135.持て余した物 ◆
親善試合の後。
『なぜ何もしなかったんだ?ウィルフレッド殿下。』
薄い笑みを浮かべて、ジークハルトは優雅に首を傾けた。
護衛騎士のヴィクターと共に演習場を出ようとしていたウィルフレッドは、彼の声を聞いて立ち止まる。振り返ると、薄暗い廊下の壁にかけられた燭台の灯火が、白い瞳を怪しげに光らせていた。
『どういう意味でしょうか、ジークハルト殿下。』
『お前は光が最適だと昨日言っていただろう。俺はわかりやすく「闇」と言ってやったはずだが?』
『……まさか、俺を挑発するために魔法を?』
『くく、相手にされなくて悲しかったぞ。』
ジークハルトはからかうように言う。
ツイーディア王国の第一王子は、握りしめた拳をぶつけてくるほど馬鹿ではない。しかし弟を狙われて立ち上がりもしない――それはきっと賢いのだろうが、ジークハルトにとっては愚か者だ。
薄い唇を開き、蔑みの形に歪める。
『アベルを助けようとは思わなかったのか?』
ウィルフレッドの眉が僅かに動いた。
ジークハルトに敵うとは思っていないのだろう、冷静に言葉を返そうとしている事が手に取るようにわかる。本当に「賢い」事だとジークハルトは目を細めた。
『弟も騎士達も優秀ですから。実際、俺の助けなど不要だったでしょう。』
『不要?…これはまた、随分と意味のない事を言うものだな。』
――不要かどうかなど、関係がないだろうよ。
『……意味がないとは?』
『あァ、俺とお前は合わんという話だよ。ふん、つまらん』
ウィルフレッドに興味が失せたのか、ジークハルトは笑みを消す。気だるげに視線を外してため息を吐き、白いマントを翻らせて背を向ける。
『さっさと身を引いてアベルに譲るのだな。賢いお前なら、それくらいできるだろう。』
ジークハルトにウィルフレッドの返事を聞く気などなかったが、声の届かない距離まで来るともう一度短く息を吐いた。第一王子殿下はつくづくお利口さんのようだ。
まだ短時間しか会っていないものの、あの双子の関係が悪い事はよくわかった。
劣等感に苛まれる兄を、弟が黙って守っている。
サシで腹割って話す事がないのかお前らは、と思いもしたが、他国の王族にそこまで言ってやる義理も必要もない。
ジークハルトとて、ツイーディア王国を全面的に信頼するつもりはないのだから。
遠ざかる足音が消えてもその場を動けずに、ウィルフレッドは拳を震わせていた。
『……ウィルフレッド様。』
『…大丈夫だ、ヴィクター。あんな正論は慣れてるよ』
ゆっくりと拳を解き、深呼吸をする。
アベルの方が優秀だという事など、誰よりもウィルフレッド自身が理解していた。
魔力があれば、横暴な振舞いをやめてくれれば、先に生まれていれば、誰も文句のつけようがない立派な王になっていたはずだ。
『……助けようと、思わなかったのか……』
囁きにも満たない小声で、ジークハルトの問いを繰り返す。
自嘲の笑みが浮かんだ。
――俺に何ができる?アベルより弱い俺が、どうしたら助けてやれるって言うんだ。ジークハルト殿下の攻撃だって、あっという間にアーチャー公爵が止めてくれていた。俺が何をしても無駄で滑稽なだけだっただろう。あいつが冤罪をかけられた時もそうだった。俺はヴィクター達に迷惑をかけただけで、結局何もできなくて……アベルに、俺の助けなんていらないじゃないか。
『アベル殿下』
ヴィクターが呼んだ名前に、ウィルフレッドは反射的にそちらを見た。
ジークハルトにつけられた傷も治り、騎士服から着替えたらしいアベルがこちらへ歩いてくる。急いだのか雑なのか、ベストのボタンは開けっ放しで上着は脇に抱えていた。
『ウィル、何してるの。演習場にはもう用が無いでしょ。』
『別に何も。』
ジークハルトに呼び止められた事は言わないでくれと、ウィルフレッドはヴィクターに目で合図する。アベルは僅かに片眉を上げた。
『へぇ?そう。じゃあ早く行きなよ。』
『お前に言われなくてもわかってる。……あの皇子に街を案内するの、止めておいた方がいいんじゃないか。問題でも起きたら…』
『彼なら大丈夫だ。気にしなくていいよ』
ちらりと周囲に視線をはしらせ、アベルが少し早口に言う。ウィルフレッドは眉間に皺を寄せた。
『随分、信頼してるんだな。』
『なんとなく人柄は把握できたし、……あぁ。人殺し同士、気が合うのかもしれないね?』
『っ、お前……!』
なんて事を言うんだと目を瞠るウィルフレッドに、アベルは冷たく微笑みかける。
『だから僕に任せておけばいいよ。元々、僕が彼の担当って話でしょ。……ウィルには関係ない。』
最後の一言だけ笑みを消して、アベルはウィルフレッドの横を通り過ぎた。ジークハルトの方へ向かうのだと気付き、ウィルフレッドは顔を歪める。
『どうして、そんな言い方をするんだ……』
掠れた声で呟いても、振り返る事はできなかった。
アベルもまた、兄の声が聞こえていながらも足を止めない。
――お前は、優しい奴のはずなのに。どうして……
上着の胸元を固く握りしめるウィルフレッドを、振り返らないアベルを、ヴィクターは黙って見つめていた。
◇ ◇ ◇
第二王子の私室にて。
机の前に置かれた椅子に腰かけ、アベルは目を閉じて腕を組んでいた。
「………。」
片目だけぱちりと開いて、机の上を見る。
明らかにアクセサリーが入っていますという見た目のケースに、リボンが巻き付いている――正確に言えば、ラッピングされた長方形の平たい箱が置かれていた。
アベルは再び目を閉じる。
――………何で買った?
