132.帝国の第一皇子
「……まさか本当に護衛を置いて行くとは…」
「くはっ。俺とお前がいて、護衛?ハハハ、笑わせるな。不要過ぎるだろう。」
けらけらと笑い声を上げるアクレイギア帝国第一皇子――ジークハルトを、道行く女性達がちらりと振り返る。サングラスのせいで瞳の色は不明だが、自信に満ちた笑みを浮かべる彼が端正な顔立ちをしている事は一目でわかった。
「もう少しこちらを警戒しなくていいの。」
「俺をどうにかして、そちらに利益があるのか?」
「ないね。」
ジークハルトは軍服の黒いズボンと靴はそのままに、銀刺繍の施された上着と白いマントは脱いでいる。シャツの上から灰色のローブを着て、けれどフードは下ろしたままに街を闊歩していた。襟足だけ腰まで伸ばし、低い位置で一つに結った朱色の髪が、まるで長い尾羽のように優雅に揺れている。
アベルはいつもの下町歩き用の質素なシャツと黒いズボンに、昨夜も使っていた濃紺のローブを着てフードをかぶっていた。二人共帯剣しているが、それはローブに隠れている。
「民の暮らしを見るという事だけど、本気ならそれなりに歩くよ。」
「構わんさ。むしろ、馬車など使っては視界の邪魔だ。」
「…結構。では下町まで足を延ばそう。」
「疲れたら言うがいい。背負うか、あるいは肩車してやらん事もないぞ。くく」
「絶対に疲れないから大丈夫だ。」
不機嫌そうに眉をひそめ、アベルはすたすたと先に行く。
さっさと追いついて隣を歩きながら、ジークハルトは興味深げに街並みを眺めていた。
「俺の弟はな、五人いた。」
店や家の造り、並ぶ品々、道行く人の表情。
何もかもが帝国とは異なっている。
「楽しく戦れれば良いだけの俺と違って、才能のある奴らでね。」
憩いの場として置かれた噴水やベンチ。
そんなもの帝国にはない。
「エリーアスは人を覚えるのが得意だった。誰に何ができて、他の者とどんな関係があるか、いつの間にか情報を拾ってきて頭の中に整理している。将来の帝国の人事は任せろとよく言っていた。」
パレードに使われた大通りは布や花々で飾り付けられている。
恰幅の良い通りすがりの女性に「お兄ちゃん達、格好良いねぇ。女神様の祝福を!」と花びらを振りかけられ、ジークハルトは目を丸くして「…知り合いか?」とアベルを見やった。知り合いではない。
「イーヴォは暗算が得意で、商人と値引き交渉をするのが趣味だった。物価だの経費だのごちゃごちゃ並べ立ててな。そのうち商売を始めて経営を学び、いずれは国の財布を握ってやると豪語していたものだ。俺に任せたら万年赤字だと言ってな。ハハ」
夜は踊る人々に囲まれる女神像の噴水は、今は行き交う人々が時折立ち止まり、祈りを捧げるのみだ。伝統色の青い布を巻かれた女神像をしげしげと眺め、ジークハルトは首を傾げた。
なぜ建国者、初代国王の像ではないのか。実在した、つまり神ではないと知っていてなぜ祈るのか。
「シュテファンは植物が何より好きだった。知っているだろうが、帝国は土地が痩せている。そんな中でも育つ作物を、よりよい肥料を、地質研究を……まだ十歳だったけどな。ずっと調べてくれていた。」
市場にはソレイユ王国の絹織物や、コクリコ王国産の宝飾品、ヘデラ王国の楽器、ロベリア王国の書物まで並んでいる。どれも帝国に入って来るルートが限られる品ばかりだ。鳴らし方のわからない楽器をアベルが代わりに吹いてやると、ジークハルトは真剣な顔で「天才か?」と聞いてきた。
「ヨアヒムは不可思議な絵や彫刻を作る奴でな。意味はまったくわからんが、俺はそれを見るのが割と好きだった。帝国は戦ばかりするから芸術の伸びが悪いのだと、この国はつまらんから早く兄貴が変えろと、よく文句をつけてきた。」
露店で売っていたドライフルーツを数種類摘まみ、ジークハルトは黙って片眉を上げる。好みの味ではなかったらしい。それを見た子供達が井戸水の入ったコップを差し出すと、彼は気さくに礼を言って受け取った。
