169.ニクソン公爵邸にて
暗い。
コツリ、コツリと靴音を響かせながら思った。
廊下には充分な明かりがあるというのに、普段王城で暮らしているせいかやけに暗く見える。……いや、それだけが原因ではないのだろう。アーチャー公爵邸もオークス公爵邸も、ノーサム子爵邸も…ここよりずっと明るかった。
「お帰りなさいませ、サディアス様。これはまた急なお戻りで…」
この屋敷全体に纏わりついた陰鬱さはドロドロとしていて、いつまでも消える事はないのだろう。あのひとがいる内は、絶対に。
「変わりは?」
「ございません。」
「いつも通りか…」
年老いた執事が黙って首肯する。
父上は屋敷の警備さえ整っていれば、内情がどうだろうと興味はない。
階段を上がって自分の部屋へ向かうと、扉が壊れて開きっぱなしになっていた。
斧か何かで執拗に刃を立てられたらしい残骸は鋭く、触れればどこかしら切ってしまいそうだ。壊した時はさぞかし派手な音がしていただろう。足を止める事なく部屋の中へ進む。
「「お帰りなさいませ、サディアス様。」」
清掃作業をしていた使用人達が頭を下げ、また手を動かし始めた。
新品の机が切り刻まれ、仕上げとばかり斧が突き立てられている。あれで扉をやったのだろう。破かれ、巻き散らかされた本のページがまるで絨毯のようだ。構わず踏みしめて歩けば、ぐじゅりと音がした。割れたワインボトルがあちこちに転がっている。
ベッドの側は羽だらけだった。
羽毛が入った物を切り刻めば当然の結果だ。騒ぎの度に清掃と買い替えが必要だが、放置すれば矛先は使用人に向く。彼らにとっては、自身が脅かされるより後始末の方がマシなのだろう。
部屋に入って真っ直ぐ。
正面の大きな窓には死んだ鶏が釘で打ち付けられ、ガラスに入ったヒビに沿って血が流れた跡がある。これは初めての事だ。窓の下に立って死骸を見上げた。
「私がオークス家に招待された事を?」
「……伝えました。」
「そうか。」
踵を返して部屋を出る。
元より、様子を見に来ただけで自室に用はない。必要な物は全て、城で与えられた部屋に運び込んである。使わない部屋がどんな惨状に見舞われても困りはしない。
「宣言。光、照らし出せ。」
明かりの用意されていない地下で、執事が追いつくのも待たずに歩を進める。別についてこなくて構わないが、彼は彼で父上に報告の義務があるのだろう。
家具の一つもない部屋について、視線を上げた。五、六メートルほど上の壁に、大人二人が余裕で並べる程度の穴が空いている。階段も梯子もないそこへ風の魔法で飛び乗り、通路を歩いた。
文様が刻まれた石の扉の前で振り返ると、執事は通路の入口に立ってこちらを見ている。それでいい。この部屋までついて来たらそれこそ父上が許さないだろう。入れるのはニクソン公爵家の血筋だけだ。闇の魔法で自分の背後を閉ざした。
暗闇の中、扉に埋め込まれた金属部分を手探りで見つけ、指の皮膚を裂く。じりじりとした痛みが蠢く。扉が僅かに発光し、文様がぼんやりと見えるようになってから指を離した。
「宣言。水、流し満たせ。」
金属部分から洗い流すように、傾斜をつけて彫り込まれた文様を水が滑り落ちていく。先ほどまではなかった小さな穴に吸い込まれる。
私はそれを眺めながら指に治癒の魔法をかけた。閂の外れる音がして扉が開く。
――父上は、私をどこまでなら泳がせてくれるのだろうか。
中から溢れる冷気を感じながら、ふとそんな事を考えた。
足を踏み入れ、扉が半分以上閉じてから闇の魔法を解く。石の扉がぴたりと壁につくその時まで、執事はこちらを見つめていた。
「宣言。火、共に在れ。」
急速に冷えていく身体を守るため、自分が燃えない程度の距離で炎を浮かべる。セシリアのように自分を傷つけないスキルがあれば、もっと楽なのだろうが。
火が明かりにもなるため、光の魔法を使う必要はない。白い息を吐きながら洞窟の中を歩き、別の扉にたどり着く。
