168.二度と買わねぇ ◆
財布には金が沢山入っていた。
貴族から見ればはした金だろうが、少年にとって一週間たらふく飯が食える額は貴重だ。
取引相手から「少しは身綺麗に」と衣服を渡され、まだ汚れていないし擦り切れてもいない、着心地の良いシャツとズボンを身に纏っている。靴もサイズが合った物を貰えたため、歩きやすい。
――ここに来るのも久々だな。
貧しくも活気のある下町を歩きながら、少年は立ち並ぶ店をじろじろと眺めた。金を持っている時と持っていない時とでは、目に入る店の数が変わってくる。
香辛料の匂いにつられ、広場で肉と野菜を挟んだ大きなサンドイッチを買った。がぶりと噛みちぎりながら歩き出すと、ベンチにみすぼらしい服装の男の子が一人で座っているのが見える。痩せぎすでズボンも古ぼったく、フードを深くかぶったままぼそぼそとパンをかじっていた。
脇に置かれたバスケットには布がかけられ、何か草のようなものがはみ出している。薬草売りか何かだろう。
『あの子よね、この前魔法を使ったっていうの。』
『見た見た!風で馬が、なぁ?ぶわーって!』
『怪我人は出なかったみたいだけど、黒水晶で縛っておかなくていいのかしら。』
『ガキどももすっかり近寄らなくなったよな。前は毎日のようにからかいに来てたのに。』
風の魔法。
黒水晶で縛る。
『チッ…』
嫌な記憶を思い出し、少年は顔を歪めた。
魔力を持たない大人は、魔力を持つ子供を恐れる。どこにでもある話だ。自分より弱いと思い込んでいた者が力を持っていた時、恐ろしいと忌み嫌う。
さっさと離れようと足を早めた。
『また来てね~!』
『あぁ。』
適当に歩いていると、ハートでも飛びそうな、しかしなかなかに歳のいった女性の声が聞こえてきた。返事をしたのは若い、それも堅い男の声で、少年は興味本位にそちらへ目を向ける。
ゴテゴテした妙ちきりんな風体の雑貨屋から、赤髪隻眼の男が出て来た。
ローブを着て軽く服装を隠してはいるが、靴は騎士団の物だ。帯剣しているのだろう、鞘の形も見えている。少年は咄嗟に目をそらした。
騎士団に関わるべきではない。
サンドイッチの残りに意識を傾け、咀嚼しながら耳で足音を拾う。
――そのままどっか行け……止まった?何でだ?俺を見てるわけないよな…
『先生ーっ!!』
慌ただしい足音が男の近くまでやって来て、少年は最後の一口を飲み込みながらそっと様子を窺った。
こげ茶色の髪にバンダナを巻きつけた少年が膝に手をつき、ぜぇぜぇと息を切らしている。がばっと顔を上げたその瞳は、琥珀色だった。
『だぁーっ、間に合った!八百屋のオッチャンが見かけたって言うから…』
『もう戻る所だがな。』
『えー!稽古する暇は!?』
『ない。』
『うぉおおお!間に合わなかったー!!』
『そんな暇は元からないぞ。頼んでいた物を取りに来ただけだ。』
どうやら騎士志望か何からしい。
見てくれからして十二、三歳だろうその少年は、さっさと歩き出した男に並んでついていく――赤髪の男の、緑色の左目がこちらを見た。
『――っ。』
思わず見開いた目が泳がないよう必死に言い聞かせたが、背筋を冷や汗が伝った。
『先生、そんじゃ道中お供するぜ!』
『それは構わないが、お前入学に向けて勉強はしているのか。あと何か月かわかっているか?』
『んがっ……そ、それは~…』
口ごもるバンダナの少年の頭をぽん、と軽く押して、隻眼の男は視線を前へ戻す。そのまま歩いていく。
『……驚かせやがって…』
二人が充分に遠ざかってから、少年は不機嫌そうに灰色の髪をぐしゃりと掻き上げた。
会話の内容からして、来年には同じ顔を見る事になるだろう。少年は取引相手の命令で、偽りの身分を手に王立学園へ入る事になっていた。
『…気色悪ぃ。』
眉間に皺を寄せて吐き捨てる。
バンダナの少年の、何も考えて無さそうな、いかにもお人好しですといった馬鹿面を思い返すと腹が立った。店先に置かれていた鉢植えを蹴散らす。音を立てて砕け散ったそれを、道行く人々のざわめきを無視して歩いた。
人気のない路地裏に入り、風の魔法で適当に建物の屋上へ飛び上がる。
高い場所から人々を見下ろすのは気分がよかった。そうしていれば誰も、少年に干渉してこないからだ。
遠くを見やれば、貴族達の馬車が行き交う街や高い図書館、もっと先には上級貴族の屋敷や王城がある。
――金はある。しばらくは良さそうな食い扶持も。
他に何を望むのだと、少年は現状を確かめる。
