148.未来の彼女は牢の中
アベルと共に屋内へ戻ったシャロンは二階席を見回したが、タリスの姿はなかった。元の警備位置に戻ったらしい。
「公爵か夫人のところまで送るから、今夜はもう一人にならないように。いい?」
「はい、殿下。」
「…何があってもだ。城だから安全とは思うな。」
声を潜めて付け加えながら、階段前まで来たアベルはシャロンに手を差し出す。
シャロンはにこりと頷いて手を乗せた。
第二王子にエスコートされながら降りてくる公爵令嬢にあちこちから視線が集中したが、何を見ていると言わんばかりに睨み返されて彼らはすぐに目をそらす。
「…第二王子殿下。」
フロアを探すまでもなく、シャロンの父であるエリオット・アーチャー公爵が声をかけてきた。
隣で微笑む妻のディアドラと違い、いつも以上に眉間に皺を寄せたしかめっ面をしている。周囲は怒り心頭の公爵を見て何かあったのかと囁き合ったが、シャロンの目には父の顔はひどく憂鬱なものに見えた。
「公爵か。ちょうどいい所へ来た、君の娘を――」
引き取ってくれるかな、と言いかけたアベルの言葉が途切れる。
エリオットがクワッと目を見開いたからだ。なぜそんな顔をされるのかまったく心当たりがない。瞬いて相手の発言を待つと、エリオットはゆっくりと深呼吸してから胸に片手をあて、深刻な表情でアベルに礼をした。
「大事な話があるのですが、お時間よろしいでしょうか。」
「……?構わないけど…」
帝国の話か、それともシャロンとリュドの事が報告されたか、魔石と魔獣について進展があったか、クリスのスキルについて、あるいは別件か…と頭を回すものの、そういった話にしてはエリオットの表情が解せない。なぜ青ざめつつ何かを決意したような目をしているのか。
――まぁいい。この男が王家主催の会よりも優先したいと言うなら、それなりの事柄ではあるだろう。
予定外に時間を割いたため情報収集の機会は惜しいが、チェスターやサディアス、騎士達にもあらかじめ指示はしてある。公爵の話を時間がないなどと切り捨てるべきではない。
了承したアベルはシャロンを振り返り、彼女の手をついとディアドラの方へ差し出す。エリオットはアベルと共に離れてしまうので、ディアドラと一緒にいろという指示だ。
シャロンは微笑んで頷くと、指先まで惜しむようにしながら手を離し、母の傍へ立った。エリオットに視線を戻したアベルが眉を顰める。彼の鋭い銀の瞳は間違いなく、アベルとシャロンの手が離れた場所を凝視していた。
――ちょっと待て。嫌な予感がする。
「……君、公爵に何か言った?」
「えっ?」
他の客までは聞こえないよう、小声で問う。
狩猟の日、シャロンとエリオットの噛み合わない会話によって大きな誤解が生じた事を、それを解くのに苦労した事を、アベルはチェスターの報告を受けて知っていた。
シャロンはきょとりと薄紫色の瞳を丸くし、ダンスの際に父とした話を思い出す。
「聞かれたのは……殿下と踊らせて頂いた時の事、ですね。」
『幸せになるなら、貴方と一緒がいい。』
シャロンの発言を思い出し、アベルは頭が痛いと言わんばかりにこめかみに手をあて、数秒目を閉じた。
エリオットにとって、アベルは「兄王子と婚約が内定しているとも知らず、娘にちょっかいをかけている」といった所だろうか。それともエリオットすら二人の約束を知らず、単に娘に近付こうとしていると思われているか。
どちらにせよ面倒だ。面倒だが、ここでそのやり取りをするわけにもいかない。
「……わかった、別室で話そうか。」
「えぇ、ありがとうございます。色々と詳しくお聞きしたいので…」
速やかに歩き出したエリオットに続きながら、アベルはじろりと恨めしげにシャロンを見やる。何の話かわかっていないらしい彼女は、不思議そうな顔で首を傾げた。
「ふふ、波乱の予感ね~。」
二人の背中を見送り、ディアドラは頬に片手をあてて微笑んだ。娘の事で頭を悩ませる夫を見て楽しむ、悪い妻の顔である。
「波乱、なのですか?」
「あの人にとってはね。殿下は単に面倒そうだったけれど。」
「そうですね。一体どんなお話なのか…」
今後についてアベルと話しておくという父の言葉を思い出し、シャロンは頭に疑問符を浮かべる。やはりあの時きちんと、何の話なのか聞いておけばよかったのかもしれない。