来る度に凍り付いているそれを火の魔法で溶かし、押し開けた。
ただ、本棚が並んでいるだけの場所だ。扉を閉じれば中はさほど寒くない。
周囲に浮かべていた火を消し、光の魔法を頼りに目当ての本を探す。古びた報告書と言う方が正しいか。
国史に刻まれた《ラーエル砦の戦い》の裏、上層部が倒れた謎の病の正体と、使われた薬品についての考察。ロベリアの罪と呼ばれる魔力増強剤、《スペード》開発者の日誌。かつて燃え盛る皇帝の自室から盗まれたという秘薬の行方を記した手紙、君影国に住まう化け物の目撃証言……どれもこれも、本物かどうか怪しいものだ。
ある程度は確度が高いから保管されているのだろうが、果たして歴代のニクソン公爵は、どこまで王や騎士団に報告を上げたのか。
民に公開するか否かは別として、国として正式に保管するべき書物なら城か王立図書館にあるべきだ。あそこには王家と館長しか入れない場所もあると言う。
私が公爵となった暁には、ここにある全てをアベル様に検分頂きたいものだが……果たして、父上はそれを許すだろうか。あのひともそうだが、この屋敷から退かせた後、大人しくしてくれるかどうかわからない。
いくつか調べ物をしてから、私は部屋を後にした。
一時間強は経っていただろうに、執事は相変わらず通路の入口にいる。
「ご夕食はいかがなさいますか。」
「いらない。」
「承知致しました。」
わかりきっていた事だろう。父上も私も基本的に城で生活しているのだから、敢えてここで食事をとる必要がない。もちろん、身の回りにかかる金はニクソン家から城へ納めている。
一階に戻ってくると、食堂へ続く扉が開いた。
あのひとが出てきて私に目を留める。……最悪だ。
引き止めようとしていたのだろう使用人達が彼女の後ろで青ざめていた。冷え切った沈黙の中、久し振りに見る弟も私に視線を向けている。
「そこのお前」
彼女は、閉じた扇子の先で私を示した。
「来なさい。」
「申し訳ありませんが――」
「口答えするな!」
廊下の壁掛け照明に灯っていた火が膨れ上がり、バンと音を立ててガラスが砕け散る。使用人の一人が短い悲鳴を上げて腕を押さえた。シャツが裂けて血が出ている。……魔力暴走を起こしかけとは、随分機嫌が悪いらしい。
あの事件からずっと、彼女は不安定だ。
公爵夫人であるにも関わらず社交に出せないため、表向きは病で療養中という事になっている。
領地で休ませてはどうかと父上に進言した事もあったが、却下された。それでは監視に限界があるという理由だった。…確かに、脱走でもされたら事だ。
彼女は群青色の瞳で私を見張るようにしながら、弟の手を引いて食堂へ戻っていく。
面倒に思いつつ歩き出すと、昔の記憶がざらりと脳を撫でた。
『サディアス、私の可愛い子。こちらへおいで。』
『母上!見てください、今日も課題で満点を取ったのです。』
『まぁ……フフ。お前はなんと賢い子なのでしょう。』
長い食卓テーブルには食べかけの、二人分の食事が横並びになっている。
弟と彼女は食事中で、しかし私がいる事に気付いて出てきたようだ。中に入ると食堂の扉が閉じられ、二人は席につく。
「そこへ立っていなさい。」
こちらを見ずにそう言って、彼女は食事の続きを始めた。
腰まで伸びた髪は暗い青色をしていて、その淀んだ精神性を表しているかのようだ。自分の色をそのまま子供に継がせたかった父上は、血筋、高い魔力、それなりの容姿、そして一番近い髪と瞳の色を持つこのひとを選んだらしい。
紺色の髪と水色の瞳を持つ男児が産まれれば、それでよかった。だからそこにいる弟は…
不健康に細い指がスープ皿を持ち上げ、床へ落とした。
絨毯に染みが広がり、具材が投げ出される。使用人達は動かない。続けて肉の切り身やサラダの残りが降り注ぐ。仕上げとばかりに放られた皿が割れ、破片が残飯に混ざった。
「食べなさい。」
