14.流行り風邪の町へ
今日は、お父様もお母様も少し遠方でご用事があるみたい。
朝食が済んだらすぐに二人とも外出してしまわれた。いつも午前中はお母様と刺繍したり詩を読んだりするのだけど…
「ねぇメリル。今日だけ午前中も少し身体を動かしていいかしら。」
「あら、どうされるのですか?」
「屋敷の外周を走ってみようかと思うわ。でも二時間ほどいつものお勉強をしてからよ。先に服装だけすぐ動けるようにしてほしいの」
昼食の後に運動用のボーイッシュな服に着替えるところを、早めにそちらに着替えてしまおうという事だ。刺繍も詩を読むのも、服装は関係ないから。
メリルはすぐに了承してくれて、フリルブラウスと黒のブーツを持ってくる。
ズボンはぴったりしていると脚を動かしにくいから、幅に少しゆとりのあるものだ。
「髪は、一度ハーフアップにしてからくるりと巻いていきましょうね」
「お願いするわ。」
メリルが髪をくるくるするのは毎回魔法のようで、されている側としては何がどうなったのかあまりよくわからない。
同じように見えて毎度違う巻き方に仕上がっているので、とにかくメリルはすごい。
私の髪をとかしながら、メリルが「そういえば」と呟いた。
「最近、下町で妙な風邪が流行っているそうですよ。」
「風邪?」
「えぇ。熱はなくケホケホと空咳が出て、歩けなくなる人も出たとか。でも、看病している家族にうつったりはしていないそうですけれど。」
きゅっと髪が引かれる感覚。
鏡の中で、薄紫色の髪をハーフアップにした少女が目を丸くしている。
私は急いで立ち上がり、開いている窓から顔を覗かせた。
「シャロン様?」
「下町って、あの辺りよね?」
追いかけて来たメリルに、貴族の屋敷が密集しているのとは別の、遠目に質素な街並みが見える場所を指して聞く。
「そうですよ。昨日織物を見せに来た商人から聞いた話です。」
……どうしましょう。
私は眉根を寄せた。チェスターの妹さんと同じ症状だわ。
詳しく調べに行きたいけれど、「流行っている」となればメリルにもランドルフにも止められるに決まっている。
こっそり抜け出す方法でも考えようかと思っていると、外から蹄の音が聞こえてきた。
馬車ではなく単騎で駆けている。そちらに目をやると、見覚えのある黒髪が王城の方から屋敷の脇道へと――
「アベル!」
窓から少し身を乗り出して呼びかけると、彼は手綱をぐいと引いて馬を止めた。
よかった、気付いてくれたわ。何事かと訝しげにこちらを見上げている。
「今時間あるかしら、玄関へ!」
そう叫んで、彼の返事も聞かずに窓から引っ込んだ。大丈夫、きっと来てくれる。
メリルが動揺した声で私を呼んだけれど、今だけはごめんなさい!無視して部屋から飛び出し、玄関ホールへと階段を駆け下りる。
ランドルフの姿がなくて安心しながら、掃除中の侍女が首を傾げるのも構わずに玄関の扉を開け放った。
先程の声が聞こえただろう門番が困惑しつつも門を開け、既に到着していたアベルは、馬に跨ったまま私を見下ろした。
「それで?」
「貴方、私を攫ってくれないかしら!」
「シャロン様!?」
後方からメリルの驚いた声が聞こえる。
アベルは一瞬瞠目し――にやりと笑って手を差し伸べた。
私はその手を素早く掴み、引っ張り上げられるのに合わせて地面を蹴る。…高い!馬って思った以上に高いわ!
バランスを崩して情けない声を上げながら、私はアベルの前におさまった。
慌てた足音に顔を上げると、走って来たらしいメリルは混乱のせいか口をぱくぱくさせている。
「では、ご令嬢をお借りする。」
アベルの楽しそうな声が聞こえ、馬が駆け出した。
心の準備ができていなかった私は短い悲鳴をあげてアベルに寄りかかってしまい――全然びくともしなかった――ぐんぐんと屋敷を離れていく。
「シャロン様ーーーーっ!!」
「お夕飯には戻りますーーーー!」
正直帰り道の事は細かく考えていなかったけれど、とりあえずそう叫んでおいた。
「っ、はははは!」
馬を走らせながら、アベルが真後ろで笑っている。
「いきなり僕を呼びつけて攫えとは。――ほんと可笑しいよ、君。」
「ごめんなさい、ちょっと出かけたくて。時間は大丈夫かしら?なんだったら、適当なところで下ろしても…」
「くくく……いいよ、今日は君に付き合う。」
「本当に?ありがとう、頼もしいわ。」
驚きつつも素直に感謝する。
下町に行くなら多少はならず者との遭遇が予想できるけれど、アベルは齢十二にして既にとても強い。まだまだ修行中の私にはありがたい話だ。
「それで、どこまでのお出かけですか?お嬢さん。」
「下町よ。妙な風邪が流行っていると聞いたの。」
進行方向はこのままで合っている。
行先を聞いても真っ直ぐ走らせたまま、アベルは落ち着いた声で「風邪?」と聞き返した。
「熱は出なくて、空咳が出て…歩けなくなる人もいるとか。」
「ふうん…」
「でも、看病していてもうつらないとか。もしかしたら…」
風邪ではなく、魔法かもしれない。
なぜそう思うのか聞かれたらどうしようと思って、私は口を噤んだ。
「もしかしたら、何。」
「…気になるでしょう?」
意味ありげに聞いてみたけれど、アベルは「どうかな」と返しただけだった。チェスターの妹さんの事は知らないのかしら?