「シャロンちゃんも何か飲む?」
ウェイターから白ワインのグラスを受け取りながら、ディアドラが聞く。
シャロンは葡萄ジュースを受け取り、一口喉に流し込んだ。城で出されるだけあって高級品種が使われているようだ。
ショーが終わった今、人々は再びダンスに興じている。
珍しい水色の髪を持つティム・クロムウェル騎士団長が、騎士の礼服に身を包んだ細身の女性と踊っていた。
年齢は三十代前半といったところだろう。灰褐色の髪は眉の上できっちりと切り揃え、耳の前は鎖骨に触れる長さであるのに、後ろ髪は襟足が刈り上げてある。黒い瞳を抱く細い目は、右にだけモノクルをかけていた。
「お母様、今クロムウェル騎士団長と踊られている女性は部隊長の方でしょうか。」
警備に立っている騎士達と違い、彼女の礼服には金糸が使われていた。他にも何人か同じ装飾の騎士がおり、いずれも上に立つ者としての風格が感じられる。シャロンの問いにディアドラも視線を二人に移した。
「えぇ。クレメンタイン・バークス……クレちゃんは、三番隊の隊長よ。」
潜入捜査や防諜、魔塔の監視を担う隊だ。
魔獣や魔石の捜査状況はシャロンの知るところではなかったが、狩猟に現れた獣達について、魔塔の研究者達も捜査に関わっているだろうとは推測している。困ったような下がり眉で笑うティムと会話しながら、クレメンタインは薄い唇で微笑んでいた。
「二人とも笑顔が上手なのよねぇ。」
パッと見では普通に話しているように思えるが、周囲に会話を読ませないようどちらも唇の動きを最小限に留めている。綺麗過ぎる笑顔はまさに作りもののようだ。
「失礼。今お話してもよろしいでしょうか?」
穏やかに声をかけられて二人が振り返ると、肩につく長さのプラチナブロンドを低い位置で結った、麗しい顔立ちの少年が立っている。ヘデラ王国のナルシス第二王子だ。
ディアドラとシャロンはそれぞれ腰を落として礼をした。
「もちろんですわ。私は特務大臣エリオット・アーチャーの妻、ディアドラと申します。こちらは娘のシャロンです。」
「お会いできて光栄です、第二王子殿下。」
顔を上げたシャロンはナルシスの後ろ、遠目からこちらを見ているリュドと目が合って思わずどきりとした。しかし、彼はにこやかに手を振っただけで視線を外す。
「丁寧にありがとうございます。ご存知かと思いますが、ナルシスと申します。」
微笑む唇は艶めく桜色で、姿勢と仕草が紳士のものでなければ、凛々しい少女かと思ってしまいそうなほどだった。燕尾服に合わせて今日はニーハイブーツではなく、磨き上げられた革靴を履いている。
「アーチャー公爵のご息女でしたか。最初にアベル殿下と踊られていたので、名家のご令嬢だろうとは思っていたのですが。」
「殿下と娘は同い年ですので、此度はパートナーを務めさせて頂きました。」
「同じ…という事は、来年はシャロン嬢も学園へ?」
返事を促すようにディアドラが微笑みかけ、シャロンは頷いた。
「えぇ、その予定ですわ。」
「私の妹、ロズリーヌも留学させて頂く予定なのです。会った時にはぜひ仲良くしてやってください。」
「――私でよろしければ、ぜひ。」
完璧な笑顔で快く返事しながら、シャロンは前世に見たゲームの画面を思い出す。
『まぁ!貧しい庶民の娘が、まだ彼に付きまとっていますの!?』
でっぷりとした太ましい身体つきの王女殿下。
ロズリーヌ・ゾエ・バルニエは、事あるごとに主人公に突っかかるキャラクターだ。誰のルートであろうとその相手との邪魔をしようとし、主人公は時に困らされ、時に攻略対象を含む友人達に助けられる。
やがて彼女の行動は咎められ留学は中断となり、わめき散らしながら引っ立てられていく。学園編での出番はそれきりであるし、未来編では昔話に際してチラリと牢獄にいるシーンが映るだけだ。
――だけど、今思えば……どうして彼女は牢にいるのかしら。
妹への愛を語るナルシスを見つめながら、シャロンは考える。
ゲームの学園編はあくまで入学から一年間だけの事だ。未来編は卒業から数年後、つまり学園編から五、六年は経過しているはずで、ロズリーヌは留学中断からずっと牢にいたのだろうか?
