138.初めてのダンス
国王、ギルバートが開会の挨拶を述べる間。
ツイーディア王国の貴族達は密かに来賓、特に王子達へ視線をはしらせていた。
楽団も提供した平和主義の隣国、ヘデラの第二王子ナルシス。
艶やかなプラチナブロンドの髪をリボンで結い、中性的な麗しい顔立ちは誰もが見惚れてしまうような微笑みを絶やさない。王家全体で溺愛しているらしい第一王女の話題を除けば、礼儀正しく穏やかで話しやすい王子だ。
伝統舞踊と織物の国、ソレイユの第三王子リュド。
本人の性格を表すように跳ね広がった黄色のポニーテールを揺らし、開会の挨拶の最中だというのに、ビュッフェの料理を次々と自分の皿へ乗せている。通訳らしい従者がおろおろと周りの冷たい視線に頭を下げているが、注意する様子はない。
満足げに笑うリュドの笑顔は、それを見る者もついつられて笑ってしまうような明るさがあった。
そして、最も視線を集めたのはアクレイギア帝国第一皇子――ジークハルト。
燕尾服の内側に着たベストは白く、かの国においては「今は」戦う気がないという意思表示の一つだ。自信に満ちた笑みと引き締まった身体は見る者を畏縮させ、何よりもその瞳の特異さが人々を遠ざける。彼の機嫌を損ねればどうなるかわからない。帝国の人間を除けば、ジークハルトの周りだけ空間が空いていた。
「始まるぞ。」
ギルバートの挨拶が終わり、響き渡る拍手の音に隠してアベルは呟く。シャロンは「えぇ」と短く返して、差し出された手のひらに自分の手を重ねた。口元には微笑みを浮かべ、一挙手一投足全てに気をはらう。
ギルバートとセリーナ、ウィルフレッドとイェシカ、アベルとシャロン。
三組がフロアへ降りて向かい合うと、自然に音楽が流れ始めた。
ツイーディアの国王夫妻はいつでも完璧だ。
慣れた様子で互いに微笑み合い、今更言葉すら不要といった様子で静かに踊っている。
特務大臣エリオット・アーチャー公爵からすれば、ギルバートは緊張して何を喋っていいかわからないだけであり、セリーナは気を失わない事に必死で声も出せないだけだったが。
第一王子ウィルフレッドの相手は背も年も上のイェシカだが、どうも彼女よりはウィルフレッドの方がダンスに慣れているようだった。タイミングが僅かにズレてもさりげなくフォローし、穏やかな微笑みも崩さずに上手くリードしている。時折会話も挟んでおり、距離感も踊りやすく、かつ失礼にならない程度を保っていた。まさに理想的な王子の振舞いだ。
見る者の多くを驚かせたのは第二王子のペアだった。
悪い噂の絶えない、そしてにこりとも笑わないアベルを相手に、特務大臣の娘シャロンは花のような笑顔を見せている。さすが筆頭公爵家ともなれば作り笑いも堂に入っている、などと囁く者もいたが、二人はずっと互いを見つめ、何か話しながら息の合った動きを見せていた。
「あちゃー…すんごい目立ってるけど、あれ二人共気付いてないなぁ。」
「えぇ、少なくともご令嬢はそうでしょうね。」
「アベル様も気付いてないって。あの人こういうトコ鈍いんだから。」
やれやれと息を吐いたチェスターの腕を、サディアスが肘で押しやった。どこかへ行けという事らしい。返事はしてくれるんだから律儀だなぁと思いながら、チェスターはサディアスの視界に入るようひらりと手を振った。
「サディアス君も後で誘ってあげてね☆」
「…わかっています。」
「あらあら、仲良しさんなのねぇ。」
夫の横でのんびりと微笑みながら、ディアドラ・アーチャー公爵夫人は目を細めた。
第二王子と踊っているのがどこの娘なのかは、その特徴的な髪と瞳の色で誰しもが理解している。あちこちから向けられる視線に気付きながら、エリオットは眉間に深く皺を刻んでいた。
「あの子は、殿下に幾度か救われているからな。」
「事件に巻き込まれやすいのは、貴方に似たのかしらねぇ。」
もういくつ危ない事になったかしらと、ディアドラは白く細い指を一つずつ曲げ始める。エリオットはアベルとシャロンをじっと凝視したまま、少し青ざめた顔で呟いた。
「……ちょっと、ちょっとばかり、距離が近過ぎないか?なぜずっと目を合わせてるんだ?何を話して…」
「まぁ、貴方ったら。野暮ですよ。」
「ぐッ…きっと礼を言っているだけだ、礼を……」
――楽しい。
くるりくるりと回って腕を広く伸ばし、繋いだままの片手に引き寄せられてアベルの元へ戻る。最初は緊張していたものの、シャロンの身体は今や勝手に動いているかのようだった。触れた手で、視線で、ほんの僅かな仕草でタイミングが感じ取れる。自然と動きが伴っていく。
その心地よさに微笑みを深めて、シャロンは囁いた。
「あぁ、すごく楽しいわ。ずっと踊っていたいくらい。」
「君が自重できる人でよかったよ。本当はもっと広く踊りたいんでしょ。」
「やっぱりわかってしまう?貴方とだもの、思いきり動けたら素敵だなと思って。」
「…またいつかね。」
仕方ないなと言うようにふっと笑ったアベルに、会場が一瞬ざわめく。それを聞きつけたアベルは即座に笑みを消して眉を顰め、シャロンがくすくすと笑った。
笑われた事に納得がいかないのだろう、じろりと見下ろしてくる金の瞳は拗ねているようにも見える。
