171.叔父と甥
オークス公爵邸にある客室の一つで、ダスティンは夜空を見上げていた。
久々に会った兄とワイン片手に長々と語り合い、ふらつきながら部屋に戻った後のことだ。水を一杯飲んでやれやれと赤い顔を手で仰ぎ、窓を開けた。
冬の冷えた空気が入り込む。
空にはまだ雲が浮かんでいるものの、その切れ間からは星が顔を覗かせていた。
ツーブロックに整えた明るい茶髪を夜風が撫でる。
唇の下から顎にかけて生やした髭を指でなぞり、窓枠に手をついてため息を吐いた。灰色の瞳に星を映しても、酔いのせいか思考はぐるぐると回っている。
「飲み過ぎたかな…。」
明朝二日酔いになっていたら侍女のエイダに薬をもらおう。
そう考えながらダスティンは窓の外に両腕を投げ出し、ぐたりと窓枠にのしかかった。両脚で勢いよく床を蹴ったら転落してしまう。流石にそれはまずい。
「だってなー…ここで死んだら兄上達に迷惑だろー……。いや、いやいや。フフッ、俺、別に死にたくないしなぁ。」
何が可笑しいのだかわからないが、酔っ払いとはそういうものだとダスティンは考え、ゆったりと身を起こして窓を閉めた。風邪を引いてはいけない。
「えーと…寝よう。だからつまり、アレだ。」
手で胸板をぽんぽんと触り、今はジャケットを着ていない事に気付く。
部屋を見回し、ティーテーブルの前に置かれた椅子へ引っ掛けてあるジャケットの内ポケットを探った。ペンが一本入っているだけだ。
――駄目だ、酔ってやがる。どこに入れたんだ?旅行鞄の中かもしれない。…なんだっけ。俺は何を探してたんだ?あぁ、眠い……
ノックの音がして、ダスティンは顔を上げた。
「叔父上、チェスターだけど。」
「お~、どうした?入っていいぞ。」
答えながら目元を擦り、目が覚めるよう頭を振った。
扉からひょいと顔を出した甥は、昼間と違ってシャツとズボンだけのラフな格好をしている。シンプルなだけにスタイルの良さが際立ち、ダスティンは「若いっていいな」としみじみ言いながら頷いた。
チェスターが苦笑して扉を閉める。
「いきなり何?叔父上だって、まだ四十もいってないでしょ。」
「まぁな。けど最近ちょーっと太ったかも。」
「そう?見えないよ。」
「お前や兄上と違って、俺は仕事上は腕っぷしがいらないからな。」
「俺もそんなには鍛えてないけどね。我が主は充分強いんで☆」
「ホントかぁ~?こっそりやってんじゃないのか。まぁ座れよ。」
笑い合いながらティーテーブルの椅子を勧めると、チェスターは素直に腰かけた。ダスティンは備え付けの棚からワイングラスを二つ取り出し、振り返る。
「飲むか?」
「ちょっとちょっと叔父上。俺まだ未成年だよ?」
「ハハ、来年は十六だろ?どうだ一杯。」
「やめとくよ。俺が飲んだら、叔父上もまた飲んじゃうでしょ?」
飲み過ぎは気を付けなよと言う甥に笑い返し、ダスティンは普通のグラスを二つ取ってテーブルへ戻り、水を注いだ。自分の分はすぐに飲み干し、もう一度注ぐ。
「兄上…お前の親父なんてな、十五の弟にラッパ飲みやらせたんだぞ。」
「うそ!えっ、でもその時って学園だよね。」
「あぁもちろん。兄上はもう騎士団に入ってて…知ってるか~?上級生の剣術の授業にはな、騎士が来る時がある。」
「…まさか…」
「そう!そのまさかだ。」
指揮者のように大きく腕を振り、ダスティンはぱちりとウインクした。
「特別講師の一人だった兄上は、帰る前に俺と晩餐をした。一年なんて誤差じゃんとか言って、酒瓶を口にぶち込まれたんだ。ちなみに前歯が折れた。」
「うわぁ…。」
「ハハ、すぐに治癒をかけてくれたけどな!酒がうまいマズいというより、痛かった。公爵家で鼻から酒を噴いた奴なんて、なかなかいないんじゃないか?二人してめちゃくちゃに笑ったもんだ。」
