130.完璧な夫婦
「ん……」
長い睫毛がそっと開かれ、青い瞳が見慣れた自室の天井を映す。
窓から差す日が普段より高い事に疑問を覚え、王妃――セリーナ・レヴァインは身を起こした。腰に届く艶やかな黒髪がさらりと揺れる。
「お目覚めになりましたか、殿下。」
室内で待機していた女性の近衛騎士が声を掛けた。
セリーナは彼女を見て、はっとしたようにベッドを降り立ち上がる。貧血で倒れてはいけないと、近衛騎士は慌てて駆け寄りセリーナの肩を支えた。
「アベルは、アベルは無事なのですか!」
「ご無事です。試合後にお会いになっております。覚えていらっしゃいますか?」
「…わたくしは……」
ベッドへと座らされながら、セリーナは額に片手をあてた。
言われてみれば確かに、傷一つない息子の姿が記憶にある。セリーナの黒髪と夫の金色の瞳を受け継いだ、大切な次男の姿だ。夫に似てちょっぴり癖っ毛なのが最高に可愛い。撫でまわしたい。
彼は何か言おうと口を開いたが、ほっとしたセリーナが涙ながらに息子を抱きしめる方が早かった。
そして気絶した。
「……ひ弱なこの身体が、恨めしいこと。」
細い眉を不快そうに顰めて、セリーナは悩ましげなため息を吐いた。
安堵して緊張が解けた事もあるが、あの帝国の皇子と試合をして互角だったという我が子が誇らしく、そして抱きしめた身体つきの成長ぶりに感慨深くなり、駆け寄ったセリーナの勢いに負けず受け止めてくれた息子が頼もしく、色々と耐えられなかったのだ。
「御身はそのまま、第二王子殿下がここまで運ばれました。」
「まぁ……。」
セリーナはますます眉を顰めた。
母を部屋まで送れるほどに大きくなったとは、息子が抱えて運んでくれたとは、意識を保てなかった事が本当に残念でならない。そんな格好良い息子の姿なら是非見たかった。
気つけの薬を飲みながらであれば、意識を保てるだろうか。
そんな事すら真剣に考えながら、セリーナはちらりと壁掛け時計を見上げる。今日は大事な茶会の日だ。よほど間に合わない時間なら強引に起こしてくれただろうから、まだ問題ないとはわかっているものの、少々不安だった。セリーナが起こしたミスは夫であるギルバートの評判にも関わってしまう。
「陛下は何か仰っていましたか。」
「は。…帝国との事は、何も心配いらないと。」
「そうですか。」
近衛騎士と会話を続ける間にも、控えていた侍女達が静かに身を整え、水を飲ませ、脈に異常がないかどうかを確認する。
セリーナは冷ややかに目を細めた。
――どうせ、エリオットには話しているのでしょう。
エリオット・アーチャー公爵とギルバートは、セリーナが二人と出会うより以前からの付き合いだ。いわゆる幼馴染みであり、学園に入る前から主従関係であり、その絆は固い。
だからといってセリーナをのけ者にするのは断固反対であるし、男の友情は特別だなんだと言う輩もいるけれど、知った事ではない。
先日など、夫が息子二人を呼び出したと聞いてそっと覗き見に行ったら時すでに遅く、息子達はいない上にギルバートとエリオットが二人で仲良くお喋りしているという状態だった。
――なぜ、わたくしを混ぜないのですか!!ギルバート様!エリオット!!
手にした扇子をつい握りしめてしまい、侍女の一人が怯えたように視線を彷徨わせた。
エリオットを呼び出してチクチク問い詰めた事もあるが、「文句を言うなら、まずギルとにこやかに落ち着いて話せるようになれ」と言われてしまった。彼は学生時代からそう言ってくるのだが、それができていれば苦労はしない。
――自分は陛下と普通に話せるからって!ああずるい、ずるい!!