「リュディガーは阿呆かというぐらいに優しかった。貧富の格差を何とかしたいと、飢えて死ぬ民を減らそうと必死だった。偽善者だの子供の遊びだのと陰で罵られてもな。貧民にも教育を授けるべきだと訴えていた。」
下町の少しでこぼこした煉瓦道を歩きながら、夕暮れの空を見上げる。
見かける人の衣服や所持品、店の品も質素になったものの、笑顔でいる者が多い事は変わらない。酒を飲んで陽気になった男達が、ただ樽と丸太を置いただけのテーブル席で歌っている。
「五人共、武芸の方はサッパリだったがな。教師役を殺して俺が代わってやった途端、全員時間の無駄だから止めたいと言い出した。くく、俺も大賛成でね。好きにしろと言ったんだ。」
人の少ない路地裏を見ると、流石にガラの悪い者達の姿もあった。
しかし帝国にいるそれと比べれば可愛いものだ。ジークハルトがにやりと笑っただけで、関わりたくないとばかりにそそくさといなくなってしまった。「なんだ、つまらん」と言う彼をアベルはずるずると表通りに引っ張り戻す。
「お前が帝国の主なら、欲しい人材だとは思わなかったか?アベル。あいつらは間違いなく、皇帝となった俺を支えてくれたはずだ。」
下町と言えど祭の最中。
広場はランタンの灯で明るく照らされ、以前アベルが訪れた時よりも出店が増えて活気づいていた。ジークハルトは軽やかに建物の屋根へ上がる。さては見世物かと近くにいた人々が驚いた様子で彼を見上げ、どうやら違うらしいと察して視線を戻した。
「ハハ」
鋭い歯を見せ、ジークハルトは快活に笑う。
多少人目を避けて上がって来たアベルを振り返り、サングラスを外した。
「臆病者め、俺の遠征中に全員殺しやがった。」
瞳孔の目立つ白い瞳には、父親への静かな殺意が浮かんでいる。
実行したのは五人の将軍だが、命令したのは皇帝で間違いなかった。ジークハルト自ら問い詰め、父もそれを認めた。不要だから殺させたと。皇族として生まれながら、十歳を越えてなお、殺されるほど弱い方が悪いのだと。
「――あぁ、だから俺は殺すとも。あいつらが殺されたやり方で親父殿を殺す、あいつらが望んだ帝国の姿を実現させる。当然だ。」
ジークハルトの笑みを、アベルはただ見つめていた。
話す言葉に嘘偽りがない事はわかっていた。事前に調べさせた情報とも合致している。報告の中では、
「俺は、兄なのだからな。」
第一皇子の真意だけは、掴めなかった。
弟を殺され、妹の殆どは城を追い出されて平民に落ち、それでも彼は笑っていたらしい。
その意味を今、アベルは理解した。
ジークハルトはただ、嘆くより早く敵を見定めた。それだけの事だったのだ。
「……なぜ、そこまで僕に話す?」
「数年不在にするのだろう?今の内に俺を知ってもらわねば、お前に誤解があると厄介そうだ。」
「陛下には伝えなかったのか。」
「あぁ、お前の親父殿は……あれは中々食えん男だな。様子見のつもりで、皇帝は殺してやるから安心しろとは言った。くく…他の連中が目を剥いて驚いてな。それなりに見物だったぞ。」
ツイーディア国王、ギルバートだけは僅かたりとも動じなかった。
ジークハルトの白い瞳を真っ向から見据え、しかし何一つ悟らせない。これは帝国の宰相が苦労するはずだと声に出して笑ったものだ。
「お前と二人での外出が許された時点で、最低限の信用を得たと俺は思っている。そちらが俺を見定める意味もあるだろう?互いのためにペラペラ話したというわけだ。」
「……それはどうも。」
「皇帝殺しは俺がやる。お前達ツイーディアはただ、それを待っていればいい。」
瞳の色を隠すサングラスをもう一度かけて、ジークハルトは広場を見下ろした。
人々の間を縫うようにして路地裏へ駆け抜ける男と、何か叫びながらそれを追う少年がいる。後方からも一人、小柄な少年が後を追っているようだ。
「レオ」
アベルが呟いた。
鉢巻のようにバンダナを巻いたこげ茶頭が、懸命に男を追っている。足の速さは互角のようだ。
「なんだ、知り合いか?手伝ってやろうか。」
「僕が行くから、少し待っ」
