165.おひめさまをさがしてない
大柄な騎士が吹っ飛ぶのを青い瞳で追いながら、ウィルフレッドは小さく口を開けた。
「すごいな…。」
純粋な感想だった。
自分より二十センチ以上背の高い、それも屈強な身体つきの騎士を、弟のアベルが蹴り抜いたのだ。観戦していた騎士達が大盛り上がりで歓声を上げている。空は天高く晴れ渡り、冬の冷たい風がウィルフレッドの長い金色の髪をさらさらと流していた。
模擬戦で乱れた髪を自分で後ろ一つに結い直し、ベンチに腰かけて背筋を伸ばす。改めて見ると、何度でも思うけれど、異常な光景だ。アベルの反射速度や力、技術はいずれも十二歳で得られるものではない。十八歳が化けた姿ですと言われた方がまだ納得できるだろう。
「第一王子殿下も優秀だけど、アベル殿下がいると霞んじまうよな。」
ウィルフレッドが近くにいる事に気付いていないのだろう、食い入るように模擬戦を見つめたまま、若手の騎士の一人が呟いた。耳に届いた言葉を、ウィルフレッドは一度瞬いただけで流す。
――…前は、重苦しい何かに捕われるような心地が、していたんだけどな。
驚くほど動じていない自身にこそ、少しだけ驚いた。
今はそれより、模擬戦から学べる事は学ばなければならない。騎士団の相手を終えればまた、アベルはまた今日のウィルフレッドの動きについて意見を交わしてくれるだろう。自覚できているミスもいくつかあるが、やはり観察する余裕のあるアベルの方がよくわかっている。
上位の騎士相手にさすがに汗をかき始めた弟を見ながら、ウィルフレッドは首を傾げた。
アベルは鍔迫り合いを弾き、後方へ宙返りするように高く距離を取り――そのジャンプの高さからおかしいのだが――ウィルフレッドの護衛騎士であるヴィクター・ヘイウッドが、勝機と見て一気に地面を蹴る。アベルの視線が正面を向いた時には既に肉薄し、しかしヴィクターが横薙ぎに振った剣は、踵落としで殺された。
さすが、ヴィクターは垂直に力を加えられても剣を落としはしなかったが、アベルの剣がごちんと頭を強打する。そこまでだった。
「無茶をするなぁ…。」
空中での踵落としを、相手の剣身に命中させる事からして難易度が高過ぎる。
模擬戦を終えて戻って来たアベルにタオルを投げてやりながら、ウィルフレッドは「お疲れ」と笑って声をかけた。鋭かったアベルの目が和らぐ。
「うん。お疲れ」
「今日もすごかったけど、ヴィクターとの試合は驚いた。まさか踵でいくとは。」
「あぁ…ヘイウッドなら対応できると思ってやったんだ。」
「対応?」
ウィルフレッドは聞き返した。
ヴィクターは見事、頭を叩かれていたはずだ。アベルは片手に提げたままだった模擬剣を持ち上げ、剣身を横から軽く手で押してみせる。
「ここで手を離せば剣が落ちる。でも、剣を離さない事しか考えなかった場合は、手首がイカれるでしょ。耐えられないと察したら、ある程度受け流してから剣を握り直さないといけない。」
「…なるほど。確かにそうだな。」
「若手の騎士なんかは「剣を落とすな」が頭にこびりついてるから、対応を間違える。」
首筋を伝う汗を拭い、アベルはちらりと近場にいた騎士達を見やる。ウィルフレッドはすっかり忘れているが、先程「アベルがいると第一王子は霞む」と話していた者だ。突然じろりと睨まれた騎士はびくりと肩を震わせて視線を外した。
「ところで、ウィル…少し二人で話したい。」
「?構わないけど……。」
アベルがちらりと護衛騎士二人に視線をやれば、ヴィクターは改まって礼をし、セシリアは笑顔で頷いた。ウィルフレッドは自分との試合について意見を聞きながら、アベルと共に城内へ移動する。
ウィルフレッドの部屋に入ると、二人はティーテーブルを挟んで席についた。
「どうしたんだ、内密とは…母上の事か?成り代わりに何か問題が…」
「それは大丈夫。つつがなく進んでる」
「では何が…」
「彼女に」
テーブルの上で手を組み、アベルは真剣な眼差しでこちらを見る。彼女?と、ウィルフレッドは内心首を捻った。