コンコン、とノックの音がする。近衛騎士が静かに何者かを問うた。
「王妃殿下、アーチャー公爵夫人がお着きになられました。」
「通しなさい。」
すぐに了承し、身支度を終えたセリーナは侍女達を下がらせた。
茶会に向けて伝統色の淡い青色をあしらったドレスは、ギルバートの色である金の刺繍を施している。少し薄い色合いの糸を使う事でギラギラした派手さはなくし、清楚に品良く仕上げていた。癖のない柔らかな黒髪は緩く編み込みを作ってツイーディアの花飾りを添え、冷淡に見えがちなセリーナの印象をやわらげている。
「王妃殿下、本日もご機嫌麗しく。ディアドラ・アーチャー、只今参りました。」
現れた公爵夫人の姿を見て、近衛騎士が小さく息を呑んだ。
麗しい薄紫色の長髪は後頭部で高く結い上げられ、髪留めにはセリーナと揃いの花飾りがあしらわれている。夫人は穏やかに微笑んでいるのに、髪と同じ色の瞳はどこか神聖的な冷えた輝きがあった。そう思わせるのはきっと、彼女が騎士服に身を包んでいるからだろう。
「仕立てが間に合ったのですね。ディアドラ」
セリーナが満足そうに口角を上げた。
王国騎士団の制服は、女性騎士もスカートではなくパンツスタイルだ。それはそのままに、上着の裾や袖口にセリーナのドレスと揃いのレースやフリルをあしらっている。帯剣ベルトにはかつて彼女が部隊長を務めていた時に愛用していたものを納めていた。万一のために、今でも手入れは欠かしていない。
「えぇ、なんとか。殿下のご依頼ですもの、なんとか押し通しましたわ~。」
「わたくしの護衛も兼ね、茶会の間は必ず側にいるのですよ。」
「はい、承知致しました。」
かつて騎士だったとしても、既に引退したディアドラがドレスでなく騎士服で出席するなど、王妃本人の許可がない限りはとんだ無礼者だ。護衛を兼ねるという一言で、近衛騎士はようやく納得した。
しかし、なぜ?
茶会とはいえ、護衛のための騎士は配備されている。不安なら騎士団から人を増やせばよい話であり、わざわざディアドラに頼む必要があるのか。
「ふ……」
長い睫毛に縁どられた目を細めて、セリーナは見る者がぞっとするほど美しく微笑んだ。
「アーチャー公爵も、陛下も…少しはわたくしの身になればいいのです。」
…。
「殿下。」
ついこめかみにあてた片手を腰の後ろへ戻し、近衛騎士は声をかけた。
「なんですか。」
「どういった目的で、アーチャー公爵夫人に護衛を?」
「決まっているでしょう。見せつけるのです。」
閉じた扇子で自分の手のひらをぱしんと鳴らし、セリーナは素早くディアドラへ歩み寄り、彼女の腕をとって扇子を開いた。
「わたくしとディアドラの仲の良さを!」
絶対零度の冷笑に見えるが、セリーナ渾身のどや顔である。
ディアドラは白手袋に包んだ手を片方、自分の頬にあてて首を傾けた。
「あらあら、照れてしまいますね。」
「茶会には途中、陛下はもちろん公爵達も顔を出しますからね。ディアドラ、社交を疎かにせよとは言いませんが距離に気を付けること。陛下が現れたらすぐにわたくしの隣へ来れるようになさい。」
「はい、殿下。二人共驚くでしょうね~、楽しみですわ。」
にこにこするディアドラと不穏な微笑みを浮かべたセリーナを交互に見て、近衛騎士はぐっと目を閉じた。唇もしっかりと閉じる。突っ込んではいけない。
扇子をパチリと畳み、腕を解いてセリーナは「それに」と言う。
「騎士服のアレンジは《度を越さなければ》良いという決まりだそうですが、勇気の出ない者もいるでしょう。」
今回のディアドラの騎士服は、見るからに飾り用という長さのフリルをつけている。実際に女騎士達がアレンジする際はもっと実戦向きに短くするだろう事を想定し、あえて大振りに仕立てたのだ。
ソレイユ王国製の薄くて軽い布を使っているため、見た目よりも動作に問題はない。
現状女性らしいアレンジを加えられているのは隊長格の騎士だけで、もう少しお洒落にしたいものの「生意気」「これだから女は」「実力がないくせに」など言われるのが嫌でできない――…一般の騎士にはそんな悩みがあるらしい事を、セリーナは伝え聞いていた。
「私がいた頃は、そんなに珍しくなかったはずですけれど…確かに最近はあまり見ませんね~。」
「貴女の存在が大きかったという事でしょう。だからこそ今一度。凛々しく華麗な騎士たれ、です。」
「うふふ、精一杯務めさせて頂きます。」
筆頭公爵家の夫人が騎士服を着るという事は、それだけでも矢のように噂が広まる。
どのようなデザインだったかも、明らかに王妃セリーナが事前に知っていたらしい事も、こちらが苦労せずともあっという間に知れ渡るだろう。
「そして帝国とヘデラ王国には女性の兵士がいません。来賓の方が来られた際には目を引くでしょう。」
警備で配された騎士達は基本的に茶会の邪魔にならない位置をとるため、茶会の参加者の目に留まりにくい。女性がいたとしてもさほど気付かれないのだ。
また、コクリコ王国第二王女のイェシカは晩餐に乗馬服で現れたと報告があった。彼女の印象も悪くないだろう。
単に夫とその親友への当てつけではなかったと知り、近衛騎士は心の中でほっと息を吐いた。
「貴女には矢面に立って頂く事になりますが…平気ですね、ディアドラ。」
「えぇ、何も問題ありませんわ。王妃殿下。」
できないとは言わせないとばかりの冷え切った視線を、ディアドラは微笑んで受け止める。申し訳なさに眉を顰めてしまったセリーナを安心させるためだ。
――ただ……国王陛下、ちゃんとセリーナ様の意図に気付いてくれるかしら?
