155.義弟にはなるけれど
「しあわせー!」
輝くような笑顔を浮かべ、クリスは大きく両手を広げて庭を駆けている。
一週間筋肉痛に苦しんでいたので無理もない。私は口の横に手を添え、少しだけ大きな声を出した。
「転ばないように気を付けるのよ。」
「うん!だいじょうぶ!」
クリスはこちらを振り返らずに答えて、広い庭の奥へ奥へと駆けて行く。お団子に結った亜麻色の髪を揺らし、侍女のチェルシーがつかず離れずの距離を保って後を追っていた。
私は厚手のジャケットを着て、足首まであるプリーツスカートに、タイツとショート丈のブーツを履いていた。庭に出るくらいなら充分暖かい。
花壇の前で立ち止まり、目を細めて二人を見つめる。
「…よかった、元気になって。」
「そうだね。」
「大きくなるまで、スキルを使うのは控えさせないといけないわね。どこまで再現できているのかわからないけれど、貴方と同じ力なんて負担が――…」
はて。
私は瞬いた。「貴方」?
今聞こえた声は、明らかにメリルのものではない。
「さすがに、僕とまったく同じではないと思うけどね。」
声の方を振り返ると、黒地に銀ボタンのコートを羽織った第二王子殿下が立っている。内側はジャケット無しに、シャツとベストだけのようだった。
下町へ行く時とは違いズボンや革靴に至るまでそれなりの仕立てで、群青のネクタイにシルバーのネクタイピンをつけ、リボンを巻いた帽子までかぶっている。どこかへ出かけるのかしら…ではなくて。ちょっと待って。
金色の瞳は考え込むようにクリスを見ている。
「全力を見せた事もないし、あの子が想像する僕の強さ…という所なのかな。」
「貴方、いつ来たの?」
「今。」
ようやく私に視線を寄こして、アベルはさらりと言った。
どうしてそう平然としているのだろう。こちらが驚いている事に気付いてほしい。来てくれる分には構わないから…まぁ、いいのだけれど。
つい花壇の奥にある高い柵を見上げると、アベルは今日は正門から来たと言った。
「普段から、正門を通ってもらって構わないのよ?」
「執事がいなければね。今日は公爵と一緒に城へ行ってるでしょ。」
「えぇ。」
お父様の執事、ランドルフ。
彼は闇を最適とする魔力持ちで、そのスキルは盗聴に関連するものだと聞いている。チェスターやアベルが接触を避けるのはそれが理由だ。
貴方達を相手にそんな事しないわと言いたいものの、絶対にないとは正直言いきれない。
「……で、あれはどこにあるの。」
アベルが私を見て聞いた。
突然だったから一瞬考えたけれど、すぐに微笑んで「こっちよ」と彼の袖を引く。昼に会えたら案内すると言ったものね。
花壇の一角にちょこちょこと生えているのは、まだ葉っぱだけ。
細かな毛がついた長い楕円形の葉は、土の上で茎を中心に、互いが重ならないように広がっている。私達はその前に屈んだ。
アベルは手を伸ばし、指先でちょんと葉っぱに触れる。
「咲くのは三月になると言ってたけど、どんな花が?」
「あら、知らなかったかしら。」
「買った時は、何の種かまで気にしてなかったしね。」
言われて、確かにそうかと納得した。
持ち帰った私と違って、アベルは種の入った包みを見返す機会がなかったものね。
「では、咲くまでのお楽しみにしましょうか。」
「いいけど、見てもわかるかは知らないよ。毒草や薬草ならまだしも、花は詳しくない。どこぞの国花なら別だけど。」
「確か、これを国花にしている国はなかったと思うわ。名前がわからない時は私が教えるわね。」
「あぁ。」
葉っぱに目を落としたままのアベルの横顔を見ていると、その奥二十メートルほど離れたところ、屋敷の傍に立っているメリルと目が合った。
つい今まで顔をしかめていたらしい彼女は、途端に「大丈夫ですか?」とぱくぱく口を動かして心配そうに眉を下げる。どうしたのだろう。つい首が傾く。
「僕が君を泣かせたから、警戒してるんじゃないの。」
「えっ?」
言われた意味がわからなくて聞き返した。
アベルが立ち上がって手を差し出してくれたので、ありがたく支えにして私も立つ。今日は肌寒いせいか、彼の手は少しひんやりしていた。
自然に離れようとした手を、私は軽く握ったままにする。アベルの瞳が私に向いた。
「泣かせただなんて、いつの話?」
「直近では祭の時かな。君を泣かせたら、彼女は僕を叩いて良い事になってる。」
「……待って、頭が追い付かないわ。いつの間にそんな約束を?」
聞きながらもう片方の手も添えて、指先が特に冷えてるみたいと頭の片隅で考える。
アベルは視線で花壇を示した。
「それの種を買った日。」
