140.君と僕とはありえない ◆
『そこの。…あァ、お前だ。』
ウィルフレッドとのダンスを終えたシャロンに、アクレイギア帝国第一皇子、ジークハルトが手を差し伸べた。
『次は俺と踊ってもらおうか。』
『な…』
予想外だったのだろう、ウィルフレッドが目を瞠る。エスコートのために乗せていた手が僅かに握られた事、ウィルフレッドの表情から、シャロンはすぐに二人の仲が良くないと察した。
しかしツイーディア王国は、アクレイギア帝国との休戦協定を続けたい。ウィルフレッドの迷いが手から伝わってくるかのようだった。
『光栄です、第一皇子殿下。』
ふわりと微笑んで、シャロンはドレスの裾を摘んで腰を落とした。大丈夫だと言うようにウィルフレッドの手を軽く握り返し、離す。
『私は特務大臣エリオット・アーチャー公爵が長女、シャロンと申しますわ。』
『そうか。では借りるぞ、ウィルフレッド殿下?』
『……くれぐれも丁重に頼みます。』
『くく、どうだかな。』
シャロンと離れたウィルフレッドにはすぐに令嬢達が集まっていく。ジークハルトのエスコートでダンスフロアを歩くと、他のペアが関わりたくないとばかり離れていった。
『お前、俺の目が怖くはないのか?』
シャロンの背に手を回しながら、ジークハルトが聞く。問いかけてはいるものの、確信を持った言い方だった。口元には笑みを浮かべたままで、どこか楽しそうにも見える。
『驚きはしても怯えなかっただろう。』
『そうですね…確かに、恐ろしいとは思いません。』
帝国の皇子は危険な人物だという噂は聞いていたが、会ってみなくてはわからないとシャロンは思っていた。悪い噂ばかりのアベルだって、実際には何度もシャロンを助けてくれたのだから。
瞳孔の目立つ白い瞳をじっと見上げると、ジークハルトも見つめ返してきた。
口角を吊り上げた表情には、好奇心に満ちた目には、少年のような無邪気さがある。興味本位にアリの群れを水で流すような、大事に食べなさいと渡された飴玉を即座に噛み砕いてしまうような。純粋であるがゆえに容赦がない。そんな印象だった。
曲が始まる。
『女で怯えない奴は中々いない。お前ほどの歳なら余計にな。』
ジークハルトには、シャロンを丁寧にリードする気がないようだった。
身長差と歩幅だけはある程度配慮しているらしいが、後は好き勝手にくるくると振り回している。まるで雑な人形遊びをされているかのようだ。強く引かれて腕が痛み、あまりのスピードに足がもつれそうになる。
とうとうバランスを崩しかけると、シャロンの足が床から離れるほどの勢いでぐるりと回った。ドレスがふわりと広がる。
『ウィルフレッドと踊っていたが、お前はあいつの物になるのか?』
『っ…結婚、という意味でしたら……婚約者は、おりませんわ。』
再びジークハルトの動きに合わせながら、シャロンはなんとか答えた。どうやら転びそうになったらフォローはしてくれるようだが、かと言って踊りやすくしてはくれないらしい。
『アベルはどうだ?』
『どうと、申されましても…っ!』
急に腰を引き寄せられて膝が曲がり、自分で体重を支えられなくなる。
大人しく身を預ける他ないシャロンに覆いかぶさるようにして、ジークハルトは小さな鎖骨に唇が触れそうなほど顔を近づけた。シャロンは驚いたが、体勢的に逃げようもない。朱色の髪がさらりと首筋をくすぐった。
『くく』
それは僅か一秒ほどの事で、楽しそうに喉を鳴らしたジークハルトはすぐにシャロンを元通りに立たせ、ダンスを再開する。
驚きに目を丸くしながらも、公爵令嬢は辛うじて強引なリードについてきていた。羞恥で頬を赤くする事もなければ、恐怖に青ざめた様子もない。
『殿下、今のは一体…』
『気にするな。確認しただけだ』
ジークハルトはちらりと周りを見やって言ったが、シャロンには視線の先を確かめる余裕はなかった。
『大臣の娘で公爵家なら、誰も文句はあるまい。アベルはお前が捕まえておけ。』
『まぁ…どうしてそのような事を?』
『なに、俺はあいつが気に入ったのでね。お前のような度胸のある娘がいれば安泰だろう。…あれは良い男になるぞ。俺が保証しよう』
『…ふふ。』
すっかりアベルを気に入った様子のジークハルトを見て、シャロンはついくすりと微笑んだ。
気が緩んだために足運びを失敗し、あっと小さく声を漏らす。ジークハルトは躓いた彼女を抱き上げてくるりと一回転し、何事もなかったかのように立たせてダンスを続けた。
『あ、ありがとうございます。』
『気にするな。俺が言った事は可笑しかったか?』
『可笑しいといいますか…こう言っては失礼かもしれませんが、微笑ましかったのです。第二王子殿下の事を話す貴方様が、とても楽しそうで。』
『……くっ、ハハハハハ!』
突然笑い出したジークハルトに、周囲のペアや観客がぎょっとして彼を見る。曲を奏でる楽団の面々が不安そうに顔を見合わせ、頷き合った。
そんな事はお構いなしにシャロンを見つめ、ジークハルトはにやりと笑う。
『この俺を「微笑ましい」ときたか。くく…お前は面白いな。』
面白いと言われてシャロンは首を傾げたくなったが、そんな余裕はない。楽団がどうやら気を遣って曲を早めに切り上げてくれ、二人は向かい合って礼をした。