昨夜から続いている問いを、改めて自分に問う。
アベルがこれを買ったのは昨日、つまり女神祭の初日の事だ。騎士団の駐屯所でシャロンと別れた後、迂闊にもまたあの露店の前を通ってしまった。
ただ、店主が勧めた中で一つだけはじっと見ていたなと、そう思っただけだ。
ほんの一瞬、そう思って見やっただけのこと。その「一瞬」が店主にしてみればたっぷり五分間の凝視であった事など、アベルには知りようもない。
ひたすら勧めて話しかける言葉を全て無視され、困り果てた末にチリチリと鈴を鳴らして「包みます」と言った彼を誰も責められないだろう。
アベルにしてみれば、ちょっと見ただけなのに店主が勝手にネックレスを包み始めたのだ。それも「あのお嬢様へのプレゼントですよねェ」などと言いながら。
『は……?僕は買うなんて言ってないけど。』
『えェ!?それだけ見ておいて!?つれない事言わないでくださいよお坊ちゃまァ!』
『何で手を止めないんだ。』
てきぱきと準備を進める店主に眉を顰めると、サングラスの奥にある目を生温かく細められた。
『泣かせちゃったんでしょう…?「物で釣れると思わないで!」なんて子だとまずいですけどね、誠意がこもってれば大丈夫!』
『だから、僕が泣かせたわけでは』
『駄目ですよ、駄目駄目!な~に自分は悪くないと思ってるんですかァ!これだから男は。』
『……お前も男だろう。』
アベルはぼそりと文句を言ったが、店主はすっかりラッピングを終えてにこやかに金額を告げてきた。当然、アベルは元よりシャロンにとっても些細な金額だ。
それはそうだが、しかし。
――…なぜ俺がこれを買う流れになってるんだ。
『ね、お坊ちゃま。笑顔でいてほしい人には贈り物が一番です。』
『……だからってアクセサリーは…』
『いいじゃないですか、見たところ坊ちゃまの色が入ってるわけでもなし!お嬢様、またにします…って言ってたでしょう?いつ売れちゃうかわかりませんからねェ。』
『本当に欲しいなら、使用人にでも買いに来させるでしょ。』
『だァ~~もう!プレゼントって理屈じゃないんですよ!まごころ!女の子の涙を見ておいて、心が痛まないんですか?』
なぜ自分は怒られているのか。
アベルが眉を顰めて黙ると、店主は露店から抜け出して包みを押し付けてきた。チリチリと鈴を鳴らし、もう一度金額を言う。
『とりあえず買いましょう、渡すかどうかは後回し!じっくり考えてからで大丈夫なんですから。』
ね、ね、ね!とグイグイ押し付けてくる店主を前に、アベルは考える事を放棄した。
些細な額を気にしているわけでもなし、確かに考えるのは後でいい。これ以上ここで時間を潰す方が無駄だ、と。
――だからって、何で買った?
回想を終え、アベルは金色の瞳を箱に向けた。
王子である自分が考え無しに令嬢へアクセサリーを贈るのはまずい。それも、将来ウィルフレッドの妻になるシャロンなら余計にだ。
いっそウィルフレッドに回そうかとも一瞬考えたが、流石にそれが非常識という事はわかる。
――……無かった事にするか。
捨てるか引き出しの最奥にと思って箱に手を伸ばし、ぴたりと止まる。
もしかするとシャロンは今日、あの露店を訪れてネックレスが無い事に落胆したかもしれない。店主はアベルに気を遣ったつもりで、購入者を言わないかもしれない。あるいは、「そのうちプレゼントがあるかもしれませんよォ!」などと余計な事を言っているかもしれない。
あの店主ならやりかねない。
アベルは伸ばしかけた手を拳にし、机に置いた。
完全に持て余している。
――もし…もしもだ。渡したらどうなる?
恐らくシャロンは喜ぶだろう。
贈り主は関係なく、プレゼントというだけで、純粋に。顔を合わせる時に身に付けてくるかもしれない。しかし事前に会う事がわかっている場となると、ウィルフレッドもいる可能性がある。
アベルの脳裏に、笑顔で歩み寄る二人の姿が浮かんだ。
『こんにちは、ウィル!』
『シャロン、こんにちは。今日も君の笑顔は素敵だね。…そのネックレスはどうしたんだい?』
『アベルがプレゼントしてくれたのよ。ね、アベル!』
『…お前、一体どういうつもりで……』
――あぁ、確実にそうなる。
今までの経験、特に狩猟の日に純白のドレスを着せられたシャロンと、それを見たウィルフレッドの反応からしてかなりの確率だとアベルは考える。
ドレスはまったくの誤解だったので問題なかったが、今回はそうもいかない。たとえ経緯を正直に話しても、僅かにでも疑念が残れば厄介だ。
――シャロンに、俺の事は内緒にするよう言うか?なぜくれるのかと聞かれたらどうすればいい。
ちょうど、ロイ達のペンダントの問題がある。その検証実験のために買ったと言えばよいかと考え、心の中で首を横に振った。
彼女はこれを「良い品」と言っていたのだ。そんな物を実験用にするのはよろしくないだろう。
渡すべきか、渡さないべきか。
――本当に、何で買った。
こんな事で悩むなど馬鹿らしい。
アベルは苦い顔でネックレスを引き出しにしまいこんだ。




