上から、光がさした。
見上げると、さっきまでなかったはずの水面が遠くに見える。誰かが水中へ手を差し伸べてくれていた。あの手を掴めばいいのだと理解して、上に向けて泳ぐ。
懸命にバタ足をして、ようやく手が近付いてくる。女性の手、かしら。水面の先はまだ何も見えない。そっと手を伸ばすと、指先が触れた瞬間にその人は力強く私を引っ張り上げた。
「とぅっ!」
途端、聞こえたのは凛とした声。
すぽーん、と音がしそうな勢いで水から出た私は、すとん、と地面に着地した。足を捻る事もなければ、膝をついてしまう事もない。いつ着替えたのか真っ白なドレスを着ていて、セットアップの靴も――これは確か、狩猟の日に城で頂いた物?
「やぁこんにちは!君は水の妖精かな?初めまして!」
「え、えっと……?」
輝くような笑顔で私に握手を求めているのは、翡翠色の瞳をした若い女性だった。瞳と同じ色の髪は癖もなく背中まで伸び、しわくちゃのシャツと擦れた跡のあるズボン、履き古されたブーツという格好だ。すらっと長い手足をしているけれど筋肉がついている事もわかって、見るからに活発そうな方。
彼女の事も気になったけれど、私はとにかく辺りを見回した。
私が出てきたのは小さな泉のようだ。清涼な空気に草木の香り、林…というより森から聞こえる鳥の鳴き声。そして晴れた空から降り注ぐほどよい太陽光。
――……山?
「は、初めまして…」
握手を求められてそのままにもできず、私は彼女の手を握ってぎこちなく微笑んだ。頭の中が大変に混乱している。どうして昼で、どうして山の中?だって私はさっきまで、……さっきまで、どこで何をしていたのだったかしら。
「あたしは■■■・■■■■。ん?■■■――あれ、名前が話せないな。妖精さんは?」
「妖精ではありませんが、私は■■■■・■……」
口元を手で押さえて、私達は首を傾げた。
名前を言おうとするとどうしてか、声にならない。口は確かに動いているように思うのだけれど、なぜだろう。
「困ったな。じゃあとりあえず、あたしの事は…あー、えっと。」
「…では、ヒスイさんとお呼びしても良いでしょうか。」
美しい髪と瞳を見てそう提案してみると、彼女はパチンと指を鳴らして笑った。
「いいね!そしたら妖精さんはアメちゃんだ!」
「あめちゃん…?」
「アメジストの、アメ!こう見えてあたしもさ、宝石の一つや二つ…三つくらいの名前はわかるんだよ。」
女性…ヒスイさんはどこか自慢げに言って鼻の下をこする。
彼女はどこから来たのかしらと思ったけれど、よく見たら林の中へ続く小道の入口があった。あそこからこの泉へやってきたのだろう。
「にしても、妖精に会えるなんて感激だなぁ……本当にいるんだね。」
「いえ、私は妖精ではないのですが…。」
「またまたぁ。だってそんな格好で深~く潜って溺れなかったんだし、水から出てきたのに全然濡れてないじゃないか。」
「えっ。」
言われて気付いたけれど、確かに私は濡れていなかった。
髪も服も綺麗さっぱり乾いている。…これは一体?
「あたしが妖精出てこーいって願ったら出てきたんだし。」
「願ったのですか?」
「まぁね!あたし、割と運が良い方。こうなれ!!って強く願っとくと叶う的な運の持ち主なんだ。」
「それはすごいですね…」
何なら私もほしいくらいだ。
それだけの強運があったらきっと、彼らを……彼ら?
誰の事だったかしら。
ヒスイさんは「妖精に褒められちゃったな~」とにこにこしている。…いえ、私は妖精ではないのだけれど。
「えぇと、どうして妖精を呼ぼうと思ったんですか?何かお困りの事でも…」
「いたらいいなと思って呼んでみただけ!…だから、ごめん。もしかして妖精の掟で、人前に出ちゃいけないとかあったりするのかな。」
「それはないですけれど、その、私は妖精ではないので…。」
おろおろと伝えながら私は焦っていた。
本当にヒスイさんに呼ばれたのかどうか、今のところそれくらいしか思い当たらないものの、とにかくここは私がいた場所ではないのは明らかで。
帰らないといけないはずだ。
でもどうして?
