170.ただそれだけの
衝撃は襲ってこなかった。
――……?
冷たい風が吹き込んでいる。
荒い息を整えながら顔を上げると、窓ガラスが一つ割れていた。外気で部屋の温度が下がっていく。外は雨が降っているらしい。
「はぁっ、はぁ……。」
湿った絨毯にぐしゃりと肘をついた。髪の先から水が滴り落ちる。
何が何だかわからないが、不発に終わったようだ。よろめきながら弟に駆け寄ってくる執事の姿が見える。あのひとはどうなった?
シャンデリアは消え、壁掛け照明もいくつかは不能になっていた。テーブルにうつ伏せに倒れた彼女の横、皺の寄ったクロスを踏みつけて誰かが振り返る。
薄明かりを反射して光る金色の瞳が、私を見下ろしていた。
「…アベル、様……」
なぜ。
どうしてここに。
「サディアス」
疑問など、すぐに頭から吹き飛んだ。
「はい。」
目が合えばもう他に見るものなどない。足は勝手に動いた。
あの方のもとへ、あの方のもとへ。
雫が頬を伝い落ちた。
床へ降りた彼に跪こうとして、腕を掴まれる。言外の指示に従って、私はアベル様の前にただ、立った。雨の中を来てくださったのか、黒髪から水が垂れている。
「城へ帰るぞ。」
「……は、い…。」
なぜ、喉の奥がつかえたような心地がするのか。
水が入り込んだ目は何度瞬きしても視界が悪い。身体が冷やされて寒いのに、熱い。アベル様に腕を引かれるまま歩いた。
使用人の声が追いかけてくる。
「だ、第二王子殿下!その、どうなさるおつもりで、奥様を…」
「彼女は魔力の暴走で気絶した、それだけの事だ。」
「……しかし…」
「法廷に出ても構わないよ、僕はね。」
「っ……。」
玄関ホールの扉が開き、外へ出る。
眼鏡を押し上げて目元を拭うと、存外、雨は小降りだと気付いた。アベル様が濡れているのは私の魔法のせいだ。血の気が引いた。こんな冬の日に。
「申し訳ありません!アベル様、貴方に水を…」
「構うな。」
「しかし――」
「んなっ、どうしたんだ二人共!ずぶ濡れじゃないか!!」
声の方を見ると、ウィルフレッド様が慌てた様子で馬車から駆け下りて来た。
「ウィル、馬車から出るなって言っ」
「早く入りなさい!」
まさか彼までいると思わず呆気に取られる私を、ウィルフレッド様はアベル様もろとも問答無用で引っ張っていく。
護衛騎士から受け取ったらしいタオルを私達の頭にべしべしと叩きつけ、彼は扉を閉めた。ヴィクターの先導で、私達三人を乗せた馬車が走り出す。後方から聞こえる蹄の音はセシリアだろう。
「二人共いったん上を脱ぎなさい、風邪を引く。宣言。火よ」
「ウィルフレッド様、それくらい私が」
「馬鹿言うんじゃない、俺が一番何ともないんだから。火よ、光よ。ともに二人の身体を温めてくれ。」
いいから早く脱ぎなさいと袖を引っ張られ、私は慌てて上着のボタンに手をかけた。アベル様も頭にタオルを乗せたまま黙々と脱いでいる。
やがて露わになった上半身に強い尊敬を抱くと同時、まだまだ足りていない自身を情けなく思ったが、一瞬手が止まったと見るやウィルフレッド様にシャツを引き剥がされてしまった。……この強引さ、どこかの公爵令嬢を思い起こさせる。
ウィルフレッド様は、シャツを風の魔法で手早く乾かして私とアベル様へ戻した。水を拭った身体で袖を通し、ボタンを留めていく。
「アベル、お前が言うから待っていたけれど…やはり俺も一緒に行くべきだったんじゃないのか?」
「いや、これでよかった。ウィルが来るとややこしい。」
「どういう意味なんだ、それは。」
「…私の父はご存知の通りですから。ウィルフレッド様がいらっしゃるのは危険です。」
まだ直接手は出さないだろうが、何かしら言いがかりをつけて貶めてくるかもしれない。