「だいぶ前じゃない…全然知らなかった。」
「言ってないからね。」
「もう……。」
本人を差し置いて何という約束をしているのか。
私は目を落とし、クリスにやるのと同じように彼の指先を手のひらで包んだ。少しは熱が戻ると思う。さっきまで屋内にいた私の方がまだ温かいから。
「叩くだなんてとんでもないわ。あの時泣いてしまったのは…緊張が解けたからで、貴方のせいじゃないでしょう。」
本当はイドナの正体に気付いたからだけど、言えるはずもないのでそういう事にしておく。
アベルは胸を貸してくれて、クリスを駐屯所の側まで背負ってくれた。露店の方に勘違いされた時は彼も「僕が泣かせたわけではない」と言っていたはずなのに、いつの間に泣かせたなんて認識になったのかしら。
『……君は幸せになれるから、心配しなくていい。』
あの一言だけは、ちょっとそれなりに…結構、だいぶ悲しかったけれどね?それに関しては言いたい事も伝えたし……そういえば、それで少し怒っていた時に、メリルが「一、二度頬を張るのもいいと思います」なんて言っていたわね。私も手伝いますとかなんとか。
泣いたかどうか聞かれたのも、アベルのせいだと思い込んでの事だったのかしら。後でちゃんと言わないと。
「誤解は解いておくわね。」
されるがままの手を、少しずつ位置をずらしながらそっと握っていく。ひやりとしていた指先に少し温もりが戻ってきた。
よかった、と思いながら視線を上げると、同じように手から私へ視線を移したらしいアベルと目が合う。
「………何をしてるか聞いても?」
「何って…少し冷えていたから、温かくなるようにと思って。」
反対の手もどうぞ、と促すように片手を広げたけれど、アベルは困惑した様子でゆっくりと手を引き抜いた。私から目をそらし、ズボンのポケットに指先を入れるようにして腰に手をあてる。
「…お前の手が冷えるだろう。いや、そもそも……。」
「冬は、クリスもよく手を冷やすの。手袋をするのがあまり好きじゃないみたい。」
困ったものねと笑いながら視線を流すと、遠くから駆け戻ってくる弟の姿が目に入る。こちらに向かって笑顔で大きく手を振って、あぁ、私の隣に誰がいるか気付いたかしら。私も小さく手を振り返した。
「……僕は君の弟じゃな」
「でんかー!!」
クリスが銀色の瞳をきらきら輝かせて突進してくる。
庭を走り回ったせいか頬が赤らんでいて可愛らしい。私がにこにこと見守る前で、アベルは見事に突撃を受け止めた。
「こんにちはっ!」
「こんにちは。元気そうだね。」
「はい!たくさんやすんだから、げんきになりました!」
一歩離れたクリスの銀髪を、アベルがくしゃりと撫でる。
脇腹を押さえたチェルシーもヒィヒィ言いながら戻ってきた。お水か何かあげてほしいとメリルに視線で訴えておく。
「ぼく、いままでおうじさまってよんでましたけど…これから、アベルでんかってよん…およびしても、いいですか?」
「いいよ。」
「ありがとう!…ございます。えへへ。」
クリスが嬉しそうに笑う。見ているこちらまで幸せになるような笑顔だわ。つい目を細めてしまう。ほのぼのした心地でいたのもつかの間、爆弾のような言葉が聞こえてきた。
「ふくもぬいでくれますか?」
「は?」
「どっ、どれくらい鍛えているかがね、知りたいんですって。」
私は慌ててクリスの肩に手を置き、「ね」と首を傾ける。クリスが元気よく「はい!」と答えた。確信はしていたもののちょっと安心する。アベルは納得した様子で一つ頷いた。
「なるほど。さすがに脱げはしないけど、腕でよければ触っていいよ。」
「ほんとですか!」
クリスは喜んでお礼を言うと、差し出された腕をシャツの上からぺたぺた触った。おぉー、なんて呟いたまま、可愛いお口が半開きになってしまっている。
アベルを見上げる銀色の瞳には憧れと尊敬が表れていて、私は少しだけ、親指の爪を噛むような心地だ。私も日々鍛錬に励んでいるというのに、なかなか身体が筋肉質にならない。二の腕など、弱々しくふにふにしたままである。悲しい。
「どうしたらでんかみたいになれますか?」
一通り触った後で手を離し、クリスが聞く。アベルはじっとクリスを見下ろした。
「…すぐには無理だから、地道に鍛えるしかない。」
「あねうえがしてるみたいに?」
「それよりも多くやる必要があるけど、君は公爵家の跡取りだ。学ぶ事を疎かにはしないようにね。」
「う……はい。」
しゅんと項垂れてしまった弟の頭をそっと撫でた。
クリスが入学するのはまだまだ先だけれど、来年になったら家庭教師から受ける授業が一気に増える。私と違って、武術の授業も元から組み込まれているはずだ。
