152.いずれ失われるもの ◆
『会長、一つお聞きしてもよろしいでしょうか。』
機械的に書類を捌いていたところへ声をかけられ、アベルは三時間ぶりに視線を上げた。
薄紫色の瞳と目が合うまで一秒足らず。その僅かな時間で、いるはずのない彼女がそこに立っている事への回答を探す。
休日昼間の学園、生徒会長室。
従者のサディアスが淹れてくれただろう紅茶が、すっかり湯気をなくして机に置かれている。ここ数日はコーヒーを頼んでいたのに。
しかし考えてみれば彼は今日王都へ行かせたはずで、なら誰がと記憶を辿れば、紅茶を置く細い指と心配そうな声が思い出された。
シャロン・アーチャー公爵令嬢は、にっこりと微笑みを作ってアベルを見つめている。
表情も口調も視線も声色も、そのすべてが「私、すこし怒っているのだけれど。」と言っている。アベルはひとまずペンを置き、カップに指をかけた。
『何だ。』
『貴方、いつから寝ていないのかしら。』
甘みのある冷えた紅茶が喉を流れる。
ついでに辺りを見回せば、雑に積んでいた未処理の仕事が参照用資料と共に整理されていた。
慣れた気配が部屋をうろついている事は認識していたが、些事と思って深く考えていなかった。アベルはカップをソーサーに戻し、眉間に皺を寄せる。今から小言が始まるに決まっている。
『……三日前。』
『自覚があってよかったわ。アベル、私は去年七日も徹夜した貴方をだいぶ叱ったけれど、六日までなら許しますという話ではないのよ。』
『わかってる。』
『なら休憩にしましょう。ランチタイムも過ぎてるわ。気付いていた?』
確かに腹は減ったと思いながら、アベルは壁に掛かった時計を見やった。彼女が来たのはいつだったのだろうか。インク壺に蓋をし、紅茶を飲み干して立ち上がる。上着を手にしたが、わざわざ着るのも億劫で腕にかける。
シャロンは応接用のテーブルからバスケットを取った。既に昼食は用意していたらしい。
『お前は何か食べたのか。』
アベルが聞くと、彼女は瞬いて呆れ気味に笑った。
『これからよ。…その優しさ、もう少し自分自身にも向けてほしいのだけど。』
『優しくはない。』
『ふふ。行きましょうか』
シャロンが扉の取手に触れるより先に、後ろから手を伸ばして扉を開ける。鍵を閉め、誰もいない生徒会室を二人で横切って廊下へ出た。休日だからか人の姿はない。
黙って手を差し出すと、シャロンは小首を傾げて自分の手を重ねた。アベルの足がぴたりと止まる。
『どうしたの?』
立ち止まって、シャロンが聞いた。
バスケットを持つつもりでいたアベルは、眉間に皺を寄せて彼女の手を見ている。自分の手より小さく、細く、か弱い手だった。なのに、ただ触れるだけで少し安堵する。
まだ、触れる事を許されている。
まだ、兄のためにできる事がある。
まだ、自分はここにいて良い。
今は、まだ。
『…何でもない。それを寄こせ』
『持ってくれるの?ありがとう。』
するりと手を離し、アベルはバスケットを持って歩き出す。
隣に並んだシャロンは微笑んでいたが、数秒後自分の勘違いに気付いてじわりと頬を赤らめた。動揺した時に胸元へ手をあてる事が癖になっていて、服の下に隠したネックレスに触れて心を落ち着ける。
幸いにもアベルは前を見ており、シャロンの様子には気付かなかった。
展望デッキの芝生の上、大きな樹の下にシートを広げる。
青い空に白い雲が浮かび、木陰は程よい気温に保たれていた。二人して座り、サンドイッチを齧る。涼やかな風が流れ、時折鳥の鳴き声がする。
今この場所だけを見れば、ツイーディア王国は平和だった。
しかし第一王子は殺され、憔悴した王妃は亡くなり、五公爵家の一角が喪われ、国王も疲弊している。不穏な動きを見せる国もある中で、第二王子にかけられる期待は増すばかりだ。
一足先に少ない量を食べ終えたシャロンが、紅茶の入った水筒を手に取る。
