157.喫茶《都忘れ》
くぁ、と欠伸をして三白眼に涙を滲ませながら、ダンは灰色の短髪をがしがし掻いた。
午後二時過ぎ――昼寝にはちょうどいい時間だ。
大きな広場の真ん中には噴水があり、女神像が設置されている。祭を終えた今は装飾の布も外され、彼女達が立つ台座から水が流れ出ているだけだ。それでも、毎日新鮮な花を水に浮かべるのは周辺住民の習慣になっているらしい。
「ふふ。眠たいですか?」
「ったり前だろ…」
くすりと笑ったのは少年用のコートに身を包んだシャロンだ。
薄紫色の髪は結い上げてキャスケットの中に隠し、コートの体幹部分には防寒も兼ねて体型をごまかす詰め物が入っている。さらに丸いサングラスまでかけ、本人いわく「完璧な」変装らしい。
下町と違って洒落たデザインのベンチに並んで座り、道行く人を眺めている。
「こんな時間で、仕事もねぇんじゃ眠くもなるわ。」
「僕の護衛中でしょう?」
「今はヒマだろーが。」
「彼が来たら移動しますから、もう少し待ってくださいね。」
シャロンの言葉に「んん」と唸り声だけ返し、ダンは気だるげに首を回した。
今日は黒のジャケットを着ているが前は開けっぱなしで、シャツのボタンも二つ開いている。ネクタイは屋敷を出てからすぐに外し、ポケットに突っ込んでいた。メリル達から小言をもらわなければそれでいいのだ。
シャロンがチェスターと出かけるにあたって、父のエリオットや侍女のメリルはだいぶ渋い顔をした。護衛はダンだけにすると言ったからだ。
しかしカレンと会った時と違い立ち話で終わるわけでもなし、シャロンは大人数をぞろぞろ引き連れて行くつもりはない。女神祭の夜には確かに襲われたが、首謀者のナディア・ワイラー子爵令嬢は既に捕縛され、その父である子爵は娘の非を認め爵位を返上、裁判が終わるまでは騎士が見張りにつく事になっていた。
最終的には母ディアドラの鶴の一声で許可が出て、現在に至る。
「ごめん、待たせちゃったね。」
待ち人の声に二人がそちらを見ると、ダンと同い歳くらいだろう少年が立っていた。
紺色の髪は肩につく程度の長さで外側へ跳ねており、優しそうな垂れ目の中には見慣れた茶色の瞳がある。頭に乗せた中折れ帽やコート、ブーツまで、シャツ以外は全て暗色でまとめ、シックな装いだ。
「ま……ど、こんにちは!」
まぁ、どうしたのその髪は――と言いそうになり、シャロンはつっかえながら立ち上がった。ダンは座ったまま顎に手をあて、口を半開きにして首を傾げている。
「こんにちは。俺の方が早いかと思ったんだけど…君を相手に、甘い考えだったかな。」
眉を下げて苦笑いする表情も声もチェスターのものだが、色合いが違うだけでだいぶ別人のように見えていた。
シャロンは慌てて首を横に振る。待ち合わせた時刻まではまだ十五分ほどあるのだ。
「ここで少しゆっくりしてみたかったので、あえて早めに来たんです。気にしないでください。」
「そうだったんだ。もう少しいる?」
「いえ、大丈夫です。……その髪はどうしたんです?」
道行く人にも届かないよう声を潜めて聞くと、チェスターは悪戯っぽくウインクして小声で返した。
「何てことない、ただのウィッグだよ。はは、どう?」
「えぇ、見違えました。」
「よく正反対だって言われるからさ、サディアス君をイメージしてみたんだ。」
「なるほど…」
「伊達メガネもあるよ☆」
至極楽しそうにコートの内側に手を入れ、チェスターは細い楕円形のフレームがついた眼鏡をかける。サディアスをイメージしたなど、本人が知ったらひどく不機嫌になりそうだ。シャロンが思わず顔をほころばせたのを見て優しく目を細め、チェスターはダンを振り返る。
「ダン君も今日はよろしくね。怪我、大丈夫だった?」
「もう治ってる。で、どこ行くんだよ。」
面倒そうに眉を顰め、ようやく立ち上がったダンが軽く辺りを見回した。
広場を待ち合わせに使う事は珍しくない。三人にわざわざ目を留めるような人はいないようだ。
「馴染みの喫茶店があるんだよね。予約しておいたから、そこに。」
チェスターの案内で歩くこと数分。
着いたのは煉瓦造りの二階建てで、扉の上には「喫茶 都忘れ」の看板がかけられていた。壁に沿って小さな花壇が作られ、色とりどりのパンジーが花を咲かせている。
「到着!ここがね、二階が良い感じの個室になってて――」
チェスターがそう言いながら入口へ近付こうとした時、店の扉が勝手に開いた。
カラン、と鈴の音が鳴る。
中から出てきたのは、後ろ襟を掴み上げられている男だった。宙に浮いた足で背後にいる人物を蹴るか、あるいは襟を掴む手を何とか剥がせないかともがいている。
ダンは反射的にシャロンを下がらせ、チェスターも入口から一歩距離を取った。
「ちくしょう、離せこのアマ!!」
「ご…ごめんなさいっ!」
場違いなほど気弱な声が響き、男がポイと店先数メートルの地点に放り投げられる。
彼を掴み上げていたのは女性だったらしい。
二十代前半だろうか、百八十五センチはある長身に、涙で潤んだ灰色の瞳。緋色の髪は耳の前だけ肩まで垂らし、後ろ髪はお団子に結ってシニヨン・キャップで覆っている。一目でウェイトレスとわかる白いエプロンに、黒い長袖ブラウスとロングスカートという格好だった。