「父上も?」
「あぁ、いつもの顔だよ。真顔で爆笑するようなモンだから、周りの客はドン引きしてたけどな――そうだ、しかもその時、すごいんだよ!」
何を思い出したのか、ダスティンはけらけら笑ってテーブルを軽く叩く。
懐かしそうに細めた目の下に皺が浮かんだ。
「本当にたまたま、先輩がた…当時の国王陛下と、アーチャー公爵閣下が通りかかったんだ。」
「うわ!それ絶対怒られたでしょ。」
「そら勿論!兄上が公爵から物凄い勢いで怒られて、あれは傑作だったなぁ。全然効いてなかったけど。」
「目に浮かぶなぁ…たぶん、今でもあんまり変わってないよ。」
「だろうな。我らがオークス公爵閣下は非常にマイペース!楽しい人なんだ。」
「…うん。」
ダスティンの笑顔は何よりも雄弁に、自慢の兄だと語っている。
チェスターは小さく頷き、水を一口飲んだ。ダスティンもコップを傾ける。
「叔父上ってさ、母上の事好きだったとかある?」
「ブフッ!!」
盛大に水を噴き出し、ダスティンが思いきり咳き込んだ。
白いクロスに染みが飛び散る。ワインを飲んでいたらエイダの説教間違いなしだっただろう。鼻に水が入ったのか、ダスティンはハンカチで顔を覆ってゲホゴホやっている。チェスターは慌てて腰を浮かせたが、特にできる事がない。
「ごめん、大丈夫?」
「ンゲホッ、ガホッ……はぁ、はぁ。いきなり何言い出すんだ!」
部屋には二人しかいないのにきょろきょろと辺りを見回し、ダスティンは赤くなった顔で水を喉に流し込み、再び噎せた。
あまりにわかりやすい動揺っぷりで、チェスターはつい笑みが零れる。
「まさか当たるとはなぁ~。」
「おいおい、勘弁してくれ!兄上は知らねぇんだから!」
声を潜めて人差し指を唇にあて、ダスティンは頭をがしがしと掻く。チェスターは母譲りの赤茶の髪を耳にかけ、悪戯っぽく笑った。
「興味あるなぁ、叔父上から見た母上!」
「あぁ、なんてタチが悪い子だ。親の顔が見てみたいぜ。」
ダスティンは大げさに肩をすくめ、やれやれと首を横に振る。窓へ向いた灰色の瞳につられ、チェスターも遠くの夜空を見た。
「……あの人はキレーな宝石で、お前の親父はそれを守った英雄さ。」
貴石の国、コクリコ王国の王女だったビビアナ。
騎士団長パーシヴァル・オークスは、ツイーディア王国を訪れた彼女の護衛を任された。
ダスティンは仕事であちこち飛び回っていたが、その時は「顔を見せに来い」とパーシヴァルに呼ばれ、玄関ホールの扉を開けた途端、見知らぬ美女が立っていて――目が合ったものの、つい、一度扉を閉めた。
『……なんだ、今の美女は。白昼夢?俺の未来のお嫁さんかな?開けたら消えてるか…三秒数えてから開けよう。いち…』
『“ あの…こんにちは? ”』
『ギャーッ!!』
『“ きゃーっ!! ”』
「それが最初?」
チェスターが首を傾げ、ダスティンがわざとらしいほど重々しく頷いた。
「俺は学生の頃から、将来違う国にも行こうって言葉を勉強してたんだ。ソレイユ語は苦手だけど…」
「あ、俺も。発音が駄目。」
「むッずかしいよなー、アレ!…でも、コクリコの言葉はできたし、義姉上とは同い歳。だからちょうどいいって事で、兄上は最初から話し相手のつもりで俺を呼んだんだ。」
「事情を言わずに?」
「驚かせたかったらしい。まったく困ったもんだ」
困ると言いつつ、ダスティンの顔には微笑みが浮かんでいる。
「で、街を見て回りたいっていうお姫様のご要望にお応えして、俺と兄上で案内した。もちろん変装してな!」
「楽しそうだね。」
「あぁ。」
