175.飛びすぎ
「来ては駄目ですよとお伝えしませんでしたか、私は。」
頭の右側で二つに括った水色の髪、同じ色の瞳。
両手を包む白手袋には返り血が付着している。困ったように眉尻を下げて、騎士団長ティム・クロムウェルは振り返らずに聞いた。
ポズウェル男爵が所有する、とある三階建ての屋敷。
周囲には血と泥に塗れた雇われ兵やならず者達が倒れ、前方では《スペード》の大量摂取で魔力暴走を起こした者達が、錯乱しあるいは幻覚に惑わされながら魔法を連発している。
外に被害が及ばないよう《風》を最適とする騎士達が屋敷を取り囲み、気流の壁を生成して全てを内側へ閉じ込めていた。
「言ったね。」
まだ濡れていない庭の土をざくりと踏み、ティムの後方から現れた少年がフードを脱ぐ。
少し癖のある黒の短髪が風に揺れ、金色を抱く切れ長の目が前を見据えた。
「つまり、《来るなら内密に》だ。」
「…えぇ、そうですね。」
一歩横に足を踏み出し、ティムは笑みを零す。屋根上から放たれた風の刃が今までいた場所を抉った。
「ンッフフ、中々盛り上がってますねぇ。面白いなぁ~」
少年の左右に立つ騎士二人のうち、百九十センチは越えているだろう長身の男が、開いているかもわからない細い目の上に手をかざす。薄緑の髪は前髪も伸ばして後ろへ流し、ハーフアップにまとめていた。
王家を守る近衛の役を担う一番隊、その中でも特殊班である《護衛騎士》――ロイ・ダルトン。
「遊びではないぞ。ロイ」
もう一人、顔の下半分を黒い布で覆った女性騎士が両手に剣を構えた。騎士団が使用する一般的な剣よりは細身の物だ。茶色の瞳は鋭く前を睨みつけ、長い黒髪は後ろの低い位置で一つに結っている。前髪に挿した二本のヘアピンが、屋敷を焦がす炎の明かりに反射した。
護衛騎士、リビー・エッカート。
「魔力暴走相手ですが、大丈夫と思ってよろしいので?」
地面を抉る勢いで噴射される高圧水流を飛びのいて避け、ティムが聞く。少年は王家を示す星の意匠があしらわれた剣を抜き、構えた。
「無論だ。」
「結構。それでは共にやりましょうか、アベル殿下。」
ツイーディア王国第二王子、アベル・クラーク・レヴァイン。
十二歳という若さながら、既に数えきれないほど騎士団の任務に関わっている変わり者だ。帝国の皇子と張り合うほどの剣の腕前を持つ彼は、まるでその代償のように、一切の魔法が使えない。ロイとリビーは彼専属の護衛騎士である。
ティムは困り眉のまま口角を上げ、芝居がかった仕草で胸の前に剣を掲げた。
「我らに、月の女神のご加護があらん事を。」
「ウァアアアアア!!」
暴走を起こしている内の一人が絶叫した。
男の周囲に浮かぶ炎が地面や建物を焼き焦がし、本人の肌すらもジリジリと火傷が広がっている。がむしゃらに振り回す剣は脂でも塗ってあるのか、火が乗り移っていた。
地面に倒れ伏しながらもまだ生きているならず者が、男の進行方向から逃れようと必死に手を伸ばす。しかし這いずる力は残っていない。
二人の間に飛び込んだリビーが、男の剣を弾いて後退させた。
「宣言。水よ我がもとへ現れよ、かの者を包む火を消せ。」
「ゥァア!!」
目標を定めていなかったはずの男が確かに自分へ向けて咆哮したのを確認し、リビーは別方向から飛んでくる高圧水流も避けながら誰もいない方へと走る。男はリビーが生み出した水を避けもせずに突っ切り、その身を焼いていた火は消え去った。
水の浮かぶ範囲外だった剣は未だ燃え盛り、男の周囲には再び炎が浮かぶ。
