161.誤解というのは
火の魔法が自在に使えたらよかった。
眠りにつくまでの間、私が暖をとれるようにと、メリルは魔法の火を灯したランタンを置いて行ってくれた。それを自分ではなくティーセットのすぐ傍に置いて、私はベッドに面した部屋の窓を一つ、開けている。
冷たい風が吹き込んでくるけれど、冬用のネグリジェの上から厚手のローブを着ているし、脚もタイツを履いておいたので防寒はそれなりだ。
これからやって来る人のために、窓の額縁にはふわふわの絨毯を敷いてある。
そこに頬杖をついて、少しだけ雲のかかった星空を見上げた。今日も星々は美しく輝いている。
トン、と屋根の方から着地音がした。
「アベル?」
「あぁ。」
私の小声に対して、短く言葉が返ってくる。
大人しく少し身を引いておくと、外側に開いた窓の縁に片手をついて、濃紺のコートを着たアベルが慣れた様子で下りてきた。前を留めてないけど寒くないのかしら。内側はシャツにベスト。ネクタイはないしジャケットも着ていない。ズボンの生地が冬用と見て少し安堵した。
珍しく肩掛け鞄など持っているけれど中身はなんだろう。小さく息を吐いて、アベルは私を見下ろした。
「悪い。窓は閉めていて良いと、先に言っておけばよかったね。」
金色の瞳が私の部屋をちらりと見回すと、空中に小さな火の玉がぽぽぽ、と浮かんでいく。カチカチ、と窓の鍵が勝手に開き、僅かずつ開いていった。暖房と換気だろう。
「ありがとう、アベル。暖かい格好をしていたから、大丈夫よ。」
心遣いが嬉しくてつい顔がほころんでしまう。
私はサイドテーブルに置いていたティーセットで紅茶を準備して、トレイごと額縁に乗せた。いつものように腰かけたアベルは絨毯を手で触り、ぱちぱちと瞬きする。
「…来る度に待遇がよくなっている…。」
「大事なお客様だもの。」
「公爵が知ったら剣を取りかねないけどね。」
「まぁ。貴方とお父様なんて、どうなるのか想像つかないわ。…どうぞ。」
「ありがとう。」
砂糖の溶けた紅茶をアベルに渡して、私は自分のカップを両手で包んだ。手袋まではしていなかったから、ほどよい暖かさにほっとする。一口こくりと飲み込めば、熱がじわりと身体に染み込む心地がした。
カップをソーサーに置くと、アベルがこちらを見ているのに気付く。
「真面目に聞くんだけどさ。」
「なぁに?」
「君……僕に口説かれたと思った事ある?」
平然とそんな事を聞かれて、一瞬、聞き間違いかしら、と考えた。
あまりにもアベルに合わない言葉だったので、答えるまで数秒かかってしまった。
「ないわ。だって…っふふ。貴方、私を口説こうとした事なんて、ないでしょう?」
思わずくすくす笑ってしまう。
何がどうしてそんな質問をするに至ったのかしら。アベルは当然の回答を得たかのように頷いている。
「ならいいんだ。何も問題ない。」
「誰かに言われたの?」
「君の父親に、口説くような事を言ってると指摘されてね。」
「お父様に?」
きょとりと目を丸くした。口説くような事……はて、何かあったかしら。
舞踏会の時、お父様の様子が少しおかしかったからあの時に?
アベルは難しい顔で腕組みをした。
「正直…君の言い方のほうがだいぶ語弊があったと思うけど。」
「そうなの?確かに以前、サディアスにも…誤解を招く発言が多いと言われた事があるわね。」
「……気を付けなよ、本当に。」
「わ、わかったわ。でも、どの言葉にどんな語弊があったのかしら。」
膝の上に手を置いて、きちんと聞く姿勢でアベルを見つめる。
カップを傾けたところだった彼は、一口飲んで紅茶を置いてから、私を見た。数秒、黙って見つめ合う。
「………、言えと?」
「そうね。気を付ける以上は、何か指針があると助かるのだけれど…」
「とりあえず、ウィルと二人で話すような事は…他の人に言わない方がいいんじゃない。」
「ウィルと話す事…」
二人で、となると思い出話かしら。
たとえば……ある日、木登りできる?と聞いてみたら、ウィルはあっという間に高く登ってしまって。メリルがちょっと離れていたのをいい事に、「私も!」なんて。
ウィルは「降りるから君はそこにいて」って焦っていたけれど、彼が降りてからも私は挑戦して、でも全然上手くいかなくって、あちこちひっかかったワンピースがほつれだらけに…。
思い出から現実へ視線を戻すと、アベルがこちらをじっと見つめていた。大人びた冷静さのある彼にそうされると、記憶の中の自分が恥ずかしく思えてくる。じわりと顔が熱くなって、目をそらした。
「……君とどんな話をしてるかなんて、わざわざ聞いた事はないから。安心しなよ」
「そ…そうね、ウィルは言いふらしたりしないもの……。」
――いえ、待って?
ウィルとの思い出話なんて、最近誰かにしたかしら。誤解を招く発言は控えようという話ではなかった?