もちろん、気付かなかった。
「セリーナ。今日も最上の美しさを誇る俺の宝よ。茶会は順調なようだな。」
参加者からの熱い視線を受けながら、ギルバートは慣れた手つきでセリーナの手を取り、彼女の青い瞳を見つめて口付ける。あまりにすらすらと言うため、その言葉は形式上の挨拶のようにも、本音のようにも聞こえた。
堂々たる振舞はまさに国の頂点に君臨する男のものだ。
「ギルバート陛下。何よりも貴い、わたくしの最愛のお方。どうかお戯れはそこまでに。ふふ、幸福のあまり気を失ってはいけませんから。」
こちらはかの王に愛されている自信があるのだろう、セリーナは言葉も行為も当然のごとく受け入れて微笑んでいる。夫を見つめ返す瞳はどこまでも落ち着いていて、いっそ淡白なようにも見えた。
「あぁ、それはいけないな。続きはまたにしようか。」
薄く微笑んで手を離したギルバートに、扇子の上からそっと覗き見ていた貴婦人達が悩ましげなため息を吐く。国王夫妻は今日も今日とて完璧だった。
――今は公務中今は公務中今は公務中、わたくしが倒れては陛下の恥、笑顔で冷静に笑顔で冷静に…ぎぎぎギルバート様がわわわたくしの手に口付けされッ、うぅ、死んでしまいます!死んでしまいますからどうかご勘弁を!というか、つ、続きとは!?わ、わたくしはこれくらいで仲間外れを許したりなどしませんから!
――はー…「最愛の方」「幸福のあまり」だと……人前だからとわかっているのに、ちょっと喜んでしまう自分の浅はかさが憎い。すまないセリーナ、俺に触れられたくはなかったよな……本当はもう一時間くらいはお前の手を握っていたかった。……話題を変えよう。なぜか知らんがディアドラが護衛なのだな。
「公爵夫人、妻の護衛ご苦労。よろしく頼むぞ。」
「この身に代えましても。国王陛下」
「ふ、できる限り代えずに守ってくれ。エリオットにはまだ元気でいてもらわねばな。」
後ろに控えるエリオットをちらりと見やり、ギルバートが言う。
セリーナは扇子を広げ、ディアドラの腕にそっと触れてギルバートから一歩遠ざかった。
――この近さはわたくしの心臓に悪い…ディアドラ、この距離感を保って仲良しアピールを。ウッ…陛下のご尊顔が眩しくて呼吸が苦しい。
「……陛下。わたくしにとっても、彼女は大切な友人です。」
――大切な友人なのだから近付くなと言われてしまった。確かにそうだ。本当にすまない。
「では、妻のためにも共に生き残る方針で頼もうか。」
「承知致しましたわ。」
「それにしても、華やかな装いだな。ソレイユ王国の生地か?」
話題をディアドラの騎士服に変えつつ、ギルバートは他から見えないよう、後ろ手でエリオットに会話に加わるよう指示した。
ギルバートが確実に訪れる今日にその格好をした事、セリーナと揃いの髪飾りや布地を使っている事から察するに、ギルバート以外にも誰か、位の高い男からそれを認める発言をした方がいいと思ったからだ。
指示に従いながら、エリオットはセリーナをちらりと見やった。
「今日も今日とてわたくしの夫と仲がよろしいこと」とでも言いたげに冷笑している。
――まったく、頭が痛い。
深く眉間に皺を寄せたエリオットを見て、ディアドラはくすりと笑ったのだった。




