162.あの日のように
ウィルには触れても良いだなんて、不思議な話。
幼馴染だからと言っても、それを知っている人は少ないはずだけれど。
ぱちぱちと瞬いた私に気付く風もなく、アベルは小さく息を吐いて紅茶を喉へ流した。カップを戻して、首を軽く傾ける。
「……下手をすると、君が触れる相手は僕が一番多いのかな。」
「下手をしなくてもそうよ。」
「…さすがにウィルよりは少ないよね。」
「……?どう比較したら良いかわからないけれど、ここ一年くらいで区切ったら貴方が一番だわ。」
小さい頃は、庭を散歩する間ずっと手を繋いでいたり、何かやり遂げた時にぎゅっと抱き着いたりという事もあったけれど。最近はやらないもの。
どうしてそこまで驚いているのか、アベルは軽く目を見開いて数秒硬直した。
「それは……まずいな。」
「そう…ね?」
既に噂されているから気を付けようと、さっきから話していたはずでは……ウィルとの比較は、そんなに重要だったのかしら。同じ「王子」だから?
「なぜそんな事になるんだ……?」
少し癖のある黒髪を掻き上げて、アベルは独り言のように呟いている。
どうしてか急に深刻さが増していない?
「うーん…そうね。崖から落ちた所を助けてもらったり、泣いた時に胸を貸してもらったり…屋上から降りるのに抱き上げてもらったりしたせいかしら……。」
手を繋ぐどころかしっかりとくっついてしまった時の事を、思いつくままに並べてみる。こうしてみると本当に色々とご迷惑をおかけしていて、申し訳ない。
ちらりとこちらを見たアベルは、深くため息をついて額を押さえた。
「他にどうすればよかったと……。」
「要は私達……私だけかもしれないけれど、慣れてしまったのね。」
リュド殿下に感じた恐ろしさを、アベルには全く感じない。
友達のサディアスやチェスターとも、幼馴染のウィルとも違う不思議な感覚だ。
冷えていたはずの部屋はすっかり暖まっていて、優しい灯がちらちらと揺れ、その光がアベルの瞳を煌めかせている。
僅かに目を細めてその金色を見つめていると、自然と顔がほころんだ。
「貴方がこうして傍にいてくれると嬉しいし、手を繋いだらすごく安心するわ。」
――繋いでいる間はきっと、貴方はどこにも行かないから。
アベルは瞬いて、困惑するように目をそらした。
「…だから…そういう事を言うな。」
「駄目だった?」
「周りが誤解すると面倒だろう。」
「では、今なら大丈夫ね。私と貴方の二人きりだもの。」
「っ、お前……」
苦虫を嚙み潰したような顔で、アベルが私をじろりと睨む。
何か文句があるらしいと、私は瞬いて言葉を待った。彼はぐっと唇を引き結んで、ふいと顔をそむける。
「君、僕がウィルの弟だからって、信用し過ぎなんじゃないの。」
「貴方がウィルの弟だから信じますなんて、言った事ないわ。」
「…忘れてるなら言っておくけど、人を殺した事くらいはあるからね。」
「今更、それで私が怖がると思うの?心配しないで大丈夫よ。貴方だから信じているんだもの。」
「……はぁ。」
諦めたようにため息を吐いて、アベルは鞄を膝の上に置いた。
中から取り出したケースは鞄とほぼ同じ大きさで、パチリと開かれ私の方へ向けられる。格子状に区分けされた中に一つずつ、小さな水晶が入っていた。
いくつかは小さなメモも添えられている。「チェスター」「リビー」「サディアス」…名前の横に丸が書いてある物と、無い物があるわ。ただの白紙も、丸だけ書いた紙も。
「これは?」
「実験用に持ってきた。君にも協力してもらいたい」
魔法の事で相談があると言っていた件だろう。
アベルは何もメモがない水晶をひとつ、私の手のひらに落とす。
「それに魔力を込めてくれる?」
「魔力を?」
「身体強化と似たようなイメージで大丈夫だよ。」
「…やってみるわね。」
物に魔力を流すなんて初めての試みだ。
私はきちんと見えるように、片方の手のひらに置いた水晶を、反対の手の親指と人差し指で固定する。手のひらにぼんやり集めた魔力を、続けて水晶へ向けて流していく。
十秒もせずに、私は眉を下げてしまった。
「流してはみたけれど、わからないわね。自分の身体じゃないから、どこまで魔力が行き渡ったのか…」
「それでいい。」
アベルが差し出した手に水晶を戻すと、新たにもう一つ渡された。
「こっちは、魔力を流す時に祈ってみてほしい。これを身に付けた者が守られるように。」
「お守り…ということ?」
「そう。」
言われるがまま、私は先程と同じように水晶と向き合った。
じっと見下ろして、魔力を流す。
――どうか、これを持つ人が守られますように。
相変わらず感覚が掴めないけれど、魔力が少し減ってはいるから、流せている…と思う。アベルに返却すると、彼はそれぞれに私の名前を書いたメモをつけた。お守りにした方が丸付きらしい。
「ロイさんのは無いのね。」
「あれは勘が鋭いから駄目だ。チェスター達は他言無用と言えば守るし、僕が黙っている事をあえて探ろうとはしない。」
「どういった実験なの?」
「…僕が、ロイとリビーにペンダントを贈った事は知ってるよね。」
ケースを閉じて、アベルが私を見る。
アベルがリビーさんと恋人だとか、ロイさんとリビーさんが結婚するだとか、色々な勘違いを巻き起こしていた物だ。私は頷いた。
「実はあれを贈る時――さして意味はなかったんだけど、二人の無事を祈って魔力を流した。」
「……効果があったのね?」
無意識に少し目を見開いて聞くと、アベルは頷いた。
リビーさんが火の魔法に襲われた時は、水の魔法。ロイさんが闇の魔法に襲われた時は、光の魔法。それぞれアベルの意思とは関係なく発動したと思われるそうだ。
「何者かが潜んでいてやった…とは考えにくい状況でね。」
「本当に守られるのであれば、すごい発見だわ。」
「そう……だけど僕の魔力固有の物なら、公表はできない。」
「だから実験をするという事ね。」
ふむふむと頷く私の前で、ケースが鞄にしまい直される。アベルは紅茶の残りを飲み干して、カップを置いた。
「ご馳走様。それじゃ――」
「ちょっと待って。」
立ち上がろうとしたアベルのコートを掴んで、私は疑問符を浮かべた彼を見上げる。
「まさかとは思うけれど、一人で実験するつもりなの?」
「……まさかとは思うけど、見るつもりでいたの?」
「だ、だってそんなの、気になるに決まってるじゃない!どこでやるの?」
「山の中。」
貴方が魔法の鍛錬をするところね!?