アクレイギア帝国の若き皇帝、ジークハルトが送りつけてきた試作品だ。魔法のように温度が保たれる事から「魔法瓶」と名付けられたらしい。意見を寄こせという短いメモ書きに、シャロンは丁寧に礼と感想、考察を記した手紙を返していた。
なぜそこの二人の仲が良いのか、アベルにはいまいちわからない。無意識に軽く眉を顰めた。
父帝を殺してその座を奪った事で、暴虐皇子の噂があったジークハルトはますますツイーディアの国民から恐れられている。貴婦人や貴族令嬢の中で、彼を本心から恐れずに対応できるのはシャロンだけだろう。
歴代の特務大臣を務めるアーチャー公爵家の長女。
王妃教育をそつなくこなし、学園での成績もトップクラスだ。仮に彼女が男だったなら、父親の後を継いでいた事は間違いない。既に生徒会役員としてサディアスと共にアベルを支えてくれている。
卒業次第王位を継ぐアベルの社交を補佐する存在として、これ以上ない相手だ。二人の結婚を勧める者は多く出るだろう。
――できるわけがない。
サンドイッチを咀嚼しながら、アベルは憂鬱にシャロンを見やった。
貴族の義務として彼女は了承するかもしれないが、ウィルフレッドを愛しているのに、その死から数年で弟と結婚など耐え難い苦痛だろう。アベルを傷つけないために笑顔を取り繕っても、心は拒否して涙を流すかもしれない。そんな彼女は見たくなかった。
そして誰も知らない事だが、いずれ壊れてしまうアベルと結婚する意味は無い。原因がわからない以上、欠陥を抱えた自分が子を残すべきではないのだ。
ずきりと頭が痛む。
あと五年もつかどうかさえわからなかった。それでも王位を継ぐしかない。国の未来のため、アベルは既に自分の次に王になるべき者を見定めようとしている。
壊れたらどうなるのか不明である以上、潮時と感じたら姿を消して自死するか、今後の状況によっては、自身を次代に殺させる必要があった。
――その時、お前はどう思うだろう。
湯気の立つカップに角砂糖が一つ入り、白く細い指がティースプーンを持って静かに混ぜる。
四角い砂糖がほろりと崩れて溶けてゆくと、シャロンはスプーンを置いてカップをアベルに差し出した。花がほころぶような優しい笑顔は昔から変わらない。礼を言って受け取り、一口喉へと流し込んだ。いつの間にか、バスケットの中は空になっている。
『足りなかったかしら?』
『いや、充分だ。』
『ならよかったわ。このまま少し休んでいって。』
『仕事が』
『休んでいくわよね。』
胸の前で両手をぱちりと合わせ、シャロンは微笑みを浮かべてアベルを見上げた。譲らない時の顔をしている彼女から目をそらし、アベルは黙って紅茶を飲む。
『サディアスからも休ませるよう頼まれたの。とても心配していたわ。』
『あいつも寝ていないだろう。』
『やっぱりそうなのね?』
告げ口してやると、シャロンは「困ったものだわ」とでも言いたげに眉尻を下げて頬に手をあてた。
『だと思って、よく眠れますようにとお祈りして水を持たせたわ。』
『……お前…』
それは実質睡眠薬ではないか。
苦い顔でシャロンを見ると、彼女は自分のカップにも紅茶を注ぎ、こくりと小さく飲み込んだ。
『シミオンには寝てしまうかもと伝えておいたし、レオも一緒に行ってくれる事になったから大丈夫よ。家族に会えるって喜んでいたわ。』
『戻って来た時に怒られても知らないぞ。』
『平気。アベルに休んでほしいなら、貴方も同じだけ休んでねと言ったら、「はい」と答えたもの。』
恐らくサディアスは、その場限りの回答のつもりだっただろう。
シャロンが時折見せる強引さがここで発揮されるとは、思いもしなかったに違いない。アベルは黒髪を掻き上げてため息を吐き、カップを置いた。
『悪いが、片付けるべき事が山ほどある。』
『何もかも目を通そうとするから多いのよ。期日が近い物はあと数時間あれば終えるでしょう。休んでからで間に合うわ。』