「シ、ネェエエ!!」
跳び上がった男は上から叩きつけるようにしてリビーへ切りかかった。
リビーは軽やかに後退してそれを避け、同時にナイフを二本放つ。片方は屋根の上から飛んできた風の刃が軌道を変えてしまったが、もう一本は剣を振り下ろした男の腕に突き刺さった。屋根を見ようとしたリビーの視線を、空中に広がった闇が遮る。リビーは対峙した男へと目を戻した。
男は叫びながら抜き取ったナイフをリビー目掛けて投げつけ、浮かんでいた炎が後に続いて襲い掛かってくる。
「宣言。陽炎よ」
まったく訓練されていない投げ方だった。リビーは飛んできたナイフを剣で軽く弾き飛ばす。
「揺らぎ隠せ。」
「ァ……?」
男の視界に映っていたリビーの姿がぐにゃりと歪み、炎がぶつかる寸前で消え去った。誰もいない地面が焼かれ、飛び散った炎の残滓が周囲を照らしている。
混乱した男の思考が「視界全てを焼けばいい」と結論を出し、足下から泉が湧き出るように炎が巻き上がった。
ドスッ。
リビーの剣が背後から男の身体を貫通する。
全身を包もうとしていた炎が止まり、男がごぽりと血を吐くと同時に消え去った。
「ヒャハハハ!最高の気分だ!!」
上へ上へと押し上げ続ける水の流れに乗り、長髪の男はぐらぐらと揺れながら空中で高笑いしている。血走った目は幻覚でも見ているのか、「ほれ、ほれ!」と指差した空を、地面を、建物を、水で撃ち抜いていく。
高圧で迸る水流は地を抉り、木々の枝を折り、窓ガラスを割った。空へ向かった水流だけは騎士達が張った気流の結界に遮られ、ぐしゃりと消える。男はその結果も認識できていない様子だ。
「すぐ死ぬじゃねぇか!ッハハ!弱ぇ弱ぇ!!」
「夢でも見ているんでしょうねぇ。フフ」
地面に立って男を見上げ、ロイはくすりと笑う。
屋敷の玄関口を向いた男の指が指揮棒のようにひょいと振り上げられ、その途中指先から放たれる水流はたまたまリビーのいる場所を通ったが、彼女も警戒していたらしく難なく避けた。
ロイがにこりと微笑む。
「宣言。風は貴方を切るでしょう。」
ズバン、と音がした。
長髪の男の真下から空へ向けて放たれた風の刃が、男を押し上げていた水を真っ二つにしてそのまま駆け上がる。突然の事に、男は笑顔のまま一瞬固まった。仁王立ちしていた左の太腿から左目にかけて真っ直ぐ、深く切りつけられている。
「あ、ッが…!」
足場を失った体が傾いたが、暴走する魔力が殆ど無意識に新たな水を生み出して倒れた身体を支え、ダメージなく地面へ立たせる。そして視界に入った騎士――ロイの真上に大量の水が現れ、彼を叩きつけようとした。
屋根上からロイを追うようにして風の刃が降り注ぐ。先にそちらに反応して飛びのいていたロイは、水の一滴もかぶる事なくかわしきった。痛みで幻覚から逃れたのか、男の瞳がロイを追って動く。
「よくも、てめぇよくも!!」
「宣言。風はその身を縮め、潰す。」
「水よ、あいつを殺――」
ロイを指そうとした男の指が、嫌な音を立てて歪な拳の形にされた。
人差し指から一瞬だけ放たれた水流が男の手のひらを抉る。
「ッギャァアアア!!!」
五本全ての指が折れた右手をブルブルと震わせ、男は左手で右手首を掴んで絶叫した。
「おやおや、耳が痛いですねぇ。」
「ぅあ、ぐ…!お、俺の手がぁ!!」
本人が痛みにのたうち回っているせいか、空中からロイ目掛けて押し寄せる波はいずれも狙いが甘い。
よろめきながら起き上がった男の腹に、剣の柄を叩き込んだ。
