149.そこに可能性はなく
控室の一つに移動したエリオットとアベルは、ローテーブルを挟んで向かいに座った。
エリオットは眉を顰めて両膝に手を置き、アベルは優雅に脚を組んで背もたれに身を預ける。とても気のある令嬢の父親に対する態度ではない。
「…アベル様。ここは一つ男同士、本音で話をさせて頂きたく。」
どん、と水差しを置き、エリオットはグラスを二つ並べる。
本当は酒でといきたかったのだろうがアベルは未成年だ。黙っているとグラスに水が注がれ、片方はアベルの方へテーブル伝いに寄越される。
「……アーチャー公爵、先に言っておくけど君の考えすぎだ。」
「考えすぎ、ですか。」
深刻な顔をやめないままにエリオットは水をごくりと飲む。アベルも礼儀としてグラスに口をつけ、テーブルに戻した。数秒の沈黙の後、エリオットが重々しく口を開く。
「娘から…聞きました。」
「何を。」
「貴方とは、既に将来の約束をしていると。」
――あいつ、一体どんな言い方をしたんだ。
「そんなものはしてないね。」
「…娘の勘違いだと?」
エリオットが眉間に皺を寄せ、怒気を纏う。アベルは冷静に彼を見据えた。
「恐らくは君の勘違いだ。彼女が何と言ったか正確に言ってみなよ。」
「……貴方に、《幸せになるなら一緒に》と伝えたと。」
「なるほど。一昨日、僕は街で君の娘に会った。」
「えぇ。」
ナディア・ワイラー子爵令嬢によってシャロンとクリスが襲われ、ダンが負傷した事件だ。ナディアが用意したならず者達はスキルを発動させたクリスによって倒されたが、その後二人を保護して騎士団の駐屯所に送り届けたのがアベルだ。
「その時に…《君は幸せになれるから、心配しなくていい》と言った。泣いていたものだからね。」
さすがにそこまではシャロンから聞いていなかったのだろう、エリオットが瞬く。
正確にはシャロンが泣き止んだ後だが、それくらいの差は構わないだろう。アベルはそのまま話を続けた。
「彼女は《皆で》と言っていたから、幸せになれると言うなら僕自身もその輪に入れと、そういう意味合いの発言だと認識しているよ。」
「……では…娘と結婚の約束などは……」
「ない。」
アベルがきっぱり言い切ると、エリオットは深く息を吐いて脱力した。
しかしすぐにハッと目を見開いて口元を片手で覆う。
「では…それなら、《自分だけ見ているといい》というのは何なのです?」
「それは」
ウィルフレッドとイェシカを気にしているようだったから、などと真実を話すべきではないとアベルは判断した。ここまでの会話からして、どうやらエリオットはウィルフレッドとシャロンの約束を知らないらしい。
とはいえ、いずれは知るのだから黙っておくべきだ。娘の事となると勘違いしやすい様子のこの男に、万一にもウィルフレッドがイェシカと良い仲だなどと思わせてはならない。
「大勢が見ているとあって、だいぶ緊張しているようだったからね。周りを気にするなという話だよ。」
「…そうでしたか。」
エリオットは納得するような言葉を吐いたが、表情は晴れなかった。アベルが僅かに眉を顰める。
「まだ何かあるの。」
「……そうですね、まず…それだけの話であれば、どうかお言葉を選んで頂きたく。」
「は?」
「自分だけ見ていろというのは、口説くようなものですので。」
「くど…何を言ってるんだ。」
アベルは呆れ顔で聞き返した。
エリオットは腕組みをし、落ち着きなく指でとんとんと叩いている。
「えぇ、本当に、うちの娘に何を言っているんですか。ただでさえいきなり剣だの鍛錬だのやりだしたところへ、貴方のような武の天才が屋敷に来るようになるわ、そんな言葉をかけるわ……もしあの子が「アベル殿下と結婚する」なんて言い出したらどうします。こちらが持ち込まなければ、婚約なんてまだ数年は先の話だと思っていたのに…!」