私は頬に指先をあてて、少し首を傾げる。
「えぇとつまり、誤解というのは……?」
「だから、君とそういう…親密な関係だと思われたら、困るでしょ。」
そこまで言わないとわからないのかとばかり、アベルは眉根を寄せている。
幼馴染くらい親密だと思われるのはよろしくない、と?もう少しよそよそしく話せという事だろうか。せっかく仲良くなれたのに、それも少し寂しい気がする。眉が下がってしまう。
「仲良しでいるのは、だめかしら……。」
「…君からしたら僕は弟みたいなものだろうけど、周りがそれを理解してるわけじゃない。」
諭すように言うアベルをじっと見つめた。
貴方は確かにウィルの弟だけれど、私と並べて兄弟で表すなら兄では?誕生日も先なのだし。
「…何か不服でも?」
「どちらかと言えば兄のようだわと思って……あ!それとも私、貴方にとって《お姉さん》かしら?」
だとしたら少し嬉しいかもしれない。
誇らしい気持ちでつい照れ笑いしたけれど、アベルは目を細めて全くピンとこない顔をしている。……それはそれでちょっぴり悲しいわね。はしゃいだ気持ちがあっという間にしおれていく。私はしょんもりと視線を落とした。
「では…やはり、手のかかる妹というところでしょうか……。」
「僕がどう思うかは関係なく、単に将来……とにかく、大勢に誤解されるようではよくない。」
いわく、舞踏会以降、私達について噂する人が増えたらしい。
割と色んな方と踊ったはずだけれど、一番最初にペアを組んだせいかしら。パートナーに選ばれたのはあくまで、私が公爵家の娘だからなのに。
……なんて言ったところで、噂が好きな方々には通用しないわね。
「そういえば、クリスも少し誤解していたの。」
「あの子が?」
私は頷いた。
先日アベルが庭に来てくれた時、私がチェスターと、アベルがどなたか女性と出かけると知って、クリスは走り去ってしまった。後で理由を聞いたのだ。
「私と貴方が、そのうち婚約する間柄だと思っていたんですって。」
「……何でまた。彼の前でそれらしい言動をした覚えがないんだけど、ウィルはどうしたの。」
疑問ももっともだ。
お友達歴はウィルの方がずっと長いものね。私は紅茶で喉を潤してから、そうね、と呟いた。
「あの子は貴方に憧れているから、お兄さんになってほしかったんだと思うわ。否定したらすごく落ち込んでしまって……」
侍女のチェルシーが「これからに期待しましょう」なんて、励ましていたけれど。私は苦笑いでそっと退室するしかなかった。可愛いクリスに追い打ちはかけたくない。
アベルが持ち上げたカップから、湯気が細く揺らめいて消えていく。
「難しいわね。」
「……難しいというか、無理でしょ。僕も妃をとるつもりはないし。」
カップがソーサーに触れる、ごく僅かな音がした。
持ち手から離れた指を引き留めるように手を重ねて、私はアベルを見上げる。貴方にその気がない事くらい、ちゃんとわかっているわ。でも。
「それでもいいから、私達と一緒にいてね。」
ウィルが望んでくれたように、私が望んでいるように。
クリスだって、チェスターだって、サディアスだって……皆、貴方が大好きなのだから。
「いなくなったりしたら、皆で地の果てまで探します。」
「…それはやめろ。」
アベルが眉を顰めて言う。
死んでしまったウィルのために国を守ろうとした貴方が、ウィルを庇って死んでしまった貴方が、カレン以外……誰とも未来を歩もうとしなかった貴方が。
自分がいなくなる方が良いと言って、いつ、どこへ消えてしまうつもりなのか……私にはわからない。
諦めるつもりはないけれど、ねぇ、アベル。
「貴方も少しくらい、皆との未来を考えてくれないかしら。」
「…それは……」
僅かに眉を下げ、アベルは苦い顔で目をそらした。
重ねていた私の手を、壊れ物に触れるように優しく押し留めて、離す。
「話を戻すけど、」
「えっ。」
「君はよく手に触れるでしょ。前もその癖は直した方がいいと言ったはずだし、今後特に控えるように気を付けてくれるかな。これ以上噂されても互いに迷惑――」
がし、とアベルの腕を掴んだ。
抗議の視線を向けると、自然に眉根が寄ってしまう。驚いたようにこちらを見たアベルが、すぐ冷静さを取り戻して不満を目に表した。
「貴方今《それは》って言ったでしょう、言いかけたのなら最後まで。何を言おうとしたの?」
「《それはさておき》。これでいい?」
「誤魔化していない?もし《それはできない》と言うつもりだったなら、ちゃんと理由を――」
「シャロン、離せ。」
ピリ、と張り詰めた空気を感じ取って、私は口を噤む。
緩んだ手から腕が離れた。
「次に会うのはジェニー嬢の快気祝いだろう。僕が君をエスコートする事はないから、君も間違っても僕に触れないように。」
「…わかったわ。」
どうしても、言い直してはくれないみたい。
渋々頷いた私を、アベルは疑わしげに眺めている。
「君、本当にわかった?以前注意してからあまり変わっていない気がする。」
「一応気を付けているのだけれど……チェスターと一緒に牢を出られた時とか、サディアスに魔法を教わった時…狩猟の後、皆が無事だった時……」
私は顎に軽く手をあてて首を捻り、記憶を引き出していく。
嬉しかった時、ほっとした時、手をぎゅっとして喜びを分かち合いたい時、ちゃんと我慢を…
「あぁでも、舞踏会の直前にウィルと会った時は、手を重ねてしまったわね。」
「ウィルはいいよ。」
えっ、どうしてそこだけ?