「…これまで、何をプレゼントしたの。」
「何って……。」
自分が贈り物をするような間柄の女性で、アベルが「彼女」と言うような相手は一人しかいない。シャロンの事に違いないだろう。
しかしいきなりどうしたのかと不思議に思いつつ、ウィルフレッドは視線を空中へ投げて指折り数えた。
「花束とか…あぁ、ヴィクターが持たせてくれた菓子……彫刻入りのペン…ロベリアのオルゴールと…えーっと…ぬいぐる」
「装飾品は。」
「…装飾品?アクセサリーの事か?」
「髪留めでもなんでもいいけど、身に付けるもの。」
「あるわけないだろう。彼女を飾るものを、俺が贈るなんて。」
そんなおこがましいこと。
ウィルフレッドが軽く首を傾げると、アベルは何故か額を押さえた。頭痛でもするのだろうか。
「…贈らないでどうするんだ、言わないにしても牽制しておいた方がいい。」
「牽制?」
「公爵があの調子だからまだいいけど、学園に入ったらそうもいかないでしょ。」
「……お前、何の話をしてるんだ?」
「他の男が寄ってこないように、何か身に付けさせておけって事だよ。」
「ほかッ…な、そんな事俺が――…!」
やる権利はないだろう、と言おうとしたウィルフレッドだが、はっとする。
アベルは、シャロンが誰かに言い寄られないか心配しているのだ。ごくりと唾を飲みこんだ。これはしっかりと真意を確かめなくてはならない。
「アベル、お前…」
「…何。」
顔色を変えたウィルフレッドに嫌な予感でもしたのか、アベルが早速眉を顰める。
「まだ会ってもない学園の生徒に、嫉妬してるのか……?」
「何でそうなるんだ…!」
わなわなと強く握り締められた拳を見て、ウィルフレッドは驚き半分、残念半分に「違うのか」と呟いた。アベルが「当たり前でしょ」と早口に返す。
しかし、シャロン関係で何か気にかけている事は確かだろう。ウィルフレッドは弟を安心させようと微笑んだ。
「心配しなくたって、シャロンは俺達の側にいてくれるよ。」
「それは……そうかもしれないけど。親族を除けば、最初にそういう物を贈るのは本来ウィルの役目で…」
「俺が?」
幼馴染だからだろうか。
庶民ならそうかもしれないが、ウィルフレッドは王子でシャロンは公爵令嬢だ。さすがに公に堂々と装飾品を贈るわけにはいかない。こっそり渡せば、内緒にはしてくれるだろうけれど。
ウィルフレッドは悩ましげなため息を吐いてこめかみに手をあてた。
「でも……シャロンが身に付けるんだろう?俺は選ぶだけで半年…いや一年以上は悩む自信があるよ。そうなるともう各店新作を出しているだろうし…」
「ウィルからの贈り物なら、どれでも喜ぶんじゃないの。」
「あぁ、彼女は優しい人だからね。俺達が贈ったって、サディアスやチェスターが贈ったって、等しく喜んでくれるさ。」
アベルは不服そうに少しだけ片眉を上げた。ぼそりと呟いた「鈍い」の一言は、ウィルフレッドの耳には届かなかったようだ。
愛らしい幼馴染にどんな装飾品が合うか考えても、全て完璧に似合ってしまうように思えてしまって、ウィルフレッドにはとても選べない。かといって、選べなかった全てをプレゼントするわけにもいかないだろう。
「考えていたら、会いたくなってきたな。ちょうど夕方の授業も無くなったし、早馬を出しておいて、湯浴みを終えたら行ってみるか。」
担当の教師がぎっくり腰をやったとかで、ほんの二時間前に休講にさせてほしいと連絡があったのだ。アベルは元からさぼるつもりだったのだろうなと、ウィルフレッドは弟を見やる。
「お前も来――」
「行かない。」
「そうか…」
妙に否定の早いアベルに僅かな寂しさを覚え、しゅんと視線を下げた。罪悪感からかアベルが苦い顔で目をそらす。
「ちょっと…用事があるんだ。彼女には、来週どうせ会う。」
「ジェニー嬢の快気祝いか。俺はベッドの上で過ごす彼女しか見ていないから、元気な姿を見られるのは楽しみだ。シャロンとも随分仲良くなったと聞いているし。」