「僕に聞くな。それから、彼女との婚約はあり得ないから安心するといい。」
アベルが否定すると、エリオットは安心するどころか苛立ちを滲ませて眉根を寄せた。
「あり得ない?まさか、殿下は私の娘に不満でもあるのですか。」
「そうは言ってないでしょ。」
「満更でもないと?」
「…どうしろと言うんだ。」
チェスターが「大変だった」と言った意味を理解し、アベルは顔を顰めた。優秀な男だと認識していたが、娘の事となると途端に面倒くさくなるらしい。
シャロンは既にウィルフレッドと想い合っている。アベルと結ばれる可能性はゼロであり、まったくもって無駄な心配だというのに。
「ダンスの時ですが、距離が少々近すぎませんでしたか。殿下も殆どずっとあの子を見ていらっしゃいましたよね。」
「距離は知らないけど、まぁ喋ってたからね。相手の事は見るよ。」
「先程も手を取っておられました。」
「階段を下りてきたのは見えなかったかな。」
「下りた後すぐには離しませんでしたね?」
アベルはほんの僅か首を傾げた。
記憶を辿り、確かにその通りだったと認識する。考えてみれば屋上でも長く手を繋いでいたし、彼女の手が触れている事に慣れてしまったのかもしれない。
エリオットはそんなアベルを複雑そうな顔で眺め、一つ息を吐いた。
「…君はギルの息子だ。」
アベルの目がエリオットに向く。
特務大臣である公爵は、今はただ父の親友の顔をしていた。
「あいつに似て、妙な勘違いなどしないようにな。」
「……勘違いしていたのは君の方じゃなかったかな、公爵。」
「はは、確かにそうだ。」
からりと笑って、エリオットはグラスの水を飲み干した。
ギルバートとセリーナのすれ違いは、二人とも本心が顔に出にくいタイプである事と、セリーナの身体の弱さ、ギルバートの自信の無さが合わさって起きている。第二王子が同じような事態になるとは考えにくいだろう。
「…わかってはおります。娘が貴方がた二人のどちらかに嫁ぐのは、当然の流れだと。公爵家の義務として王妃教育も受けさせています。」
悟ったようにたそがれた目で話し、エリオットは膝に置いた手に力を込めた。
「しかし今はまだ!婚約の話などは…!」
「だから、僕に言ってどうするんだ。ウィルにも話してるんでしょ。それで充分…」
「いえ、ウィルフレッド殿下には、特に。」
「は?」
エリオットの返答が理解できず、アベルは聞き返した。
二人の約束を知らなかったとしても、婚約について何か望みがあるなら、第一王子でありシャロンの幼馴染であるウィルフレッドにこそ話すべきではないのか。
「あの方なら順序立てて一つずつ事が進むでしょう。しかし貴方の場合、青天の霹靂のごとくいきなり娘を攫いかねない。」
「人聞きが悪い事を言うね。…以前下町へ連れて行った事なら、本人の望みなんだけど。」
「存じております。殿下、親にも心の準備がいるというだけの話なのです。」
「……特務大臣ともあろうものが、随分と予防線を張る。」
「いずれ、子を持てばわかります。」
――そんな日は来ない。
すっぱり切り捨てる言葉は心の内に留め、アベルは短いため息を吐いた。ダンスホールの屋上で見た、未来について話すシャロンの顔が頭に浮かぶ。
『大丈夫。私は、貴方達と一緒に生きてみせるわ。』
きらきら輝く瞳は希望に満ちていて、見ているとどうしようもなく苦しかった。彼女が信じる未来などこの先に存在しないとアベルは知っている。
『……シャロン。俺は…』
――俺は、一緒には生きられない。
その願いに応えてやる事はできないのだと、伝えてしまいそうになった。
言えばきっと、シャロンは「なぜ」と問うだろう。普通は信じないような馬鹿げた理由も、彼女なら信じてくれるかもしれない。
