177.悪くない未来
帰城してすぐに湯浴みを終えたアベルは、自室の扉を前にしてぴたりと止まった。
自分がいない以上鍵がかかっているはずだが、開いている。注視すればわかる事だ。かと言って使用人が掃除に来る時間でもない。
無造作に扉を開くと、中で椅子に座っていたウィルフレッドが眉を顰めてアベルを見た。
「ようやく帰ってき……こら!閉めるんじゃない!」
扉の向こうからぷんぷんと怒る声が聞こえ、アベルはため息をつく。
ウィルフレッドの後ろには護衛騎士のヴィクター・ヘイウッドとセシリア・パーセルの姿もあった。部屋の隅でにこにこと微笑んでいたのはアベルの侍女だ。鍵を開けてやったのは彼女だろう。
「……何で僕の部屋にいるの。」
アベルが渋々扉を開けて中に入ると、護衛騎士二人は礼をして侍女と共に廊下へ出て行った。この後は扉の両脇に控えてウィルフレッドが出てくるのを待つのだ。
ウィルフレッドはティーテーブルの向かいに座るようアベルへ促し、爽やかな青色の瞳を弟に向ける。
「お前、今回の任務について行くような真似はしないと言っただろう。どこへ行ってたのかな。」
「………クロムウェルの持ち場に行った。」
「素直でよろしい。俺に母上の様子を見に行くべきと言ったのも、途中でお前だけ呼び止められたのも。事前に打ち合わせていたのかな。」
「そうだね。」
「まったく……」
アベルが席に着くと、彼の分の紅茶が運ばれてきた。
ウィルフレッドの前に置かれていたカップも冷めてしまったので、新しい物と取り換えられる。侍女達が部屋を後にしてから、先に口を開いたのはアベルだった。
「ウィルは随分早かったね。僕の予想では今ぐらいに戻ってくるはずだったんだけど。」
「あぁ、いくらお前でも予想できなかっただろうな。父上が来たんだ」
「……母上の部屋に?」
瞬いたアベルに、ウィルフレッドはしっかりと頷いてみせる。
「アーチャー公爵も一緒だったけどね。何か大事な話があったんじゃないかな、俺が追い出されたのだから。」
アベルは視線を斜め下へと落とした。
今の状況から考えられる、その三人の議題とは何か。国王ギルバート・イーノック・レヴァイン、王妃セリーナ・レヴァイン、特務大臣エリオット・アーチャー。ツイーディア王国のトップスリーとも言える顔ぶれが揃ったのだ。年の瀬、それも騎士団が複数箇所で任務にあたっている今夜、ただのお茶会であろうはずがない。
ウィルフレッドが手にしたシュガートングからぽとりと一つ、白い角砂糖が落とされた。アベルのカップに吸い込まれていくそれから視線を上げると、二人の目が合う。
「それで?お前はどうして現地に行ったんだ。」
「……騎士が注意を引いている間に、僕とロイ、リビーの三人で屋敷の中を探った。」
ウィルフレッドは眉を顰めたが、黙って聞く姿勢を維持した。
アベルは部屋の外には決して聞こえない声量で続ける。
「敵方に潜り込んだ者から、隠し部屋の類があるだろう場所については聞いてたからね。窮地に陥れば敵方は《スペード》を使うだろうし、魔力暴走で屋敷が破壊される可能性もあった。戦闘が始まった段階で処分を命じられた物もあるかもしれない。」
「クロムウェル団長に最初から伝えておけば、騎士団でやれただろう。何もお前自身が行く事はなかった。ロイとリビーに任せる事はできなかったのか?」
「できたけど……」
ほんの数秒だけ目をそらし、アベルは言い淀んだ。
ティースプーンで自分の紅茶を軽く混ぜ、音も立てずにスプーンを置く。
「…正直、大抵の物事において、僕が直接行った方が早い。」
「……はあ。」
ウィルフレッドはため息をついてこめかみに手をあてた。
アベルが言い淀んだのは、長い間自分に対する劣等感を抱えていた兄を相手に、言っていいものか迷ったからだろう。
今の言葉は的確で、事実で、ひどく傲慢だ。
「言ってる事はわかるよ、アベル。でもお前は王子なのだから、騎士に任せる事も必要だろう。」
「騎士達を信用しているけど、用意された面子を聞く限り、複数人の暴走が起きた場合はクロムウェルの能力でねじ伏せるつもりだと思った。現にそうだったしね。」
アベル達が姿を現さずに見守っていたとしても、ティム・クロムウェルは問題なく勝っただろう。もう少しくらいは時間がかかり、もっと屋敷は壊れただろうけれど。
ウィルフレッドに叱られるのはご免だったアベルは、できるだけ速やかに自分の目で《物》を確認し、戦闘終了を見届けてから帰りたかった。だから姿を現したのだ。
「隠し部屋は見つかったのか?」
紅茶をこくりと喉へ流し、ウィルフレッドは静かにカップを置く。アベルは頷いた。
「《スペード》を開発したロベリアの研究チームのレポート……男爵はあれを高額で買い取り、栽培による大量生産へ結び付けたみたいだ。…もちろん、ちゃんとクロムウェルに渡しておいたよ。」
「俺はいつか、お前が勝手をしすぎて騎士団に捕まるんじゃないかと心配だよ。」
「そんなヘマはしない。たぶんね」
最後の一言だけにやりと口角を上げてみせる弟に、ウィルフレッドはやれやれと小さく息を吐いた。クロムウェル団長とベインズ副団長を始めとする騎士団上層部は、その殆どがアベルに信頼を寄せている。弟の言う通り、そんなヘマはまずありえないのだろう。