「私も行」
「駄目に決まってるでしょ。」
否定が早過ぎるのではないかしら。せめて言い終えるまで待ってほしい。
窓の額縁で片膝をついて、アベルは部屋をちらりと見回した。浮かんでいた火が消えていき、換気用に少し開いていた他の窓が閉まっていく。
メリルがくれたランタンの明かりだけになった。それももうじきオイルが切れるだろう。
「今からやるんだ、君は寝るといい。」
「じゅ…いえ、五分だけ待って。外着になるから。」
「おい。」
アベルの声を背に、いそいそとベッドを降りた。
静かに移動できるよう足運びに気を付けて、ローブを脱ぎながらウォークインクローゼットへ走る。中へ入る前に振り返ると、アベルは部屋に背を向けるようにして額縁に座っていた。壁に寄りかかっているあたり、私への呆れが窺える。思わず小さく微笑んで、クローゼットの扉を閉めた。
光の魔法でクローゼットの中をほのかに照らし、私は着替えを終わらせた。
ズボンの上からミドル丈のブーツを履いて、フリルブラウスの上からニットカーディガンとコートを着込む。髪は低い位置で縛って身体の前側へ流した。
「着替えてきたわ!」
「うん……当然夜明け前には戻るけど、念のため書置きくらいはしといてくれるかな。」
説得を諦めてテンションの低いアベルが、こちらに背を向けたまま言う。
私は元気よく返事をして、机に「散歩してきます シャロン」とメモを残しておいた。ティーセットをサイドテーブルへ片付けて、額縁に敷いていた絨毯をベッド脇へ下ろす。
靴裏がつかないようベッドの上を膝立ちで進み、顔を上げた。
両側とも全開になった窓。
額縁のギリギリに足を置いて、アベルが手を差し出してくれている。その後ろには紺色の空と輝く星々が見えた。私は手を伸ばし、引っ張られるままに額縁に足をかけて立ち上がる。
とん、と一歩だけたたらを踏んだ。
「一度屋根に上がる。」
腰に腕を回されて、私は短く返事をしながらアベルにしがみついた。
身体がふわりと浮き上がって、すごい、と思った時にはもう、屋根に足がついている。部屋の窓が閉まる音がした。
屋根は斜めだけれど、走ったりしなければ転げ落ちる事もないだろう。私はアベルの袖をちょんと握って、辺りを見回した。
「我が家と言えど、屋根の上は初めてかもしれないわ。」
「そうだろうね。」
ちょっと駆けまわってみたい気もするけれど、さすがに危ないし誰か起こしてしまうといけない。我慢して、街並みや悠然たるお城、これから行く山を眺める。
そんな私を見やって、アベルはため息を吐いた。
「どうしたの?」
「……どうしたも何も、接触を控えるという話の直後でしょ。」
「ふふ、そうね。だけど、誰からも見えないようにしてくれるのでしょう?」
アベルがぴくりと片眉を上げる。
私は微笑んで手を差し出した。涼やかな夜風が頬を撫でていく。
「貴方、私を攫ってくれないかしら?」
僅かに目を丸くしたアベルは、一度瞬くと小さく息を吐いて、仕方ないなと言うように口角を上げた。私の手を取って、引き寄せる。あの日のように。
「では、ご令嬢をお借りする。」
アベルが軽く屈んで、私は彼の首の後ろへ腕を回す。体が持ち上げられると、そのままぴったり寄り添った。何の言葉もなしにふわりと浮き上がって、私達は空を飛んでいく。
「懐かしいな」
視線は前へ向けたまま、アベルがぽつりと呟いた。
「もう随分前の事のように思える。」
「半年ほど経ったわね。あの時はまだ、貴方がここまで近いひとになるとは思ってなかったわ。」
「……同感だね。」
元から助けたい相手ではあったけれど、守りたい人ではあったけれど。
いなくならないでほしいと願う気持ちは、今の方がずっと大きい。
「私、少しは強くなれたかしら?」
前世の記憶を得てから、鍛錬に励んできた。
魔法はまだ一人で飛べないけれど、姿も隠せないけれど、水と治癒は少し扱える。体術もレナルド先生が笑ってくれるくらいにはできるし、剣術も投げナイフも、少なくとも素人の大人よりはできるはず。
決して驕ってはいけないけれど、前に進めてはいるはずだ。
「少しはね。」
「難しい時は、貴方を頼ってもいい?」
「…暴走されるよりはいい。」
「ふふ」
女神祭の時は自分から、「少しは頼れ」と言ってくれたのに。
回した腕に力を込め、私はこっそりと彼を抱きしめた。
「ありがとう、アベル。」
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