深く悲しみ、憐れんで、何か方法がないかと時間を無駄にし、最後には何もできない事を謝って泣くのだろう。
――そうなるくらいなら、誰も何も知らないままでいい。
何せアベルにも原因はわからない。
「いずれ自分は壊れる」という強烈な自覚が、この首を狙う何かの気配が、じわじわと侵食するように存在感を増していく。
物心ついた時から、ずっと。
壊れる前に死ななければならないと、わかっている。
「心の準備がいるのは陛下や王妃殿下もですから、どうかご留意を。」
エリオットは未来の話を続けている。
ギルバートはともかく、セリーナは卒倒するだろう。息子との対面だけで限界を越えてしまう人が、婚約発表に耐えきれるわけがない。
「心配ないよ。僕にそのつもりはない。」
「まぁ、これは相手が誰とは限らず…貴方がいつか、結婚をお決めになったらの話です。」
「それが無いと言ってるんだけど。」
「ははは…未来はわかりませんよ。」
アベルにとって特務大臣は笑わない男であったため、この短時間に彼が二度も笑った事は不思議でしかなかった。探るような目で見てくる第二王子に、エリオットは穏やかな声で言う。
「私は正直、結婚という義務を憂鬱に思っておりましたが…予想外にも良い妻に出会いました。私にとってあれ以上はいません。」
「…夫婦で《契約》しているのは、君達くらいだろうね。」
「ご存知でしたか。」
少しだけ意外そうに瞬いたエリオットに、アベルは黙って首肯した。
ツイーディア王国の騎士団に伝わる《契約》。
それは一生に一度、一人を相手にしか結ぶ事のできないものであり、契約を行おうとして失敗すれば生涯誰とも契約できない。また、条件の一つとされる《相手への信頼》がどちらか一方でも崩れた場合、たとえ契約していてもその効果は発揮されない。
古くは君影国の始祖が月の女神に教えたという、特殊な術だ。
もっとも契約できるのは魔力持ち同士に限られるので、これに関して第二王子が当事者になる事はあり得なかった。
「結婚が全てとは申しませんが、殿下の隣には誰かいた方が良い。個人的にはそう思います。……貴方はどこか危うい。」
「余計な世話だね。」
優雅に脚を組んだまま、第二王子は冷ややかな目で言う。
エリオット・アーチャー公爵は、その金色を真っ向から見返していた。
「承知の上です。王位を継ぐ継がないに関わらず、貴方は次代を担う存在になる。居てもらわねば困ります。」
「……娘と似たような事を言う。」
アベルがぼそりと呟くと、エリオットは目を剥いて聞き返す。
「あの子が…貴方がいないと困ると…!?」
「言ってはいたけど、違う。そういう意味じゃない。君とさして変わらない理由だと思うよ。」
「そうですか…ならば、えぇ。」
渋い顔をして頷き、エリオットは心を落ち着けるためにグラスを傾ける。
僅か十二歳でここまで騎士達の信頼を得た王子など、歴代でも初めてだろう。
民殺しの噂を放置する一方、第二王子は彼に従う者達の手も借り、数多の事件捜査に貢献してきた。騎士団長が「使えるものは王子でも使う」という方針でなければ、国王と王妃が自由にさせていなければ、また違ったのかもしれないが。
『勝てるだろう、アベル?お前は何だってできるものな。』
エリオットの脳裏に、ギルバートがアベルへかけた言葉が思い出された。
魔法以外、大抵の事はできてしまう第二王子。
多くの者が彼を恐れ、多くの者が彼を頼る。
「……何。」
「いえ、失礼。」
黙って眺めてしまった無礼を詫びて、エリオットはグラスを置いた。
特務大臣として国の今後を考え、一人の大人として少年の未来を案じ、親として娘の幸せを願う。
「貴方がウィルフレッド殿下と共に国を支えていく日を、楽しみにしております。」
アベルは短く相槌を打ったが、肯定する事はなかった。