「ふふ、ごめんなさい。」
「……別に。」
シャロンがこうして笑っているという事は、少なくとも今は、ウィルフレッドとイェシカの事を不安に思っていないはずだ。
それでいいと、アベルは宝石のような彼女の瞳をじっと見つめる。シャロンもまたアベルを見つめ、少しだけ眉尻を下げて微笑んだ。
「私は幸せになれると、貴方は言ったけれど。」
二日前、女神祭の初日の事だ。
アベルは黙って言葉の続きを待った。心優しいシャロンはきっと、その時と同じ事を言うのだろう。「貴方がいなくならないか不安だ」と、「皆で生きていきたい」と。
しかし、アベルが思う結論は変わらない。
――ウィルがいれば、お前は大丈…
「幸せになるなら、貴方と一緒がいい。」
「――失礼。」
短く断りを入れ、アベルはシャロンの腰を支えてふわりとその身体を浮かせた。くるりと回る間に足下で何かを蹴り飛ばし、何事も無かったかのようにシャロンを着地させ、手を組み直す。
明らかに予定にない動きだった。ダンスを続けながら大きく場所を移動し、アベルはギルバートとウィルフレッドにちらりと目で合図する。
ざわめく客の中で一人の男が舌打ちして移動を始め、近場にいた騎士が静かにその後を追った。
アベルの動きに見事についていきながら、シャロンはきょとりと目を丸くする。
「何かあった?ごめんなさい、気付かなかったわ。」
「君からは死角だった。…気にしなくていい。転ばそうとしてきただけだ。じきに捕まる」
「そうだったの。ありがとう、アベル。」
「大した事では……」
信頼しきった目で見上げてくるシャロンを見つめ、アベルは言葉に詰まった。
緊急の対処を終えたら、会話に戻らなくてはならない。記憶から直前の彼女の言葉を思い出し、落ち着いて意味を咀嚼する。あくまで冷静に。
――正確には、幸せになるなら(ウィルだけではなく、義理の家族となる)貴方(も友達も、皆)と一緒がいい…だろう。……うん。間違いなく合っている。
「…君はつまり、皆で生きていきたいのだから、僕にも居ろと言ってるわけでしょ。」
「そうよ。」
「強欲だな。」
「えぇ。」
アベルは視線を外し、ため息を――正確には、ほっと安堵の息を――吐いた。
目を戻すと、シャロンは僅かに眉に力を込めている。
「貴方は、まるで自分はいなくてもいいという風に言ったわ。」
「そうだね。」
「私はちょっと…それなりに……結構…だいぶ悲しくて、怒ったのよ。」
「…それは失礼。」
「だからどうか、覚えていてね。」
もう、曲が終わる。
最後にもう一度くるりと回り、片手を繋いだまま少し離れ、互いに礼をした。会場から拍手が沸き起こる。顔を上げ、退場のエスコートのために再び近付く。
鳴り響く拍手の中、シャロンはアベルを見つめて花がほころぶように微笑んだ。
「皆、貴方が大好きなの。居てくれなくては困るわ。」
「……そう。ありがとう。」
「…頑固ね。」
「うん」
強欲と言った事への返しだとわかっていて、アベルは目をそらしながらも素直に頷いた。
ギルバートとセリーナは専用の席へと向かい、イェシカはやはりここでダンスから外れるらしく、ウィルフレッドが彼女の叔母であるビビアナの席へと案内している。
二曲目からは自由参加のダンスだ。
視界の端で次々とペアが決まっていく。アベルは当然シャロンをウィルフレッドの元へ送るつもりだったが、会場が大きくどよめいて振り返った。
「そこの。…あァ、お前だ。」
朱色の髪に、瞳孔の目立つ白い瞳。
鋭い歯を見せてにやりと笑い、ジークハルトがシャロンに手を差し出している。
「次は俺と踊ってもらおうか。」
シャロンは一瞬驚いて目を見開いたが、すぐに微笑み返して頷いた。
「光栄です、第一皇子殿…下……」
声が尻すぼみになりながら、ぱちりと瞬いて隣に立つアベルを見上げる。
エスコートのために乗せていた手が僅かに握られたからだ。金色の瞳はシャロンではなくジークハルトを見ている。
「彼女、次はウィルと踊る予定なんだけど。」
「それはお前が決める事ではあるまい?盛り上がりに欠けるなら、取り合いをしてやっても構わんが。」
「ダンスのお誘い、慎んでお受け致しますわ。」
会場の視線が集中している事は嫌でもわかった。
シャロンは片足を下げて軽く腰を落として礼をすると、アベルの手をそっと握り返す。大丈夫だと言うように。
「私は特務大臣エリオット・アーチャー公爵が長女、シャロンと申します。」
「そうか。では借りるぞ、アベル。」
「……ジーク、何のつもりだ。」
シャロンの手をするりと離しながら、アベルはジークハルトに問いかける。
離れた場所でウィルフレッドも驚いているのを確認し、ジークハルトは悪戯っぽく笑ってシャロンの手を握った。
「そう睨むな、余興だ。」
ちらりと目線で示した先では、妻をエスコートしながらも険しい顔でこちらを見るエリオットの姿がある。
アベルは眉根を寄せてため息を吐くと、シャロンと目を合わせて一つ頷いた。シャロンもにこりと微笑みを返し、ジークハルトと共に再びダンスフロアの中央へと戻る。周りのペアが関わりたくないとばかりに離れていった。