城に戻ったら、地下で得た情報をアベル様の耳に入れておかなくては。部屋にいらっしゃるだろうか。騎士団本部に行かれているかもしれない。
「お前に相応しく、跪いて手で食べるのです。」
私はただ歩いて残飯の前に立った。
アベル様には今日の感謝も伝えたい。オークス公爵と話す間、側で助けてくださった。意外にも、閣下の私への心証が悪くないようで驚いたが…
「早く!私を待たせるんじゃない!!」
天井のシャンデリアが割れ、テーブルの反対側にガラスと燃えカスが降り注ぐ。クロスに燃え移った火を使用人が慌てて水の魔法で消した。
《破裂》…他者に傷を残すためにあるようなスキル。それも父上がこのひとを選んだ理由の一つだ。公爵家の息子が国の上層部に入るには、王子の従者――護衛になる事が近道とされる。
しかし父上は、従者になれなかった。
唯一の王子殿下には、同い歳の公爵令息がいたからだ。父上は生まれが数年遅かった。だから自分は早めに子供を作ったらしい。もちろん、ニクソン家のために。間違っても私達のためではない。
彼女は残飯を踏みつけ始めた。
どうせなら、私が来るまでの間にやっておけばよかったものを。…時間の無駄だ。
「両膝をつきなさい、さあ。」
食堂には拳大の火球が大量に浮かび上がっていた。使用人達が緊張に身体を強張らせている姿も、自身が生み出した火の事も、このひとには見えていない。これだけの量が《破裂》を起こせば食堂は火の海だろう。
膝をついて、残飯を見下ろした。
これを口にすればいいだけなら簡単だが、破片はどう避けるか。口内までは切れても治せるが、飲み込んだ破片の除去はもちろん、食道や胃が傷つけば自分では治せない。細かい破片がないか、指と舌で確認するしかない。
「あぁそうだわ、賢い獣は「待て」ができるそうです。フッ、フフ…餌がもらえて嬉しいでしょうが、待て。」
耳障りな笑い声をあげて、彼女はテーブルに頬杖をついた。
空中で燃え続ける火球によって気温が上がっていく。汗が首筋を伝った。いっそ、魔法が使えないよう黒水晶で拘束してやりたいと思うが、そうするとこのひとは酷く暴れて自傷を始める。本当に厄介な存在だ。
真夏の直射日光を浴び続けるが如く、熱気が充満している。やがて誰か倒れたらしい音がしたが、駆け寄る者はない。彼女は汗で張り付く髪を横へ流し、弟へ話しかける。
「フフフ、フ。見なさい、可愛い子。アレが何かわかる?」
「…は、うえ……」
「賢いお前ならわかるでしょう、さぁ、答えて。」
「……あつ、い…」
「何?そうね、そうよ。取るに足らない人形なの。だから貴方だけがこの家をちゃんと継げるのよ。」
ガタリ、椅子の脚が音を立てる。
弟はぐったりと背もたれに寄りかかっていた。この暑さのせいだろうが、彼女にはそれすら見えていない。群青の瞳は私を見ているようでいて、どこにも焦点が合っていない。言う通りにすれば収まるかと思ったが、しばらくは「よし」を言う気がなさそうだ。
汗がぽたりと床に落ちる。
私は頭を動かさずに食堂を見回し、火球が広がっている大まかな範囲を確かめた。地下でもだいぶ消費したが、残った魔力でも威力を弱めるくらいはできるだろう。
目を閉じて一呼吸し、指を鳴らす準備をして彼女を見上げた。このひとを爆発させるにはたった一言で十分だ。
「母上」
「――ッう゛あ゛あぁあぁああッ!!」
「水、この場を満たし火を潰せ!」
宣言を短縮する代わり、指を鳴らして魔法を発動させる。浮かび上がる火球をできるだけ飲み込むよう、平面的に広範囲の水を出現させるが足りない。全ては無理だ。ガラスが割れる音が響く。重力に従って水の天井が落ちてくる。ずぶ濡れになりながら弟を椅子から抱え上げた。
「おのれ、おのれ!貴様の母だなどと――!!」
消しきれなかった火球が膨れ上がる。
できるだけ距離を取ろうとしたが間に合わない。
弛緩した弟の体を抱きしめるようにして身を縮めた。