そこまで考えて、ふと、思う。
「もしこれで貴方が風邪をひいたら、どうしましょう。」
「死ななきゃ大丈夫だよ。」
「いいえ!?一大事だわ、やっぱり一人で行きます!」
走る馬の上でもがくわけにもいかないので、手綱を握るアベルの腕に軽く指先を添えて告げる。一度止めてもらわなくては下りられない。
「下りたら、歩いてる君の後ろを馬でついていくよ。」
「えっ、駄目よ。それじゃ意味がないわ」
「そういう事。」
…巻き込んだのは失敗だったかしら。
でも居てくれた方が心強いし、でも……悩ましいけれど、仕方ない。下りてもついていくと言われては、同行はもう決定事項なのだ。
私は気持ちを切り替えて前を見つめた。
「そういえば、貴方はどこかへ行くつもりだったのよね?」
「まぁ、馬で出掛けたわけだからね。」
「ごめんなさい、予定を潰してしまったわ。」
「潰すと決めたのは僕だし、別にいつでもいい用事だから構わないよ。」
アベルはそう言うけれど、本当だろうか。
心配になって、屋敷の脇を通ったらどこへ行けるのか考えてみる。……山があるわね。その先の領地に突っ込んでいくわけでもないでしょうし、
……山?
はたと気付く。
ゲームの回想シーンで見た、アベルの鍛錬は山の中だった。まさかアーチャー公爵邸の横を通った先の山とは知らなかったけれど。
彼は自分が鍛錬する所を人に見られるわけにはいかないので、あえてそんな場所で行っていたのだ。
見られるわけにはいかない――魔法の鍛錬を。
そう、アベルは魔法が使える。
ただ使えないフリをしているだけの、全属性に適性があるという天才だ。
魔力持ちというのは、基本的に適性にとても偏りがある。お父様が火の魔法はからっきしなように。
だから魔力鑑定で《最も適性のある》属性の色が出れば魔力持ちという判定になるのだ。
色が出ないというのは「魔力なし」であって、まさか――まさか、五つの属性全てに等しい適性を持つ人間などいるはずがない。
アベルはその国中の思い込みを最大限に利用し、爪を隠している。
しかもこの人はなんと、《宣言》無しでも魔法を発動させるというチートっぷり。
そして剣術もとんでもない強さを誇る。
ヒロインのスキル無しでは到底倒す事のできないラスボス――それが、アベル皇帝陛下なのだ。
「この辺りからは歩こうか。」
声をかけられて、はっとした。もう下町の入口が見えている。馬が速度を落とし、やがて止まる。先に下りたアベルが手を差し出してくれた。
私は右脚をなんとか左側へ下ろし、馬に横から座るような形になる。あとはアベルの手を支えに、すとんと着地した。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
私ではなく町を見ながらアベルが言った。
白と灰色が混じる石畳の道に、白壁や煉瓦の建物が並び立っている。
建物の前にひさしを作って製品をテーブルに置いている店がいくつもあり、脇に立った店員が道行く人に元気に声掛けをしていた。
「風邪が流行っていると言っても、結構活気があるのね。」
「疫病じゃないんだから、そうでしょ。」
言われれば正論でしかないアベルの言葉を聞きながら、私は通りの様子を見つめた。目が合う人の全員が全員、私を見て訝しげな顔をしている。
何か変かしらと自分の格好を見下ろすけれど、メリルのセンスに間違いはないはずだ。隣に立つアベルだって、フリルこそ全くないけど基本は似たような格好…
「あら?」
隣にいたはずのアベルと馬がいない。
私ったら早速はぐれたのかしら、でも全然歩いていないのに。ぐるりと辺りを見回してみると、斜め後ろの建物の影で大人と話しているアベルがいた。
馬をその人に渡して、こちらへ戻ってくる。ずっと連れ歩くのもなんだから預けたのかしら。
勝手に納得していたら、戻って来たアベルの手に小さな革袋がある事に気付く。
「それは?」
「金。」
おかね?
