174.卑怯者
御者による水の魔法を避けた騎士は、さして早くもない男爵の走りに追いつこうとしていた。魔法を使うまでもない。
「ぎゃぁああああ!!」
腕をナイフで刺された御者の悲鳴が響く。
猫背の男――カスパーは副団長レナルドと激しい攻防を繰り広げており、男爵を追う騎士の邪魔はできない。
なぜか走り出した馬車の後方、双剣を操るカスパーの素早い攻撃を、レナルドは最低限の動きで躱し、防ぎ、弾いている。隻眼とは思えない反射速度だった。
「このっ離せ!カスパー、何してる!私を助けろ!」
どうやら男爵は追いつかれたらしい。
五月蝿い雇い主だと思いつつ、カスパーにはそちらを見る余裕がない。襲いくる一撃を片腕では無理と判断し、双剣で同時に受け止めた。
手が痺れるほどの衝撃。休む間もなく蹴りが飛んでくる。ギリギリで躱して後ろへ跳び、カスパーは視線をレナルドヘ向けたまま、男爵のいる方へ走り出した。
「離せぇ!腐敗しきった王家の犬共が!」
「静かにしろ、暴れても無駄だ!」
「イングリス」
カスパーを追って走りながら、レナルドは男爵を地面へ押さえつけている銀髪の騎士を呼ぶ。
「折れ」
「承知。」
「ひっ…」
「宣言、火炎弾!」
カスパーが唱えて剣を振ると、イングリス目掛けて直径一メートルほどの火球がいくつも飛ぶ。
イングリスは男爵を脇に抱えてそれを避けた。すぐ横の空気を火球の熱が焦がし、男爵が情けない悲鳴を上げる。
――置き去りにした方が楽だったろうが、さすがに離れないか。
カスパーは眉根を寄せ、はっとして振り返る。風の魔法で自身を後押しし、レナルドが肉薄していた。咄嗟に剣を構えるが、受けきれないだろう事を察する。
「宣言、火針!」
「宣言、水よ。」
素早く魔法を発動させるため、カスパーはあらかじめ攻撃のパターンに名を付けて脳内で強くイメージを紐付けている。戦闘における基本だ。
レナルドは端的に、カスパーの最適は火属性である事を、状況からも視線からも自分を狙うだろう事を予想し、ただ粗雑に大量の水を生み出して自分を飲み込ませた。
カスパーごと。
地面から突き出た炎が水に触れ、瞬時に消えていく。突然水中に引きずり込まれたカスパーの動きは鈍った。重力に従い地面へ広がっていく水の中、レナルドの剣が一閃する。
カスパーの剣は押し負けて横に流れ、がら空きの胴体に強力な蹴りが叩き込まれた。僅かながら後方に跳んで勢いを殺そうとしたが、モロに食らったも同然だ。骨が折れた事を理解する。
距離を取り、胃の中から込み上げた物を地面に吐き捨てた。
「宣言!火よ大蛇となれ、喰らいつき焼き尽くせ!」
十メートル近い炎の蛇が現れ、周囲の地面や建物の外壁を焦がしながらレナルドへ突っ込んでいく。
「宣言、出てこい水!」
「宣言!水よ炎を打ち消す波となれ!」
「宣言。どろどろの水~」
騎士達が魔法を繰り出して周囲の消火にあたる。レナルドの戦闘補助より民間への被害軽減を優先させたのだ。大量の魔力を練りこまれた蛇の熱量は凄まじく、水浸しの地面に触れるとたちまち水蒸気が立ち昇る。ずぶ濡れだったカスパーでさえ、自分を守らせる蛇のとぐろは一定の距離を置いていた。
無謀にも真正面から突っ込んでくるレナルドを守ろうと、騎士が生み出したのだろう水が蛇とレナルドの間に現れる。
――その程度で防ぐのは不可能だ。驕ったな騎士団!