それに、ウィルフレッド様はきっと……あのひとと話し合おうとしただろう。執事を問い質しただろう。弟も連れ出そうとしただろう。父上に直談判すらやりかねない。…それは困る。
「いつからだ」
アベル様の声が刺さり、気まずく思いながら彼を見た。
眉間に皺を刻み、明らかな不満を示しておられる。私は逃げるように視線を下げ、膝に手を置いて床を見つめた。
それはあの事件の日。私が彼を喪った日。
帰り着いた屋敷で、この人達は誰かと父上に問うた時――あのひともいたのだ。
「……六年前です。」
「どうして言わなかった。」
「…些末な話でしたので……お耳に入れるほどでもないと。」
どこまで見られていたのだろう。
あのひとの暴走はもちろんとして…私がその前に、残飯の前で膝をついていた事も。目に入ってしまっただろうか。ただの作業のはずだったのに、アベル様に見られたと思うと急に…惨めな姿を晒したと、そんな苦痛を覚える。
アベル様が立ち上がり、私の脚の間の座面に片膝を乗せた。
見上げようとした瞬間に顎を掴んで上を向かされ、頭の横にアベル様が片手をつく。こちらを見下ろす目は冷ややかだった。
「お前があのような扱いを受けて、僕達が許すと思うのか。」
ぐっと唇を引き結ぶ。知られたくなかった。
貴方にも、ウィルフレッド様にも……屋敷の外にいる者なら、誰にも。
「アベル」
返答に窮していると、ウィルフレッド様がアベル様を呼んだ。金色の瞳が横を見る。
「席に戻れ。何があったか知らないが、落ち着きなさい。」
アベル様はゆっくりと私から手を離し、小さく息を吐いて元いた席へ戻った。
ウィルフレッド様の青い瞳が私とアベル様を交互に見やる。
「…それとお前達、俺に事情を話す気はないのかな。」
「……サディアス次第じゃないの。」
私は指示を乞うようにアベル様を見たが、その目は言葉通り「お前が決めろ」といった様子だ。ウィルフレッド様は恐らく、ある程度の察しはついているのだろう。私が話し始めるのをじっと待っているようだ。
二人分の視線を受けて、私は重い口を開いた。
「……大した事では、ないのです。母が暴走を起こしかけたので、私が水の魔法を使いました。」
「夫人が…そうか。病を患ったと聞いているけれど。」
「…屋敷を出られはしませんが、元気がないわけではなく…私を嫌っていますから、会うと少々厄介でして。」
「嫌う?どうしてまた。君をだいぶ可愛がって……そうか、六年前。夫人が病にかかったのはその頃だったね。」
私は首肯した。ウィルフレッド様は事件を知らない。
ニクソン公爵家の長男が誘拐された事は、騎士団にも被害者達にも口止めがされていた。
「……暴走を起こしかけたとの事だけど、何があったんだ。」
私が続きを話さずにいると、ウィルフレッド様からそう切り出してくる。つい目をそらし、眼鏡を押し上げた。
「…食事中だった、母が……」
「うん。」
「……残りを床に落とし、私に食べろと命じただけです。」
数秒の間が空いた。
反応が返ってこない事に居心地の悪さを覚えて目を向けると、ウィルフレッド様は意味を考えるように顎に手をあて、視線を落として瞬きをしている。不意に青い瞳がこちらへ戻され、反射的に肩が弾んだ。
「夫人が、食べていた残りをわざと床に落として、君に?」
「はい。」
私が大人しく従うつもりだった事までは言わずともよいだろう。聞かれていないのだから。
「そうか……。」
ウィルフレッド様は呟き、頷いて立ち上がった。
嫌な予感しかしない。馬車の扉へ向かう彼を慌てて呼び止める。
「お待ちください!どこへ…」
「どういうつもりなのか夫人に聞く。馬車を戻――」
扉の窓を開けようとしたウィルフレッド様の首根っこを、アベル様がひょいと引っ張り戻した。ウィルフレッド様の手が宙を掻く。
「離せアベル、ヴィクターに言って馬車を止めないと。」