『俺が全て把握していた方が早い。』
『そうね。それができてしまうから、貴方は無理ばかりするのだけれど――』
『は?無理はしてないだろう。生きてる』
眉根を寄せて抗議すると、シャロンはぱちりと目を瞬いた。
『まぁ。そんな事を言うのなら、私も生きている限り起きていようかしら。無理するわけじゃないもの。ねぇ?』
『……不適当だった。取り消すからそれはやめろ。』
『では休んでくれる?眠るという意味だけれど。』
数日寝ていないだけあって、ベッドの上で眠れば少々寝すぎる事が予想できた。
シャロンもその辺りをわかっていて、敢えてここでの仮眠を勧めているのだろう。芝生は柔らかいが、堅い樹に寄りかかって寝るだけなら深く眠り込む事はないはずだ。
アベルは諦めたように息を吐き、腕組みをして目を閉じる。シャロンが満足げに小さく笑う声が聞こえた。
いつ、ベッドに寝転んだのだったか。
窓から入り込む風が穏やかに髪を揺らし、誰かがアベルの頭を優しく撫でていた。
胸板に押し付けるようにして捕まえている手は、小さく滑らかで温かい。心地よいまどろみの中、存在を確かめるように柔らかな手を握り直した。
誰かが微笑んだ気がして、ふと、頬に触れる枕の感触が覚えのないものだと気付く。
疑問に思うと意識が浮上し、目を開けた。
『ん……』
ぼやけた視界に違和感を覚える。屋外だ。シートの上にバスケットが乗っている。
『起きた?』
声が聞こえた瞬間、アベルは固まった。
一瞬の後に手を離して飛び退る。身体にかけられていたらしい上着が落ち、夕焼けどころか暗くなった空の下、座ったままのシャロンが目を丸くしてこちらを見ていた。
彼女はぱちぱち瞬いてから、ふわりと笑う。
『おはよう、アベル。寝ぼけているの?』
『寝っ……お前…!』
『ふふ、慌てる貴方を見るなんて珍しい。よく眠れたみたいで安心したわ。』
片膝をついたまま額を押さえて俯くアベルと違い、シャロンは穏やかなものだった。ゆるりと立ち上がってアベルの上着を拾い、彼へと差し出す。
しかし受け取らないものだから、シャロンは不思議そうに首を傾げてスカートを膝裏へ折り、屈んで視線を合わせた。
『どうしたの?』
『…どうしたじゃない、無礼をされそうになったら叩き起こせ。』
『無礼?』
『あれが無礼でなければ、お前は感覚がズレてる。』
『他の人なら確かにダメだけれど、貴方だもの。』
『何を言ってる…』
アベルは吐き捨てるように言い、上着を受け取って立ち上がった。
シャロンからすれば、自分は義弟のようなものだろう。しかし義弟だとして実弟のクリスと同じ扱いでは困るし、誰にもウィルフレッドとの婚約を公にしていないのだから、それは周囲には伝わらないのだ。
立ち上がったシャロンの微笑みには、「アベルがよく寝てくれた」という達成感のようなものしか読み取れない。アベルは苦い気持ちで顔をしかめ、付け加えた。
『それと。』
『なぁに?』
『……何で、俺が寝ると頭を撫でるんだ。やめろ』
『ごめんなさい、つい。』
前にもされた事があるとアベルは覚えていた。
毎度、触れられた瞬間に目を覚ませない事に僅かな敗北感を味わっている。子供扱いされるのは不服だし、優しく触れる手つきを思い出すと、まるで自分が彼女から――大事にされているかのようで、落ち着かない。そんな錯覚に溺れるつもりは毛頭なかった。
『貴方、眠っていると可愛らしいものだから…』
『聞かなければよかった。二度と言うな』
『そんなに?』
聞き返したシャロンを無視して、アベルはシートを風の魔法で片付ける。
軽くなったバスケットを手に、展望デッキの入口へと足を向けた。小さな足音が後からついてくる。
あと何年、一緒にいられるかわからない。
いつまで、笑ってくれるかわからない。
今だけは、
『…シャロン。』
名を呼んで手を差し出すと、彼女は微笑んで手を重ねた。