炎の大蛇は間違いなく目標に喰らいついた。水が蒸発する音が響く。
同時、片足を後方へ払われてカスパーは反射的にそちらを見る。錘のついた鎖が巻き付いていた。しかしその先に鎖を引く者の姿はない。
「何だこれは、っぐぁあ!!」
外そうとした瞬間、鎖が勢いよく上空へ舞い上がった。唐突な動きに身体が軋む。逆さ吊りとなった眼下で、蛇の腹から蒸気を伴った水の塊が出てきた。
塊、そう、ぶよぶよとした塊――どろどろと言う方が正確だろうか。炎に削られながらも確かに中身を守ったそれは、「解除」という女の声でただの水に戻り、バシャリと地面に飛び散った。
緑の瞳。
かち合った目をそらさず、カスパーは双剣で足に巻き付く鎖を断ち切ろうとする。しかし鎖は風を纏っており、直前で剣の軌道が変わってしまう。当たりが悪ければ鎖を切る事はできない。
「くそ、動け!喰らいつけ!!」
カスパーの集中が乱れた事で、炎の蛇もぐらりと傾いていた。再びレナルドを狙おうとするも、騎士達が放つ水の魔法が蛇に集中し、その身を削り取っていく。
レナルドが跳んだタイミングに合わせ、鎖がしなってカスパーの身体を振り落とした。
――なら、迎え撃つまで!
激突までの数秒、カスパーは恐怖もなく目を開けていた。
仮に双剣で受けきれずとも致命傷までは至らせない。騎士団の狙いはあくまで男爵。できるだけ使いたくはないが、最悪、懐の《スペード》で魔力を補充してでも逃げ切…
足から離れたはずの鎖が、カスパーの両腕を後ろに縛り上げた。
背後を見ようとした頭に錘がぶつかる。
レナルドは握りの甘くなった双剣を叩き落とし、カスパーの背中を足蹴にして鎖を掴んだ。まるでソリのように乗られ、落下しながらもがくカスパーの額に青筋が浮かぶ。
「こッ――この卑怯者がぁあああ!!!」
「さてな」
周囲に火事もなく蛇も消された事を確かめ、レナルドは事も無げに言った。
「喋る余裕があるなら、宣言をした方が良かったんじゃないか。」
「っ!せ、宣げ」
どぷん。
地上で待ち構えていた水の塊に突っ込む直前、レナルドはカスパーの背を蹴って横へ跳び、問題なく着地する。
剣を鞘に納めると、鎖はレナルドのもとに戻ってきた。黒手袋に包んだ左手で受け止めれば、風の魔法が消えてカシャンと垂れ下がる。
「レナルドさんのそれ、やっぱズルだよなぁ。」
建物の上から声がした。
回収した双剣を両手それぞれに弄びながら、ガイストがひょいと地面へ飛び降りる。
彼は今年で二十六歳になったものの、百七十に満たない身長と童顔のせいで傍目には二十歳未満のように見えた。ダークブラウンの髪は肩につく長さで、サイドはそのまま垂らし、後ろはちょこんと一つ縛りにしている。
かつてレナルドが所属していた十番隊の騎士だ。
「最初に宣言唱えたら、その後ずっと動かせるし。」
「ズルではない。発動の継続は集中力の問題で、操作は風圧のかけ方を極めれば誰でもできる。」
「普通極めませんって…おまけに袖鎖なんか。」
肩をすくめるガイストを無視し、レナルドは水の塊に目を向ける。
どろりとした水は抵抗が強く、中でカスパーが必死にもがいてもその動きは鈍かった。放置すれば溺死するだろう。
「ラムリー。解除して良い」
「は~い。」
レナルドの指示に女性騎士が返事した。
胡桃色の巻き毛をリボンで結って前に流し、すらりと長い手足にメリハリのある身体つきをしている。袖口にはフリル、腰にヒラヒラと揺れる布を巻き、ミニ丈のズボンとニーハイソックス、ヒールの高いブーツを履いていた。
「か~いじょ。」
ラムリーは杖のように人差し指を振る。