三白眼の中にある小さな黒い瞳で、自分の手のひらを見つめた。今はパンくずくらいしかついていないはずなのに、べったりと汚れているように思える。そしてそれを汚いと忌避する心も、綺麗にしたいと思う心もなかった。
『あーあ』
どうしたって自分はこうだろうと、少年は寝そべって空を見上げる。青く晴れ渡り、白い雲が浮かび、下からは人々の賑わいが聞こえてくる。
ツイーディア王国は、不快なほど平和だった。
『……つまんねェな…本当。』
◇ ◇ ◇
パーティーはつつがなく進んでいる。
少人数なのにあえて広い部屋を使ったのは、音楽隊のスペースを確保するためだったらしい。玄関ホールでリズミカルな曲を流していた人々が、今は粛々とクラシックを奏でていた。
シャロンがそれとなく観察する中、ダスティン・オークスは恐ろしい素振りを見せる事など一度もなく、皆の輪に溶け込んでいる。チェスターやジェニーをはじめ、オークス家の人々が彼を信頼し慕っている事がよくわかった。
卓を囲んでの時間も終わり、各々が好きに過ごしている。
ウィルフレッドはジェニーと共に壁に飾られた絵画を一つ一つ辿り、アベルとサディアスは席についたままパーシヴァルと何事か話していた。珍しい組み合わせだ。
シャロンは窓辺に立って公爵夫人であるビビアナと会話を楽しんでいたものの、きりの良いところで使用人が彼女を呼びに来て別れたばかりだ。
二人で話し込んでいたらしいチェスターとダスティンが、客を一人にするまいとシャロンの方へ歩いてくる。
――……何だ、こいつ。
じっと佇んだまま、ダンはシャロン達と話すダスティンを静かに眺めた。
快活な笑顔、いかにもなジョーク、大げさな仕草。他家の令嬢であるシャロンに対しては、親しみを持って接しつつも一定の線引きが透けて見える。
ダンは最初彼を、世間で上手く立ち回ってきた大人の典型だと思った。商人をしているからには、本心を隠すのも上手いはずだ。しかしこうして近くで注視すると……
「なんか、妙っつーか…薄気味悪さはあった。」
アーチャー公爵邸へ帰る馬車の中、ダンは眉を顰めて呟いた。
斜め向かいに座っているシャロンは首を傾げ、思い返すように視線を空中へ投げる。
「薄気味悪さ…不気味ということ?私はあまり気付けなかったわね。」
「上手く言葉になんねぇけど……良い奴っぽく見えただろ。」
「えぇ。」
「そう見え過ぎるっつーか…ちょっとだけどな。」
「…良い人に、見え過ぎる……」
視線を床へ落とし、シャロンは意味を咀嚼するようにゆっくりと繰り返した。
ダンは灰色の頭をがしがし掻いて「あんまアテにすんな」と言う。窓の外、じきに夕暮れとなるだろう空にはいつの間にか、雲が多くなってきていた。
「大人ってもうちょいスレてるだろ。……こっちを見下したり探ったり、あのわかりきった品定めみてぇな目つき…」
これまで向けられてきた数多の視線を思い出し、ダンは窓の外を睨んで顔を歪める。シャロンが落ち着いた声で聞いた。
「あの方には、それが無かった?」
「隠してただけかもしれねーし、俺らに興味が無いのかもな。商売の話にならなかっただろ。」
「そう、ね……私が古美術好きかどうか、探る様子もなかった。」
「間抜けか心底お人好しか、よっぽど上手くいってるかだ。」
シャロンは考え込むように頬へ片手をあてる。
確かに商人の立場ならもう少し自分の商売についてアピールがあってもよかった。実家が公爵家だからと言っても、他の公爵家と繋がりを持っておいて悪い事はない。
シャロンが古美術のコレクターではないとしても、これから興味を持つ可能性だってある。
顧客を限定しているとか、今日は顔を作るだけで後日改めてとか、適当な理由もいくらだって並べ立てられるけれど。
ダンは苦い顔で脚を組んだ。
「変だって確証があるわけじゃ無いからな。そもそもお嬢に言われなかったらまともに見てねーし、そしたら何も思わなかったかもしれねぇ。第一、あの公爵は軍務大臣なんだろ。弟が何かしてて気付かないって事あんのか?仲良いったってだいぶ間抜けだぜ、それ。」
「そこも不思議なのよね……。」
――チェスターが最初信じ難いという顔をしたように、身内だからこそ無意識に「そんな事はしないだろう」と思っている面もあるでしょう。でも、それだけなのかしら。
まだ幼いシャロンより、ダンより、チェスターよりも、パーシヴァル・オークス公爵の方がこういった事に関して鋭いはずだった。
弟だからといって、その嘘や演技を見抜けないものだろうか?