「行くかァ!」
待っていろと言い終えるより早く、ジークハルトは楽しそうに笑いながら飛び降りてしまった。屋根に上がった事といい、派手に身体を動かす事に飢えていたのかもしれない。アベルは眉を顰め、続いて飛び降りた。
大人しそうな家族の露店を狙った。
たまたま近くにいたらしい少年が正義感で追ってきていたが、それだけ撒けば問題ないだろう。職に就くのが面倒で親の脛をかじり、時々小遣い稼ぎにスリを働いてきた。もし追いつかれそうになったら盗った金を投げつけて、自分はひとまず逃げれば――…
「呆気ないな。つまらん」
身体中に痛みを感じながら、男は自分の身に何が起きたかを考えていた。
呻き声を上げつつ記憶を辿る。走っていたら誰かが上から降ってきて、そちらを見ようとした瞬間には身体が空中で回転していた。金の入った袋はもちろん無意識に手放しており、くしゃりと地面に激突した男の側で、カチャンと音を立てて誰かが袋をキャッチした。
「すげぇな、あんた!今何が起きたんだ!?」
琥珀色の瞳をきらきらと尊敬の念で輝かせ、レオが駆け寄って来る。ジークハルトの側にアベルが降り立つと、目を丸くして二度見した。
「アベ…ん゛んッ、えーと、えーと…そう、アンソニー様!」
ずび、とアベルを指差してしまい、レオはハッとして自分の人差し指を曲げた。第二王子殿下を指差すのは失礼だ。
まるで一人芝居のような様子を見て、ジークハルトはけらけら笑いながら金の入った袋を放る。
「おぁ、っと。ありがとうな、お兄さん。そいつスリなんだ。」
無事に受け止めたレオが男の方を見ると、アベルの手で無慈悲にも気絶させられるところだった。
できる限りジークハルトについての記憶を薄くしなければならないし、手元に縄もなければ騎士もすぐ近くにはいない。
アベルは小さくため息をついてジークハルトを見やった。
「ジル、もう少し待てなかったの。」
「くはっ!ジル!?ハハハハ、それは俺の事か?いいだろう、ッハッハッハ!」
「な、何だ?どうしたんだ?」
「気にしなくていい。」
腹を押さえて笑うジークハルトを放置し、アベルはレオの後ろから駆けてくる人物を見やった。白い髪をおさげに結った、少年のような格好をした少女――カレンだ。
これはどういう状況なのかと、赤い瞳できょろきょろとジークハルトとレオ、アベルを見比べる。
「はぁ、はぁ……レオ、えぇと、アンソニーが助けてくれたの?」
「そこのお兄さんが倒してくれたんだ。アンソニー…の連れって事でいいのか?」
カレンが来た事で敬語を止め、レオが首を傾げる。
アベルは頷いて二人に事情を聞いた。どうやら、男はカレンの露店から金を盗んだらしい。ちょうど通りかかったレオが慌てて男を追ったというわけだ。
「ありがとうございました、助かり…ッ!」
走る内にフードが脱げていたと気付き、カレンは慌てて隠すようにフードを深くかぶった。
「すみません!…あの、助かりました。」
「あァ?何を謝ったか知らんが、気にするな。ついでだ」
少年ではなく少女だったかと思いながら、ジークハルトはカレンの頭をぐしぐしと撫でる。フードはずれるし髪は乱れるしで戸惑ったカレンが見上げると、彼は腰を折り視線の高さを合わせていた。
長い指がサングラスを下げ、白い瞳が赤い瞳に映る。
「揃いだな。」
カレンが呆気に取られる数秒の間に、ジークハルトはにやりと笑ってサングラスを押し戻し、彼女の頭から手を離した。レオはちょうど色が見えなかったのか、「気さくな兄さんだな」とアベルに話しかける。
「そういや、帝国の皇子も来てて大変なんだろ――ああいや、大変、なんだろうな?城の人達って。シャ…ルイスに聞いたぜ。ジーンハルト第一皇子だっけ。」
「ぶはっ、ハハハハ!」
ジークハルトが腹を抱えて笑い出し、耐えきれなかったのかそのまま地面に膝をついた。レオは目を丸くして首を傾げ、カレンは硬直してジークハルトを見つめている。
「……はぁ。」
こめかみに手をあて、アベルはため息を吐いた。