《粘性付与》の効果が切れた水はバシャンと流れ落ち、横で待機していた騎士が咳き込むカスパーを縛り上げた。ガイストがその腰から鞘をかっぱらい、双剣を納めて運んでいく。
馬車に轢かれた御者は瀕死の有様で痙攣し、ローブのフードを目深にかぶった小柄な女性騎士が、黙々と治癒の魔法を施していた。
ベアードが使用人の片足を持って引きずってくる。白目を剥いて気絶している使用人は上半身が焦げて半裸になり、全身びしょ濡れだった。片頬に打撲痕が残り、ぽかんと空いた口は歯がいくつか失われている。
ガイストが髪と同じダークブラウンの瞳を丸くし、ベアードを凝視した。
「お前がトドメさしたの?めずらしー」
奇襲や暗器などの搦手を得意とし、個の力が重視される十番隊のガイストと、サポート系のスキル持ちや万能型の多い十三番隊のベアード。
互いに他隊との合同任務も多いため、任務ではよく顔を合わせる二人だ。
先月行われた狩猟では、ウィルフレッド側にいたガイストが加勢と《水鏡》運びのためにアベル側へ走った。それも彼の身軽さと単身での実力を見込まれての事だ。
ベアードは魔法をバランスよく使えるが故に十三番隊へ配属されており、その的確な魔力操作は第二王子アベルも信を置くものである。
「こいつがスペードを食ったから、宣言を唱える前に潰しただけだ。」
「うへぇ、せっかく食ったのに見せ場なし?かわいそ。」
「イングリスさん、こちらにも縄を。」
ベアードが軽く手を上げて言うと、男爵を縛り終えたイングリスが残りを投げてよこした。
男爵は足を折られた痛みでぐっしょりと汗をかき、「何でも喋るから治してくれ」と譫言のように繰り返している。
止まった馬車の中で、両手を縛られたヴェラは大人しく座っていた。
向かいでは青い癖毛の騎士が脚を組み、無精髭の生えた顎を擦りながら笑う。目元に年齢を感じさせる皺が寄った。
「なるほど、魔力を持たない者に魔力を与える…ってのは、男爵の真っ赤な嘘だったわけだ。」
「そう聞いてるわ。」
「ありがたいねぇ…ホントだったら仕事がすごい増えるからさ。嫁さんに叱られちまうとこだよ。」
「……ふん。呑気なものね。」
ヴェラは冷たい目で騎士を見やった。
年齢の割にピアスだらけの耳、作り笑いという事を隠しもしない微笑み。舐めるようにこちらを探る青色の瞳は深く、底が知れない。貴族絡みの事件を主に担当する四番隊、その副隊長――ブレント・スペンサー。
「お前達があんなのを相手してる間に、王妃様が殺されたわよ。」
「そりゃ、大変だなぁ。」
「……私は本気で言っているの。」
へらへらと笑みを作ったまま返したスペンサーに、ヴェラはぴきりと眉を吊り上げる。
「あの女、来たんでしょう。部屋には最初から姿を隠した手下共がいたはずよ。」
「殿下を心配してくれるのかい。」
「心配?…してるように見える?」
ヴェラは嘲笑って首を左右に緩く振り、もうどうでもいいとばかり窓の外へ視線を投げた。この男が信じようと信じまいと、王妃セリーナ・レヴァインは死んだのだから。
「王妃殿下は…そうさな。今頃、城で紅茶でも飲んでおられるさ。」
「……何ですって。」
「本物がノコノコ来るわけないだろう?」
なぁ、と手を広げ、スペンサーはにこりと笑う。
「暴れ馬が随分大人しくなったもんだ、ヴェラ・シートン。学園祭のパーティーでお前を取り押さえた三年の顔、覚えて…るわけねぇか。二十七年前だもんな。」
ヴェラは目を見開いたが、記憶を辿ろうにもスペンサーの言った通り時間が経ち過ぎた。それに当時のヴェラには、ギルバート王子ばかりが映っていて。
「殿下は無事だよ。」
その言葉が真実だと理解した途端、自分勝手な女の頬を雫が伝った。