「は、離しました!」
「いてぇんだよ!こんな店二度と来るか!!」
「えっ…ありがとうございます、助かります!」
「何だとこの…ッ!」
男はさらに食ってかかろうとしたが、周囲の視線を集めていると気付いて舌打ちし、苛立った様子で立ち去った。顔が赤く酒の匂いがしたので、昼間から飲んだくれていたのだろう。
ほっと胸を撫でおろしたウェイトレスが、軽く手を挙げたチェスターに気付いて目を見開く。
「す、すみません!お客様ですね、いらっしゃいませ!」
ぺこぺこと頭を下げる彼女に促され、三人は店に入った。
中は木造で落ち着いた雰囲気になっており、カウンター席が五つ、二人席が三つに四人席二つとそれなりに広さがある。まばらにいる客達も今の騒ぎを見ていたのだろう、こちらに向いていた視線が散っていった。
「いらっしゃいませ。」
カウンターの中から三人に声をかけたのは、濃い紫色の髪をした男性だ。
真っ直ぐに伸びた前髪は目元をきっちり覆い隠し、後ろ髪は前から見えないほど短く切られている。一見して判断しづらいが、声や首周りを見るに、まだ三十歳には届いていないだろう。
「おや…」
彼は少し驚いたように呟き、唇を微笑みの形にする。
「ワンダ、個室をご予約のお客様だ。案内を。」
「あぇ……?わ、わかりました、テオさん。」
ウェイトレスは三人とカウンターの男性とをキョロキョロ見比べ、入口のすぐ横にある階段を手で示して上り始めた。後に続きながら、シャロンはサングラスを外してケースに入れ、コートのポケットにしまう。
二階の廊下の角を曲がると、個室と思しき扉が二つあった。
ウェイトレスは手前側の扉を開いて三人を中へ通した。ローテーブルを挟んで三人掛けのソファが向かい合わせに置かれている。奥の壁際には戸棚を乗せた台が鎮座していた。
「こちらのお部屋を、お使いください。えぇと、使い方、使い方がですね……」
「大丈夫、わかってるよ。」
「あれ?そ、そうですか?」
「ワンダちゃん、俺、チェスター。わかる?」
チェスターが伊達眼鏡を外して苦笑すると、ワンダと呼ばれたウェイトレスはあんぐりと大口を開けて彼を凝視した。お嬢の拳くらいなら二個は詰め込めるかもしれない、とダンは考える。
「気付きませんでした……」
「はは…テオは気付いてたみたいだけど。今日はマスターは休み?」
シャロンとダンに座るよう促し、チェスターはコートを脱ぐ。
ワンダは口を半開きにしてコクコク頷いた。どうやら、先程のテオという男性が店主ではないらしい。
「そっか。注文は後で送るね。案内ありがとう。」
「はい。隣は今日使う予定がありませんので、その、ごゆっくりどうぞ。」
部屋の入口に立ってお腹の前に両手を揃え、ワンダは丁寧にお辞儀をしてから出て行った。
扉が閉じてからシャロンはコートを脱いでキャスケットを取り、ダンがそれを横から取って入口横のコートハンガーにかける。チェスターが帽子とコートを持って近付くと、ダンは黙って手を差し出した。チェスターは驚いたように瞬いてから「ありがとう」と笑って渡す。
「シャロンちゃん、何にする?」
聞かれて、シャロンはテーブルに置かれていたメニューを見つめた。果実のジュース、紅茶やコーヒーの他に、サンドイッチやクッキーなどもあるようだ。
「そうね…ではセイロンティーを、ミルク付きで。ダン、貴方は?」
「あぁ?」
俺も頼むのかよ、とでも言いたげに眉を跳ね上げ、ダンはシャロンが差し出したメニューを取って彼女の隣に腰かけた。
通常、主人とその友人が茶会をする時、使用人が同じ席に着けるわけがない。しかし今日は単なる護衛ではなく、「協力してほしい事がある」と言われての同行だ。話に加われという意味だと受け取って、ダンは大人しく飲み物を選んだ。
「コーヒーでいい。…チェスターだっけか。あんたは?」
「ダージリンでいっかな。ダン君、ミルクいる?」
「いる。」
「はいはいっと。じゃあ、それで注文しちゃうね。」
チェスターはテーブルの隅に置かれていた紙束から一枚取り、横にあったペンで注文を書きつけた。それを一階に持って行くのだろうかと見守るシャロンの前で、立ち上がって部屋の奥にある戸棚を開ける。何も入っていないそこに、チェスターは注文を書いた紙をぺたりと置いて戸を閉じた。
「何してんだ?」
「これ、絡繰りになってるんだよ。」
ダンの質問にそう返して、チェスターは戸棚の側面にあるボタンを押し込む。
カタカタカタ、とどこからか小さく音が聞こえてきた。チェスターはもう手を離しているのに音は続いて、やがて止まる。
「今ので下のカウンターに届いたから。」
「そうなの?」
「うん。それでテオ…カウンターにいた人が中身入れて操作してくれるから、頼んだ物が上がってくる。」
「すげーな…。」
ダンが素直な感想を零し、シャロンも興味深そうに戸棚を見やる。
当然ながら普通の喫茶店にこんな装置はない。
「それじゃ…本題に入ろうか?」
シャロンの目を真っ直ぐに見つめ、チェスターは薄く微笑んだ。