「馬と馬具を換金してきた」
「…えっ!?そ、それはまずいんじゃないかしら?」
だってお城の馬でしょう、とヒソヒソ声で付け足す。
「三日経つまでに取りに来る。無傷で預かれば、経費含めて倍額払うと言ってあるから平気だよ。」
「そ…え……!?」
平然と話しながら、アベルは慣れた様子で歩いていく。
私は慌ててついていきながら馬を振り返ったけれど、そちらはそちらで、人間の事情など知った事じゃないとばかり、のんびりと青空を見上げていた。
「ところで、私って変な格好だと思う?すごく見られている気がして。」
先を行くアベルの二の腕あたりの服をそうっと掴んで歩く。
お母様が開く茶会に来た人達から見られるのと、この町の人に見られるのとでは視線の種類が違う。
こちらは少し、排他的な空気が混ざっている気がした。
「変ではないけど、いかにもご令嬢って格好は下町では目立つでしょ。普通。」
それはそうね…。
私の服は貴族向けの店で仕立ててもらったものなのだ。周りを行く人々のそれとは価格帯が違う。
アベルはと言えば、よく見れば上質な素材が使われているけれど、デザインはシンプルなのでぱっと見は下級の貴族か、よそ行きを着た平民かというところだ。
剣の鍔には細い布を巻きつけ、装飾を一部隠している。
「帯剣してる男の子より目立つものかしら?」
「つまり《僕達》が目立つのは仕方ないってこと。」
諦めろという事ね。
ここに来ると言い出したのは自分なのだからと、私はアベルを見習って背筋をしゃんと伸ばした。
「さぁーさぁ、野菜が安いよ~今日も安いよっ!」
「おじさん、こんにちは。」
声も口も身体も大きな野菜売りの男性に、アベルがにこりと笑って話しかける。
「おう、なんだい貴族のお坊ちゃんかな?可愛い彼女連れてるねぇ」
「いえ違います!」
第二王子相手になんて事を言うの、いや知らないからしょうがないけれど!私は血の気が引く思いでブンブン手を振ったけれど、微笑ましそうに目を細められてしまった。
アベルもアベルで、おじさんの発言を完全にスルーして問いかける。
「このあたりで風邪が流行ってると聞いたんだけど、何か知ってる?」
「風邪?あぁ、花屋のばーさんとか、裏道のトニーがなったやつだな。」
「あまり感染力は無いって聞いたけど。」
「らしいな。それにかかっても数日で治るらしいから、大したモンじゃねぇと思うけどな。で?何をお求めで…」
あら?メリルが聞いた話と違うわね。私は思い切って口を挟んでみる。
「歩けなくなった人もいると聞いたのですが…。」
「それは俺は知らねぇ話だな。噂に尾ひれがついただけじゃねぇか?」
うちは魚屋じゃなくて八百屋だからわからねぇな!とウインクするおじさんについ首を傾げる。
アベルはなぜかハハハと乾いた笑いを返していた。
「できれば治った人に話を聞きたいんだけど、どこに行けば会えるか教えてくれる?」
「ん~まぁよくいる場所なら…けどお坊ちゃん、こういうのは…デートにはどうかと思うぜ?」
「ですから、違います!」
再び否定する私の前で、アベルがさらりと爆弾を落とした。
「彼女の父親がこの件を気にしてて。将来認めてもらうためにも、少し調べて報告しようと思ってるんだ。」
……はい?
まったくの初耳なのだけれど。それ、どう考えても嘘よね?
私はまじまじとアベルの顔を見つめる。なんて完璧なスマイルを浮かべているのかしら。作り物みたいに綺麗だ。
「へぇ~!点数稼ぎってやつか。さすが、考えてる事が違ぇなぁ。俺が知ってるのは…」
花屋の場所と、トニーという人がよくいる場所を教えてもらう。
「おじさんが知ってるのはその二人だけ?」
「知り合いはな。旅の行商人もだとか聞いたけど、そいつの事は…あぁ、宿屋の若女将なら知ってるはずだぜ。場所は…」
「なるほどね、教えてくれてありがとう」
道順をしっかりと聞き、アベルは爽やかに笑いかけた。
そちら、恐ろしいと噂の第二王子殿下でお間違いなかったでしょうか。つい見てしまう私の視線にも気付いているはずだけれど、ブレない。
「お勧めの果物をいくつか包んでくれるかな。ああもちろん、彼女でも食べやすいものを。」
「はいよっ、毎度あり!」
大きな手をパチンと叩いて、おじさんは満面の笑みを浮かべた。
これなんかどうだい、と三種類ほど指してアベルに確認し、代金をもらってからサッと網かごに入れて渡す。
「じゃっ、頑張りなよ!応援してるぜ、お二人さん!」
へへ、と鼻の下をこすりながら、おじさんは暖かく送り出してくれた。祝い事には是非ウチの果物を使ってくれよな、とウインクもしていた。
私は曖昧な微笑みを返してその場を立ち去る。
「……あの、アベル?」
「何?」
爽やかスマイルはどこへやら、すんとした第二王子殿下の瞳が私を見やった。何、じゃないのよ。
「貴方、すごい平然と嘘をついていたけど…」
いつかあの人が、今日会った少年が王子だったと知る日が来たらどうしましょう。
そんな心配をよそに、アベルは小ぶりの果物を取り出しながら答えた。
「相手の勘違いを利用した方が話が早い時もあるからね。」
「あんな話をして、大丈夫だと良いのだけれど……。」
横から果物を渡され、まるで種無しのサクランボのようであるそれを口に入れる。
私が食べてから自分ももう一つを口に入れたアベルに、まさか今のって毒見かしら?とは聞けなかった。