『それなりに楽しかった。シャロンと言ったな』
『は、はい…。』
『アベルと喧嘩でもしたら、俺の所に来るがいい。愚痴くらい聞いてやらんでもないぞ。』
帝国の皇子からの予想外の申し出に、シャロンはきょとんと目を瞬いてから花開くように笑った。
『まぁ…ふふ。ありがとうございます、第一皇子殿下。』
『名前で構わん。弟の嫁は妹だからな。』
『弟……?』
『ジークハルト殿下。』
二人が振り返ると、僅かに眉を顰めたアベルが真っ直ぐにこちらへ歩いてきていた。
『来たか、アベル。次はお前がこの娘と踊るか?』
『えぇ。殿下は公爵と話を。』
アベルが手を差し出すと、シャロンは目線で頷いて手を重ねた。ジークハルトは「んん?」と唸って自分の席を見やる。
シャロンの父であるエリオット・アーチャー公爵が、眉間に深く皺を刻んでジークハルトの戻りを待っていた。大抵の人間はすくみ上がりそうな恐ろしい顔だったが、ジークハルトは短く笑いを漏らして歩き出す。
『シャロン、大丈夫だった?』
金髪をサイドテールに結った令嬢の手を引いてエスコートしつつ、ウィルフレッドが心配そうに話しかける。令嬢の方も立ち去るジークハルトの背を怖々と見つめており、シャロンは安心させるように微笑んだ。
『問題ありませんわ、第一王子殿下。』
『そうか。ならいいんだけど…どうか、無理はしないでくれ。疲れたら休憩室へ行ってもいいのだから。』
『お気遣いありがとうございます。』
シャロンの笑顔が本心であると見て、ウィルフレッドはほっとした様子で微笑み返してから青い瞳をアベルへ向ける。冷えた目をした弟と視線が合うと、ぐっと堪えるように唇を閉じ、目をそらして呟いた。
『……お前も、彼女に無理をさせないように。』
『…さぁね。』
『アベル。』
『わかってる、大事に扱えばいいんでしょ。』
ふ、と口角を上げたアベルにウィルフレッドはまだ何か言いたげだったが、もう曲が始まってしまう。
双子の王子は互いに背を向け、距離を取った。
音楽が流れ出す。
「さぁね」などと言った割に、アベルのリードは丁寧だった。
腕を少し痛め、脚も疲れているシャロンに負荷がかからないよう配慮されている。どう動けばよいかは触れた手や腕から伝わるので、ジークハルトの時と違い、必死に相手のタイミングを窺う必要もない。
お礼を言おうと思ったシャロンがアベルを見ると、彼は不機嫌そうに眉根を寄せていた。行動は優しいのにそんな顔をしているのがちぐはぐで、シャロンは思わず微笑む。
『ふふっ。』
金色の瞳がじろりとシャロンを見下ろした。冷ややかな目をしているのに、まったく恐ろしくない。
『…何。』
『気を悪くしたならごめんなさい。貴方が優しいものだから、なんだか胸が温かくなって。』
『は?…意味がわからない。』
アベルは眉を顰めたまま困惑した様子で目をそらした。
第二王子に微笑みかけたシャロンを見て、ダンスに参加していない客達がヒソヒソと囁き合っている。
『それより君、もう少し大人しくできないの。会う度に誰かしらに絡まれてるよね。』
シャロンから目をそらしたまま、アベルが文句をつけた。
オークションハウスでは牢に入れられ、祭りでは人攫いに目をつけられ、今はジークハルトに捕まっていた。ほんの二、三か月の間でそれだけの目に遭う令嬢もなかなかいないだろう。シャロンは「確かにそうね」と眉尻を下げる。
『ジークハルト殿下は、割と良い人だったけれど。』
『…本気?』
『ダンスはちょっぴり大変だったわ。速くて気まぐれなんだもの。』
アベルは訝しげにシャロンを見たが、彼女はくすくすと笑っている。
帝国の皇子であるジークハルトの横暴を笑って済ませるとは、流石はあの公爵の娘と言ったところか。粗雑な扱いのダンスは、普通の令嬢ならついていけずに泣き出してもおかしくなかった。
『貴方の事を随分と気に入っていらしたわ。私に、お前が捕まえておけ、なんて仰って。』
『……ありえないでしょ。』
アベルにとって、シャロンはウィルフレッドの婚約者だ。
侯爵家の令嬢と踊る兄を見ながら否定すると、シャロンからは小さく「そうね」と返ってきた。ウィルフレッド同様、彼女もまた、アベルが二人の約束を知っている事を知らない。
――いつまで内緒にしておく気なんだかな。
さっさと正式なものにしてしまえばいいのに、二人は未だ周囲には隠しているようだった。
だからと言って、アベルがポケットに入れている物を何の憂いもなく渡して良いという事にも、ならないのだけれど。
一昨日、シャロンの弟が「あねうえとおなじいろ!」などと店に駆け寄ったのが悪いのだから、彼が気絶したままならこうはならなかったのかもしれない。
シャロンは露店に並んだ品から一つだけ気にかけていたが、流石にそこでアベルから金を借りてまで買うような性格はしていない。二人を騎士団の駐屯所へ送り届けたアベルが、迂闊にもまたその露店の前を通りさえしなければ……
『アベル?』
声をかけられて、アベルはシャロンを見た。
薄紫の瞳はシャンデリアの明かりを受けて煌めき、今はアベルだけを映している。
『どうかしたの?』
『……別に。』
僅かに眉根を寄せて、アベルは目をそらした。