軍務大臣ともあろう人が馬車ごと転落し、殺されてしまったのはなぜなのか?ゲームの知識から得られる情報は少な過ぎる。
「年明けにアベルと話す時、印象を聞いてみましょう。彼にも見抜けないなら……」
「気付けなくてもしょうがないってか?」
「いいえ…もしかしたら、もっと別の何かが――」
「はーあ。うちの坊ぐらい単純なら楽だったのにな。嘘吐くとすぐわかるだろ。」
「……ふふ、そうね。」
目をぱちくりさせて視線を泳がせる弟の姿が浮かんで、シャロンは自然と微笑んだ。肩に入っていた力が抜け、眉間にできていた小さな皺も消える。
ダンは口角を吊り上げて笑った。
「まぁ一旦忘れとこうぜ、お嬢。今頭ン中でぐつぐつやったって、王子サマに相談すんのも公爵追っかけんのも変わらないんだろ?」
「…えぇ。私の話を信じてくれてありがとう、ダン。」
「んなもん――…」
何か言いかけたダンは一度口を閉じ、ちらりと視線を泳がせてからがしがしと頭を掻いた。シャロンが目で続きを問うと、腕を組んで背もたれに寄りかかる。
「あれだ。」
「どれ?」
「……お互い様だろ、おじょーさま。」
ぶっきらぼうで、冗談めかした言い方だった。
シャロンはぱちりと瞬きし、花がほころぶように笑う。
「当たり前だわ。貴方はもうメリル達と同じ、我が家の一員だもの。」
「へーへー、そうですか。」
「前に、白いアスターの花を買ってきてくれたでしょう?最初はカレンに会った証明だと考えて、面白い事をするわねって思っていたのだけれど……悪い事したくなったら言え…って、言ってくれたから。」
懐かしむように遠くの景色へ目をやるシャロンに、ダンが疑問符を浮かべて首を傾げる。面白い事をしたつもりはないが、いつの話なのか記憶はあった。
『ぼちぼちマトモに相手してもらったらどうなんだよ。ごっこ遊びで終わんなら意味がねぇ。』
『お嬢、またな。悪い事したくなったら俺に言え。』
「花の意味はそちらにあったと気付いて、心が熱くなったわ。なんて真摯に向き合ってくれるのかしらって――」
「ちょっと待て、お嬢。」
「なぁに?」
感動を伝える最中に遮られ、シャロンはきょとりとダンを見た。彼は言っている意味がわからないという顔で片眉を上げている。
「何か花買ったのは覚えてるけどよ、チビに会った以外何の意味があんだよ。」
「えっ。花言葉を知っていたわけではないの?」
「花言葉ぁ?んなモン俺が知ってるわけ――…」
嫌な予感でもしたのか、ダンは素早くシャロンに片方の手のひらを向けた。口を開きかけていたシャロンがぴたりと止まる。
「俺は知らないし、なんつー花を買ったかも覚えてねぇ。そんで、どういう花言葉?があるかも聞きたくはねぇ。いいか?いいな?」
絶対に言うなよ、という圧力を感じ、シャロンは大人しくこくこくと頷いた。
状況からして、聞いたら悶絶するか暴れるだろう事はシャロンにも察しがついたのだ。
「…天気悪くなってんな。」
間違っても今の話が続かないよう、ダンが先手を打った。
シャロンは「えぇ」と呟いて窓の外を見つめる。ずいぶんと広がった雲は薄い灰色をしていた。もう少ししたら雨が降り出すかもしれない。
「サディアスは大丈夫かしら。お城に戻るまでに降らないといいけれど。」
「馬車あんだし、行ったの自分の家だろ?どうにでもなるんじゃねぇの。」
「なんだか憂鬱そうに見えたから、少し心配で…」
「そりゃま、お前らみたいに仲良しこよしの家ばっかじゃねぇよ。」
ダンが欠伸を噛み殺しながら言う。
空を見上げるシャロンの前で、窓ガラスにぽたりと雫がついた。




