129.ダンがしんじゃう
「いやーーっ!!」
アーチャー公爵邸にクリスの叫び声が響いていた。
「駄目!ダンはここにいて!!」
「はッなッせクソガキ…!」
「腕が、足、っく、全部痛いよぉ!!姉上ぇ!ダンがどっか行く!!死んじゃう!!」
「死なねーっつってんだろ!このッ…!!」
「うわぁあああん!!いだいよぉお!!」
「あらあら…。」
開いたままの扉からクリスの部屋を覗き込み、メリルは目を丸くして口元に手をあてた。
黒髪の少年がダンのシャツの裾を握りしめてベッドの柱にしがみつき、ダンは部屋の扉へ向かって歩こうと踏ん張っているが全然動かない。白いシャツに深い皺が刻まれ、どれだけの力で応酬しているのやら、ボタンが引きちぎれそうだ。
「あらあらじゃねーんだよ、コイツなんとかしろ!仕事にならねぇだろうが!!」
「クリス様に向かってコイツとは何です、ダン。」
「言ってる場合か!?つーか魔法やめさせろよ!痛がってんぞ、なんか!」
「痛いよぉお!ダンが死ぬー!!」
「死なねぇよ!!」
ぐずぐずと泣きじゃくる少年――スキルを発動させた状態のクリスに、ダンが何度目かもわからないツッコミを入れる。専属侍女であるチェルシーはクリスの側でお気に入りのぬいぐるみを見せるなどしているが、あまり効果がないようだ。
「ダン、とりあえず戻ってあげてくれるかしら。」
メリルの後ろからひょっこりと顔を出し、シャロンが言った。
ダンが渋々数歩下がると、クリスは彼のシャツをしっかりと握ったまま、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げる。シャロンはクリスの横に座り、滑らかな黒髪を撫でた。
「姉上…ダンが、ダンがどっか行く…身体が痛いよ……。」
「大丈夫よ、ここに怖い人はいないから。ダンはおうちの中を歩くだけだわ。」
ダンがクリスの目の前で刺され、流血したのはつい昨日の事だ。
先程目覚めてすぐにダンの姿が見えないと大騒ぎしたため、すっかり既に完治しているダンを部屋に行かせたものの、今度は退室を許さなかった。目を離すとまた刺されて死ぬと思っているらしい。
「…しかし、本当にすごいスキルですね。」
メリルが自分の頬に片手をあてて言った。
今のクリスは十五歳ほどの少年、つまりは実年齢より十歳ほど上に見え、それは幻ではなく実体を兼ね備え、生み出す力も相当に強くなっている。
以前からクリスは「王子様くらい強く」と言っていたが、それをこんな形で実現させるとは誰も想像だにしていなかった。アベルそっくりの力強さと髪色なのに、外見年齢はアベル以上になっている。
「別の方だったら髪色もまた変わっていたのでしょうか。ベインズ先生なら、赤とか。」
「……そうかもしれないわね。」
すんすんと鼻をすするクリスを宥めながら、シャロンは目を伏せた。
まさに、前世でプレイしたゲームではそうだったのだろう。クリスの存在は殆どシナリオの外にあったため、彼の身に何が起きていたのかはわからない。しかし想像する事はできた。
シャロンを喪ったクリスは「助けてくれなかった」アベルと主人公を恨み、副団長レナルド・ベインズのようになって現れる。ちょうど城へ乗り込むところだった革命軍に紛れ込み、戦士――イドナと名乗って。
悲恋エンディングで見る事ができる、イドナの死体を抱えるアベルの後ろ姿。
二十代前半に見えるイドナにしては脚が細く短過ぎると、作画崩壊だと指摘が多かったスチル画像だ。今思えばそれは、死んだ事でスキルの発動が解け、クリス本来の身体の大きさになったという描写に他ならない。
ヒロインの「そんな」という呟きも、イドナが死んでしまった事に対してだとばかり思っていたが、姿が変わった事に対する呟きだったともとれる。基本が立ち絵なので、亡くなった後のイドナの姿はプレイヤーには見えない。
考えるだけでシャロンは頭が重かった。
目の前で死んでしまった革命軍がクリスだと知った時、シャロンの死について責められていたのだと知った時、アベルはどれほど自分を追い詰めただろう。
嫁ぎに行く道中での事など、彼らには何ら責任がないはずなのに、どうしてクリスはアベル達を恨んでしまったのか。父や母は、使用人達はクリスを止められなかったのか。考えてもわからない。
アベルとイドナが戦っている間、ヒロインの視点では発動したスキルによる強風で二人の会話はあまり聞き取れないのだ。ゲームシナリオでの彼らが何を言われ何を言ったのか、知る術はない。
「大丈夫よ、クリス。」
言い聞かせるように呟いて、シャロンは大きくなった弟を抱きしめる。
「なんにも怖い事はないの。」
――そんな未来は、もう「無い」のだから。
「大丈夫。」
「…うん……。」
小さく頷いたクリスが淡い光に包まれ、抱きしめていた身体が縮む。
ようやく解放されたダンが疲れた顔で軽く肩を回し、クリスの銀髪をぐしぐしと撫でた。
「仕事終わったら遊んでやっから大人しくしてろ。」
「ぜったいね…。」
「おー、約束してやる。」
じゃあなと手を振って、ダンは部屋を出て行った。
全身が痛むというクリスをベッドに寝かせて、メリルが具体的にどこが痛むのか確認する。