私…私の名前は、シャロン・アーチャー。
大丈夫、まだ覚えている。
私は帰らないと。アーチャー公爵邸へ、皆のところへ…
「妖精って呼び名も人間がつけたものだもんね。そりゃしっくりこないか。」
そういう事ではない。
どうしたらいいのかしら、そもそも…
「ヒスイさん、ここはどこなのですか?」
「カンデラって名前の山だよ。」
「■■■■■■王国との距離は…ごめんなさい。」
国名も言えない事に気付いて、私はうまく話せないとしょげながら謝った。
ヒスイさんは気にするなとばかり軽く頭を横に振る。
「この近くに王国はないよ。」
「では、帝国ですか?」
「いや……それより、あたし結構遠くからアメちゃんを呼んじゃったんだね。まだ小さいのに、ごめん。」
「い、いえ…」
ヒスイさんに悪気がない事はわかっているので、私はどう答えたものか迷った。
彼女は泉の側に屈むと、水に手を浸して私を振り返る。真剣な目だった。
「あたし、アメちゃんが元の場所に帰れるように願うから。アメちゃんも元の場所に帰るって願ってみて。…それでもし帰れたら、またいつか遊びに来てよ。」
「……わかりました。」
ヒスイさんの温かい笑顔を見ていると、心が解きほぐされるかのようで。
微笑みながらも私は不安だった。
だって、帰る場所がどこかわからない。覚えのないワンピースを着て、なぜかぴったりの靴を履いて、さっき口に出そうとした国の名前だってもうわからない。
「さ、水に入ってみて!」
「はい。」
声が震えないように気を付けた。
ヒスイさんに心配をかけたくない。それでも心細くて仕方なくて、つい胸元で手を握った。小さな石が指に触れる。ネックレスをつけていたのだと気付いて、見下ろした。
――これは…
「じゃあね、アメちゃん。あたしきっと、君を元の場所に帰してみせるから!」
「…はい!ありがとうございます、ヒスイさん。」
じわりと温かくなった胸を押さえて、私は泉の水面を見据えた。
「次は名前、わかるといいけど……またね!」
「えぇ、またいつか!」
出てこれたから帰れるかもなんて、根拠はなかったけれど。
きっと帰れると信じて、私は足の爪先から綺麗に泉の中へと飲み込まれた。
やっぱり呼吸はできる。
私の身体は深く、深く沈んでいく。
――大丈夫、大丈夫。
それだけを心の中で唱えながら、首にかけたアメジストのネックレスを握っていた。
水底へ向けて、周りはどんどん暗くなっていく。
私は祈るように目を閉じた。
「大丈夫…私、帰れるわ」
ツイーディア王国へ、アーチャー公爵邸へ。
皆と笑い合う未来のために。
きっと帰りつく。
――そうよね?アベル……
目を開くと、私は布団をかぶりもせずに横たわっていた。
「ん…さ、寒い!」
思わず身震いして腕をさする。
冬に布団をかぶらなかったら当たり前だ。身を起こして布団をめくり、中に足を入れた。動作の途中、胸元にトン、と小さく触れる感覚があって、首の後ろに手を回す。
アベルに貰ったネックレス、まだ外していなかったのね。寝ている間に絡まったら大変。サイドテーブルに置いて、布団を引っ張りながら枕に頭を乗せた。
窓の外はうっすらと明るくなってきている。
――何か、夢を見ていたような気もするけれど……
内容がまったく思い出せない。
私は一度瞬いて、まぁいいかと目を閉じた。
◇
パキ、と松明が弾ける。
すっかり背の曲がった老婆を上座に据え、人々は座布団の上に正座してその時を待っていた。漆器に横たえられた不思議な香りのする草を前に、老婆はしわくちゃの手をこすりあわせている。その動きが止まると、集まった者達の幾人かがゴクリと喉を鳴らした。
老婆が緩慢に顔を上げると、脇に控えていた少女が待ちかねたとばかりに飛び出す。
「おばば様、神託は!神託はいかに!!」
「姫、落ち着いてください!儀式の場です!」
「よい。」
従者らしき男は飛び出した少女――姫を戻らせようとしたが、老婆の許可を聞くと黙ってその場で膝をついた。焦れた様子の姫が見守る中、老婆が目を開ける。
「かの者は今……ツイーディアにおるようじゃ。」
「ツイーディア!?」
姫が悲鳴のように叫んで口元に手をあて、周囲の者達もあからさまにざわめいた。互いに顔を見合わせ、声を潜める事も忘れて口々に言う。
「なんと、恐ろしい…!」
「《凶星》の国ではないか」
「生きておられるのがわかっただけ奇跡だ、しかし…」
「早くお迎えに上がらねば!」
「でも誰が行くんだ?」
「あそこは広い上に強国だぞ、もし囚われていたら我らの兵力では…」
「わらわが行く」
その呟きに、場が水を打ったように静まり返る。
指先の震えを隠して、姫は強い目で老婆を見据え、頭を下げた。
「わらわが必ずや兄様を、この君影へ連れ戻して参ります。」