治って本当によかったと微笑むと、アベルは何か懸念するように目を細めた。
「ウィル、ジェニー嬢との距離には気を付けなよ。」
「うん?そうだな。もちろん失礼のないようにするよ。」
「……カレンの時もイェシカ殿下の時も、わかってなかったでしょ。」
「…何がだ?」
言われた意味がさっぱりわからずに聞き返す。
アベルは深くため息を吐き、「なんでもないよ」と返した。
「ウィルでんか!」
先導するアーチャー家の使用人について屋敷へ足を踏み入れて、すぐ。
満面の笑顔を浮かべたクリスにそう呼ばれ、ウィルフレッドは「おや」と瞬いた。父親と同じく、銀色の髪と瞳を持つ少年が駆け寄ってくる。
「こんにちは!」
「こんにちは、クリス。俺を殿下って呼んでくれるのかい?」
「うん!アベルでんかとね、おそろいでよびます。」
「ありがとう。だけど、今は公式な場ではないのだから、敬語でなくてもいいんだよ。」
柔らかい髪をくしゃりと撫でて言うと、クリスはにこにこしながら「れんしゅうちゅう」と言った。慣れるために今から使うという事らしい。
なるほどねと顔を上げれば、彼の姉であるシャロンが歩いて来た。
「こんにちは、ウィル。」
「シャロン、こんにちは。」
挨拶を返しながら、ウィルフレッドは自然と微笑んでいた。
肌寒い冬の日だというのに、シャロンの笑顔は春に咲く花のように温かい。心地よい安堵を覚えながら、共にクリスの手を引いて応接室へ向かった。
「ウィルでんか、おうかがいしたいことがあってね。」
「うん、なんだい?」
ソファに座ってすぐ、まだメリルが紅茶を注ぎ終える前からクリスが話し始める。五歳の少年がきゅっと眉間に小さな皺を作っているのは、どちらかと言えば微笑ましい姿だ。
「アベルでんかはどうして、おひめさまがいらないのですか?」
「ん…お姫様?」
何の話だろうか、と顎に手をあてたウィルフレッドは、シャロンが苦笑いした事に気付く。彼女と目を合わせて僅かに首を傾げてみせると、頷いて説明してくれた。
「実は、私とアベルがそのうち婚約すると思っていたそうで…」
「へぇ!それは……うう゛ん、そうなんだ。」
それは俺も賛成だなと言いそうになり、ウィルフレッドは慌てて咳払いで誤魔化す。本人達の意向無しに周りがとやかく言っては、上手くいくものもいかないかもしれない。
「あねうえがいうには、おうじ…アベルでんかは、おひめさまをさがしてないって。」
「お妃様を取る気がないみたいなの。ウィルも、知っているかもしれないけれど。」
「聞いた事があるよ。」
結婚の必要がないからと言っていたはずだ。
加えて、「互いに利のある期限付きの契約ならまだ考える」とも言っていたが、それはシャロンにわざわざ伝える事ではないだろう。
「ね、クリス。あんまり無茶を言っては駄目よ。」
「あねうえ、チェスターさまとけっこんしちゃうの?」
「こふッ!」
予想外の言葉に、紅茶を飲もうとしたウィルフレッドが噎せた。
なんとか一滴も零す事なくカップを置いたが、ハンカチを口元にあててケホケホと咳をする。
「だ、大丈夫?ウィル。」
「大丈、夫……けほ、お、驚いてつい。」
「クリスったら、もう。落ち着いて。チェスターとのお出かけはダンも一緒だったと言ったでしょう?」
「そうだけど…」
ふっくらした頬を更にぷんと膨らませ、クリスは不満げにしている。
どうやら事実と異なるらしいと察し、ウィルフレッドはほっと息を吐いた。もちろんシャロンの幸せは全力で祝いたいが、ちょっと唐突過ぎた。
「クリス、結婚は家の事や本人同士の相性を考えて決めるものだ。姉上を困らせてはいけないよ。」
「むぅ……わかりました。」
しゅんとして唇を尖らせるクリスを、シャロンが優しく撫でてやっている。
穏やかな微笑みを浮かべたまま、ウィルフレッドは内心苦笑いで頬を掻いた。
――なんて言って、家柄も相性もたぶん問題ないんだよな…。本人の意向と、それから厄介なのは…
『お前達の代ではシャロン・アーチャーを王妃にするといい』
――陛下の意思。