「ぼく…がんばります。」
顔を上げたクリスは、アベルを真っすぐに見つめて言う。きゅっと眉を寄せた凛々しい表情を見ていると、私達が卒業して戻ってくる頃には、どれくらい頼もしくなっているかしらと楽しみで仕方ない。一瞬だけで良いから今すぐ五年経たないかしら。
「うん。頑張れ」
ほんの少しだけ目を細めて、アベルはただそう言った。クリスが大きく頷いて…二人を見ていると、まだちょっぴり、泣きそうになってしまう。もう回避できた未来のはずなのに。
私は意識して明るい声を出した。
「アベル、今日はどこか行くの?それとも帰りかしら。」
「今からだ。オペラハウスで約束があってね。」
「まぁ…時間は大丈夫?」
「あぁ。」
オペラという事は、もしかすると以前言っていた《他のご令嬢》に会うのかもしれない。
気になる。どなたなのかとても気になるけれど、その時も教えてはもらえなかったし、あまり詮索すべきではない…でしょうね。
「……でんか、やくそくって、おんなのひととですか?」
ぱちぱちと瞬きしたクリスが、私とアベルの顔を見比べて聞いた。アベルが事もなげに返す。
「そうだけど。」
「え…!」
クリスはどうしてか、ぴしゃん!と背景に雷が落ちたかのごとく目を見開いた。
唖然としてアベルを見つめ、私に視線を移す。何かしら。
「……あぁ!そうだわ。クリス、明後日はチェスターと出掛けるから、午後は留守にするわね。」
この散歩中に伝えておこうと思っていて、まだ言えてなかったのだった。可愛い弟はますます驚いている。
「あねうえまで…!」
「なぁに?」
「う……、な、なんでもないです!さ、さよなら!」
困り果てた顔でぺこりとアベルにお辞儀し、クリスが脱兎の如く屋敷へ駆け戻っていく。メリルからもらった水を飲んでいたチェルシーが慌てて後を追いかけた。
「…僕は、何か悪い事を言ったかな。」
「さぁ…後で聞いてみるわね。」
屋敷の側に控えたままのメリルが、片眉を上げて訝しげにアベルを見ていた。クリスが逃げるように走っていったせいかしら。また誤解が生まれている気がしてならない。
アベルが少し眉根を寄せて私を見る。
「ところで、その件はウィルも知ってるの?」
「出掛けること?……いえ、特に伝えていないけれど。」
もしかして、ウィルは明後日にここへ来る予定だったのかしら?だとしたら申し訳ない。
舞踏会の時、落ち着いたらまた寄ってくれると言っていたものね。
「君とチェスターの事は信用してるけど、妙な噂が立たないよう気をつけた方がいい。」
「そこは安心して、しっかり変装して行くわ!」
「……そう…。」
アベルは苦い顔で目を細めた。
ますます不安だという風に見えるけれど、私、信用されてる…のよね……?
ちゃんと、カレンに会う時みたいに変装を…そうだわ。一つ、彼に伝えておこうと思った事があったのだった。
胸の前で軽く両手を合わせて、私はアベルの瞳を見上げた。
「カレンとレオに聞いたのだけれど…貴方、ジークハルト殿下と一緒に二人に会ったでしょう。女神祭の…二日目、だったかしら。」
「…会ったね。」
「帰路についた殿下をカレンが見たそうなの。二人は彼が帝国の皇子だと知ったわ。一応、伝えておこうと思って。」
「わかった、ありがとう。」
アベルは懸念していた事が当たったとでも言うように、小さく息を吐いて腕を組んだ。
「案内役をするとは聞いていたけれど、下町まで行ったのね。」
「彼の希望でね。一応、最も印象に残りやすい瞳は隠してもらってたんだけど、なぜかあの子には見せていた。」
「…そうだったの。」
それでは他人の空似で済まないわけだ。
ゲームのシナリオでは絶対にまだ出会っていなかっただろう、カレンとジークハルト殿下。もしかしたらカレンが先日フードを下ろしていたのは、同じ色を持つ殿下との出会いがきっかけなのかしら。
「相談があると言った件…」
アベルが声を潜めた。
私も声量を落とすよう気を付けないと。舞踏会の日、屋上で「また夜に」と言っていた話だろう。まだ、魔法関連としか聞いていない。
「四日後の都合は?」
「大丈夫よ。」
「ではその時に。…遅くに悪い。」
「ふふ、そんな事気にしなくて大丈夫よ。貴方に会えるのはいつだって嬉しいもの。」
「……そうか。」
金色の瞳に映る私の色は小さくて、まるでアベルがくれたネックレスみたいだった。ブラウスの下に今もつけていると知ったら、貴方は驚くかしら。
きっと少しだけ困ったような顔をして、それから一度、目をそらすかもしれない。今みたいに。
つい顔がほころんでしまう。
「またね。アベル」
「…うん。またね」