本来あってはならない事だが、アベルは第二王子という立場でありながら、騎士団の特務部隊長を務めているようなものだった。まだ十二歳にも関わらず任務にいくつも関わり、彼個人に仕える私兵団を有しているらしいという噂もある。
噂は真実であろうと、ウィルフレッドは確信を持っていた。
アベルの圧倒的な強さは人を惹きつける。魔法を使えないという事以外、能力的な欠点が見当たらないのだ。彼に望まれて断る者はそうはいないだろう。
時折――特にウィルフレッドに向いた敵意を潰す際、アベルは必要以上に恐怖を振りまき、周囲を畏縮させてきた。ウィルフレッドに対してすらも。だから余計に、多くの者はアベルを自分勝手で恐ろしい王子だと認識したのだ。
もしそういった振舞いを一度もせずにいたら、そこにいるのはただ完璧な存在。全てにおいて比較されるウィルフレッドの心は、どうなっていたか。
すまし顔で紅茶を飲む弟をじっと見つめて、ウィルフレッドは困ったように微笑んだ。
――お前に心配されないくらい、強くならないとな。
「どうかしたの、ウィル。」
「何も。……じきに年が明けるな。バルコニーに出ても?」
「いいよ。」
アベルの許可を得て、ウィルフレッドは窓の鍵を開けてバルコニーへ出た。
白い手すりに両手をつき、遠くを眺める。後から出てきたアベルも兄の隣に立ち、金色の瞳を夜空へと向けた。暗闇の中で月は燦然と輝き、星々が小さくも確かな光を届けてくれている。
「良い年だった。…お前と話ができた」
姿勢も視線もそのままに、ウィルフレッドが呟いた。長い金色の髪を風が流している。
「俺に勇気がなくて、時間がかかってしまった。」
「ウィルのせいじゃない。僕は…説明しなかったし、それでいいと思ってた。」
「……お前は、俺が知っている以上にたくさん、俺を助けてくれたんだろうな。」
日によって見える星の数は異なり、星を数えきる事などできないように。
アベルがしてきた全てをウィルフレッドが知る事はないのだろう。きっとこれからも弟は騎士と共に、ウィルフレッドの知らないところで突き進んでいく。
ウィルフレッドが目指すべきなのは、そこへ並ぶ事ではない。
「アベル、俺は王になるよ。」
きっぱりと告げて、ウィルフレッドは笑った。
「他ならぬお前が信じてくれるのだから、きっと立派な王になってみせる。」
「――うん。」
アベルは嬉しそうに目を細め、優しい微笑みを浮かべる。
ウィルフレッドが国王となりシャロンが王妃となる、その未来を思って。
たとえその時、自分がこの世にいないとしても。
「ちなみに考えたのだけれど、俺が王になったらお前は王弟だろう?」
「そうだね。」
「どうせ大人しくしないのだろうから、お前は騎士団長になってみるのはどうかな。」
「ふふっ。」
どこかで聞いた提案だった。
アベルが思わず笑みを零すと、ウィルフレッドが首を傾げる。
「駄目か?今日の事から考えてもお前は現場主義だから、軍務大臣は嫌かと思ったんだけど。」
「現場主義か……否定できないな。」
こちらをじっと見つめる兄と目を合わせて、アベルは笑った。
「悪くない未来だね。」
◇
「……何が悪かったと思う?」
ギルバートは悩ましげにため息を吐いた。
憂いを帯びた横顔には恐ろしいまでの色気があり、慣れていない女性であれば卒倒してもおかしくないほどの美貌だ。無論、数歩離れた位置に控える親友、エリオット・アーチャーには少しもダメージがない。
近衛騎士達も廊下へ出て、ベッドで気絶中のセリーナと三人だけだ。
「そうだな。俺達だけになってすぐ手の甲に口付けた事と、こっ恥ずかしいセリフを連発した事が悪かったと思う。」
「俺の行動の全てじゃないか。だがこっ恥ずかしいとは何だ?俺は事実しか言ってないぞ。」
「お前があまり褒め称えるとセリーナがもたないだろう。もっと簡潔にできないのか」
「簡潔に……」
少し癖のある長い金髪を掻き上げ、ギルバートはゆっくりと瞬く。
仕事も一段落つき、後は騎士団から任務完了の報告を受けるだけとなった。エリオットを連れてセリーナを訪れたのは、少し息子達の事で相談があったからだ。ウィルフレッドを追い出す事になってしまったのは心苦しかったが、本人を前に話す事でもない。
しかし議題に入る前、挨拶段階でセリーナが気絶してしまった。もちろん、ギルバートが好き過ぎて彼の言動に心臓がもたなかったのだ。
「今日も誰よりお前を愛している――とかで良いか?」
「……気絶するぞ。」
「そうだな、さすがに直球すぎて気色悪がられるだろう…」
「いい加減その認識を改めないか?セリーナから嫌いだと言われた事などないだろ。」
「言うわけがない。政略結婚として、割り切ってくれている。俺の我儘で、申し訳ない限りだが…」
「………。」
エリオットは目を細めてギルバートの肩に軽くパンチを放った。
「いたっ!おい公爵閣下、無言でどつくんじゃない。」
「それで国王陛下、王妃殿下とどのような話をなさるので?」
「あぁ…彼女の目が覚めてからだ。」
「随分と勿体ぶるな。」
「勿体ぶっているわけじゃないんだが……恐らく、お前はすぐには了承してくれないだろうからな。」
「……何だと?」
思いきり眉を顰め、エリオットは怪訝な顔で親友たる国王を見つめる。
ギルバートの金色の瞳はただ、愛しい妻の目覚めを待っていた。