扉の壊れた玄関で、血まみれの青年が笑っている。
ほとんどは返り血らしく、本人も腕や脚の衣服が裂けてはいるものの、《スペード》を貪って治癒を施したのか、既に傷は塞がっているようだ。
目が合った相手――アベルを見つめたまま、彼はべったりと血がついたダガーナイフに口付ける。
「口紅。なんちて…あ、無駄話嫌いな人?」
へらりと笑い、男は飛び退ってアベルの攻撃を避けた。
アベルはそれがわかっていたかのように間髪を入れず踏み込み、返す刃で腕を狙う。男が目を見開いてナイフで防御した。
「うわッ、と!」
「お前、さほど飛んでいないな。」
二人が互いに距離を取った間を、高圧水流が地面を抉りながら駆け抜ける。男は人差し指で自分の頭をトンと叩き、「んべ」と舌を出して笑った。
「スペード食う量くらい見極めがつくお年頃ですぅ。てか思ったより力あんね、何歳?」
尋ねるように差し出した手からナイフが飛ぶ。
アベルは最低限の動きでそれを避け、地面を蹴った。男が楽しそうに顔を歪める。
「いいね、強い奴って大好…」
先程とは段違いのスピード。
なぜ眼前に剣の腹が見えるのか、思考が追いつく前に喉がヒュッと音を立てた。
「ん゛ぶッ!!」
顔面を金属で殴りつけられ、男の視界が一瞬明滅する。
脳天まで響く激痛に、鼻が折れた事を理解しながら空中を回転した。
「ッぶぁ、風よ刃となり゛切り刻め!」
手と膝を擦りながら何とか着地し、同時に宣言を唱える。《スペード》の摂取で増幅された魔力は容易く大量の刃をアベルへと撃ち出した。
しかし本人の意識が確かなら、その狙いは全て男の意思によるものだ。
生理的に流れ出た涙を拭って顔を上げたが、いるだろうと思って刃を向けた場所にアベルはいなかった。ぞっと総毛立つような悪寒がする。
慌てて飛びのいた瞬間剣先が降ってきた。切られた前髪が散る。そのままでいれば腕に深手を負っていただろう。金色の瞳は既にこちらへ向いている。
――この野郎…!何が最適だ、どれが苦手だ!
「水よ押じ流せ、炎よ焼き尽ぐぜ!」
自分の前からアベルへ大量の水を撃ち出し、ナイフに炎を纏わせて棒立ちのティムへ投げつけた。剣を思いきり振り下ろした直後だというのに、アベルはすぐさま反応して水を避けきる。仲間を狙われても男から目をそらさなかった。
「あ゛ぁッ、くそ!!」
男は屋敷へ駆け込みながらズボンのポケットに手を突っ込み、くすんだ青紫色の葉を掴み取る。追加の《スペード》だ。
――強い奴は好きだけど、俺より強い奴は大っ嫌いなんだよ!!
口の中でぐしゃりと噛み潰し、飲み込んで吹き抜けの玄関ホールを振り返る。必ずそこから来るはずだ。独特の風味が脳に浸透する感覚。折れた鼻から流れ出た血が口内を鉄の味にしている。
唇を笑みの形に歪めてナイフを玄関に向けた。
アベルが飛び込んでくる瞬間を待たずして、暴走した魔力に身体中が軋――
男の視界が斜めになった。
身体が軋んだのは魔力のせいではなく、斜め下から何かが激突してきたせいだ。骨の折れる痛みでそれを理解した。
――斜め下?
そんなはずはない。意識を繋ぎとめようと、空中を吹っ飛びながら男は最後の気力を振り絞った。
霞んだ視界に、片足を振り抜いた状態から着地するアベルの姿が映る。どうやら蹴り上げられたらしい。
なんだ蹴られただけかと、頭の片隅でどこか他人事のように考える。
蹴られただけ。
――いや、飛びすぎ。
そんな言葉が浮かんだ瞬間、三階の天井に叩きつけられた男は意識も飛ばした。