ビビアナはお忍びで出歩く事そのものが初めてだったらしく、一番ワクワクしていた。言葉が違うため会話は小声だったが、茶色の瞳をきらきらと輝かせて街を見ていた。
「純粋で美しいお姫様が目の前にいたら、男なら誰だって優しくして差し上げたいだろ?」
「間違いないね。」
「兄上が真顔で冗談を飛ばすのも、最初は面食らってて可愛かったぞ。大きい目をぱちくりしてさ。慣れてきたらお上品に口元に手をあてて笑うんだ。三人でちっちゃい店入ってうまい飯食って、屋根の上から街を見下ろして……騎士団長ともあろう人が、姫様連れ出して弟と馬鹿やってたわけよ。」
一度話を切り、ダスティンは喉に水を流し込む。
その後、コクリコ王国の兵と共に帰ろうとしたビビアナは命を狙われ、駆け付けたパーシヴァルと部下達が敵を一掃したのは有名な話だ。
「…彼女が兄上を見る目を見れば、どうなるかくらい想像がついた。兄上は格好良い上に面白くて強くて、俺は……違うんだ、チェスター。俺は兄上と義姉上と、三人で過ごす時間が好きだった。楽しかった。幸せだったんだ」
囁くような声を、チェスターはじっと聞いていた。
ダスティンはコップを持った手をテーブルに置いたまま、揺らぎのない水面を見ている。
「誰だって綺麗なものを「素敵だ」と思い憧れる。好きの一種ではあるんだろうが、俺が抱いたのはそういうもので、二人が幸せになって、可愛い甥や姪ができて、それでよかったんだ。」
優しく細められた目を、自分に向けられる灰色の瞳を見て、チェスターは無意識に入っていた力を抜いた。唇が微笑みの形になる。ダスティンは照れくさそうに手を振った。
「やめやめ!こっ恥ずかしい話はここまでだ。」
「え、終わり?ここから可愛い甥と姪の話にならないの?」
「店仕舞いだ、よそをあたってくれ。」
「よそって。はは」
「そろそろ寝な、チェスター。まだ子供だろ?」
「さっき飲ませようとしたくせにひどいな。りょーかい、大人しく寝ますよ。」
グラスに残った水を飲み干して立ち上がるチェスターに、ダスティンが笑って手を振る。
部屋の扉へと歩き、ふと足を止めてチェスターは振り返った。
「叔父上、明日もう帰るんだよね。」
「ん?おう。」
「……ここ数年会えなかったけど…次は、いつ会える?」
「なんだ、寂しいのか?」
「…そんなとこかもね。仕事忙しかったの?」
「まぁなー、よその国にも行くし」
椅子の背もたれにギシリと身を預け、ダスティンは脚を組む。
今後の予定を思い出そうとして視線は空中へ投げていて、チェスターの表情には気付かなかった。
「ん…駄目だ、やっぱ酔ってるな。思い出せん」
「そっか。じゃあまた明日。」
「あぁ、おやすみ、チェスター。」
「おやすみ。」
にこりと微笑んで、チェスターは部屋を出ていく。
閉じた扉を見つめて、ダスティンは瞬いた。がしがしと頭を掻き、立ち上がる。あくびをしながら肩を回すと、骨がパキパキと音を立てた。
「……次、会えるといいけどな…。」
呟きながら、ダスティンは部屋の隅で開きっぱなしの旅行鞄に近付く。
少し探っただけで、さきほどは見つけられなかった物が指に触れた。そうだ、これを探していたんだと閃き、しかし眠気に引きずられるように視界が狭まる。
――早く蓋を開けないと。ちょっと待て、俺は…
意識を保とうと瞬きを繰り返し、頭を振った。
どうすれば思考が鮮明になるか思い出す。ぬるりとした物が指に触れ、口に含んだ。
女の声が聞こえる。
――あぁ、そうか。しまった。そうだ
「俺は……馬鹿なんだよ。チェスター」
視界に靄がかかっていくと、よく見えるようになる。
「だから……なぁ、頼む」
ベッドへ向かっていくと、旅行鞄の前に立っている。
「兄上、には…」
涙を零すと、口が笑った。