彼女は何も、主人公を殺そうとしたわけではない。
悪口を言ってどついたり物を隠したり壊したり、そういう事を取り巻きと共にチマチマやっていただけだ。
後は主人公が階段から落ちてしまう事件もあったが、それは落ちそうになったロズリーヌを自ら庇ったため。
ロズリーヌがした事はもちろん無罪ではないけれど、ツイーディア王国の法律を考えても、他国の王女をそれほど長きに渡って牢へ入れておけるレベルではない。
――…もしかしたらそれも、シナリオから読み取れない「何か」があるのかしら。
ジェニー・オークスが患っていた病は未知の病気でも、他の誰かがかけた魔法でもなく、彼女自身のスキルだった。アベルルートのラスボス、イドナの正体は姿を変えたクリス・アーチャーだった。
いくらシャロンがゲームのシナリオを知っているとはいえ、それはあくまで分岐した未来の《一部分》。魔獣を生み出した人物を言い当てられるわけでもなければ、戦争が始まったきっかけだって詳細はわからない。
――彼女は、実は他にもっととんでもない事をしでかしていた、とか?
入学まであと四ヶ月を切っている。
ロズリーヌの動向にも注意を払わねばと思いつつ、シャロンはナルシスの話に意識を戻した。
「此度の舞踏会の事を話した時には、絶対に同じ相手と踊らないようにと釘を刺されました。私も風習の違いは把握しておりますが、心配してくれるロズリーヌのなんと愛らしい事か。つい忘れていたようなフリをしてしまいまして…」
愛おしいものを見るように目を細めて、ナルシスは語る。
ツイーディア王国の貴族は、恋仲でもない限り一夜に同じ相手と二度以上踊る事はない。しかしヘデラ王国は、仲の良い友人であれば三度は踊る。そもそも舞踏会全体の時間が他国よりも長いのだ。
ふと遠くで貴婦人と話すウィルフレッドを見つけ、ナルシスの薄い青色の瞳に影が落ちる。
「…近頃、妹はますます美しくなっているのです。」
「まぁ、それは素晴らしい事ではありませんか。なぜそのように暗いお顔をなさるのです?」
ディアドラが優しく尋ねると、ナルシスは緩く首を横に振った。
「私達の天使が、皆の女神に……いえ、元よりロズリーヌは我が国の女神に違いないのですが、兄としては一抹の寂しさと不安を覚えます。」
思いつめたように胸元で拳を握り、ナルシスがシャロンを見据える。切羽詰まった表情にシャロンはきょとりと瞬いた。
「同じ学園に通うともなれば、ウィルフレッド殿下とアベル殿下が、可愛いロズリーヌとの時間を取り合って喧嘩してしまうかもしれない!優しい妹は心を痛める事でしょう……ですからどうかその際には、力になってやってはくれませんか。」
「――…もちろんですわ!」
危うく出そうになった素っ頓狂な声を全力で飲み込み、シャロンは力強い頷きを返した。ナルシスが「ありがとう!」と嬉しそうに顔を輝かせてシャロンの手を握る。
ディアドラは完璧な微笑みを浮かべてそれを見守っていた。