「待ちなよ。そういうわけにはいかない。」
「いやこれは我慢ならない。親がやる事じゃないだろう、サディアスを何だと思ってるんだ!」
「落ち着けって言ったのはウィルでしょ。」
「お前は夫人にふざけるなと言えたのかもしれないけど、俺はまだなんだ。」
「話はしてない。気絶させたから。」
ウィルフレッド様がぴたりと止まった。
手を離したアベル様を振り返り、まじまじと見つめる。
「お前…それは……まずいだろう。」
「いえ、助かりました。アベル様が止めて下さらねば、怪我人が増えていたでしょう。私は火種を消しきれなかったので…。」
今回の件、父上がアベル様を咎める事は絶対に無いだろう。
あのまま暴走を起こしていれば、アベル様の身を傷つける可能性もあった。その場合非があるのはニクソン家の方なのだから。
「増えたと言うと、誰か既に怪我をしていたのか。」
ウィルフレッド様は少しだけ眉根を寄せて聞き返した。…失言だった。
「使用人の一人が、母が割ったガラスで少し切っただけです。自分で治せる範囲でしょう。」
「そうか。…サディアスは、怪我はしてないんだよな。今日だけの話ではなくて。」
「えぇ。」
治癒の魔法で事足りる範囲だ。
今、アベル様に目を向けてはならない。できる限り平静を装って答えると、ウィルフレッド様はほっと息を吐いた。まだ納得がいかない顔をしてはいるものの、屋敷へ突撃する事は止めてくれたらしい。
「俺が…公爵とこの話をするのは駄目か?」
「駄目。」
「それはおやめを。」
「二人して即否定か……悲しくなってくるよ。」
ウィルフレッド様が眉を下げて言う。
貴方は父上の事をわかっておられない。相手取るには私達はまだ幼過ぎる。
「あのひとは父がいる時は大人しいので、私からは何も伝えていないのです。」
「知られたくないと?」
「…そうですね。心配をかけたくないので。」
本当は、伝えて「煩わしい」と思わせる事が面倒だからだ。私はニクソン公爵にとって良い後継者でなければならない。今更弟が選ばれる事も、もう一人弟を作ろうとする事もないだろうとわかってはいるが。
ウィルフレッド様は考え込むように腕を組み、顎に手をあてた。
「しかしそれでは、今後どうするんだ。言っておくけれど、そんな真似をされるなら、俺は君を屋敷に帰したくはないよ。」
「滅多に帰らないので、問題ありません。」
「帰る時はどうするんだ。ヴィクターを連れていくか?」
「騎士の立ち入りなど父が認めません。どうかお気になさらず…今後は、母に会わないよう屋敷でも徹底しますので。」
お二人は僅かに片眉を上げ、視線を交わした。
私の意思を尊重してくださるお気持ちがあるのなら、このまま通せば現状維持できるだろう。話題を変えるために口を開いた。
「そういえば、お二人は城へ戻られなかったのですか。」
「一度戻ったんだけど、ウィルがニクソン公爵邸に行った事がないと言い出してね。」
「…それだとまるで、俺が我儘を言ったようじゃないか、アベル。」
「実際、止めても聞かなかったでしょ。」
「お、お前達が意味ありげに目をそらすから!」
「僕はそらしてない。」
ヴィクターとセシリアか。
以前はそれでよかっただろうが、ここ半年ほどでウィルフレッド様もだいぶ変わられた。
どうしても行くと言い出せば、アベル様は同行せざるを得なかっただろう。お陰で最悪の事態は免れた。……護衛騎士二人はなんだかんだ、ウィルフレッド様に弱い。
『貴様の母だなどと――』
不意に、あのひとの声が頭に響いた。
屋敷を覆う陰鬱さの正体。私の産みの親らしい女。
いつもこちらの言葉は聞いてくれないが、どうか安心してほしい。
私達は同じニクソン公爵家の人間で、血が繋がっていて、母で、息子で。
ただそれだけの他人だ。