「……筋肉痛ですね。普段にない力を出した反動がきているのでしょう。」
「あぁ、やっぱり。」
シャロンは納得して苦笑した。
さして身体を鍛えているわけでもない五歳の子が、リスクもなしにアベルと同レベルの力を出せるわけがない。たとえ魔法・スキルによる補助があったにせよだ。
「クリス?お父様くらい身体を鍛えなくては、アベルのようになる度に痛いわよ。」
シャロンが優しく語り掛けると、クリスは痛みにむぎゅっと顔を顰めながら姉を見返した。
「おとうさまくらい……おうじさま、アベルでんかも、おとうさまくらいムキムキなの?」
「えっ?それは…流石に年齢が違うから……」
「ぼく、でんかのふくのした、みたことないから」
「んなッゲホッゴホ!!」
メリルが激しく咳き込んだ。クリスは痛そうにしながら腕まくりの仕草をしている。
「どれくらいかわからないや。」
「シャロン様もわかりッ、ませんよね!?ね!?」
「そうね、どれくらいと言われても…」
頬に人差し指をあて、シャロンは首を傾げた。当然見た事などないのだが、彼に触れた事はある。
剣を握るために表皮の固くなった手のひらも、崖から落ちて庇ってくれた時の力強い腕の感触も覚えている。初めて馬に乗せてもらった時に倒れかかってもびくともしなかった胸板は、彼が怪我をしたと勘違いした際に少し見てしまった。
崖下でこちらへと寄りかからせた時に触れたシャツ越しの肩も、撫でた黒髪の柔らかさも、首元にかかった吐息の熱さも――昨日、抱き寄せられた時の安心感も。彼の声も。間近で見た瞳も。
全て思い出せてしまって、シャロンは顔に熱が集まるのを感じた。
「あねうえ?」
「なん…なんでもないわ……。」
動揺に目が泳ぐシャロンをメリルが「まさか」という顔で凝視している。
「とと、とにかく、そうね。殿下もしっかりと身体を鍛えていらっしゃるのは確かだと思うわ。だって、あんなに強いのだから。ね?」
「うん……そうだよね。ぼくがんばる。」
「ではまずゆっくり休みましょう、クリス。元気になったら姉上と一緒に頑張りましょうね。」
「うん!」
嬉しそうに笑うクリスに微笑み返し、シャロンは顔をぱたぱたと仰ぎながら振り返った。部屋の入口へ向かおうとしたが、何か問い質そうとしている様子のオレンジの瞳と目が合う。
「メリル?」
「シャロン様…?あの王子殿下、まさか貴女様に不埒な真似など」
「してないわよ!?だ、断じて!!」
クリスの前で何を言い出すのかと、シャロンはメリルをぐいぐい廊下へ押しやった。そこで一つ聞くことがあると思い返し、クリスの専属侍女、チェルシーをそっと呼ぶ。
亜麻色のお団子頭を揺らし、彼女は早足にシャロンの前に進み出た。
「はい、御用でしょうか。」
「思い当たる事がなければ忘れてほしいのだけれど……イドナという名前、なんだったかしら。」
意味のない質問かもしれない。
そう思っていたが、チェルシーは「あぁ」と小さく頷いた。
「クリス様お気に入りの冒険譚の主人公です。悪者に攫われてしまったお姉さんを取り戻すというストーリーで、ぼくもあねうえがこまったらこんなふうにたすける、と。」
――大丈夫、大丈夫。
「そう…ありがとう。」
「いえ、お役に立てましたなら。」
「…クリスをお願いね。」
「はい、シャロン様。」
シャロンがかろうじて浮かべた笑顔に、チェルシーは疑いなく微笑み返した。
廊下へ出ると、まだ少しこちらの様子を窺うような顔をしたメリルが待っている。シャロンは騒ぎを聞きつけて昼食を中断して上がってきたので、食堂に戻らなくてはいけない。
――大丈夫よ、私。落ち着いて。
顔を見られないように意識して早足に階段へ辿り着き、メリルよりも先に行く。「何か隠していませんか」と焦ったような声に「何も」と返しながら、シャロンは胸元の服を軽く握りしめた。
心臓がどくどくと音を立てている。
――もう、そんな未来無いわ。絶対に。だから大丈夫。
クリスが魔法の練習を始めたのはシャロンが鍛え始めた事がきっかけだ。
ゲームシナリオのクリスはきっとこの時点でスキルは使えなかったし、アベルを目標としてもいなかったかもしれない。イドナの正体を見破れなかった時点で、アベルはクリスのスキルを知らなかったはずだ。
きっと、ゲームシナリオよりずっと、アベルとクリスの関係は近い。
どんなスキルなのか、発動後の姿をもうアベルも知っている。彼がイドナの正体を知らずに相対してしまう可能性はない。
ウィルフレッドがチェスターに殺されてしまう未来だってもう殆ど変えられた。懸念はダスティン・オークスの存在だけだ。
たとえ主人公がアベルを選んだとしても、辿り着くラスボスは全く違う人物だろう。
こみ上げる嗚咽を飲み下して、シャロンは食堂の前で足を止めた。
メリルが扉を開いてくれる。
――あぁ、さようなら。さようなら。
「少し温め直させてありますから、ゆっくりお食べ下さい。」
「ありがとう、メリル。」
席に着いて食べかけの食事を見下ろした。
スープに映った瞳は揺らめいている。
――さようなら。クリスがアベルの前で、自ら死んでしまう未来。




