123.黒髪の少年
「まぁ、クリス様が?」
ベリータルトとリンゴのタルトを一切れずつ。
フォークを添え、油の染みない紙皿一枚に乗せて戻ってきたメリルがきょとりと目を見開いた。
「えぇ…ダンがすぐに追ってくれたから、大丈夫だと思うのだけれど。」
「シャロン様といい、飛び出して行く速さは目を瞠るものがありますからね。」
「私、そんなに飛び出しているかしら?」
「クリス様くらいの頃も、それはそれは大変でございました。」
しんみりと遠くを見る侍女の様子に、シャロンは自分の記憶を辿ってみる。
「そろそろ戻ろう」と言うウィルフレッドの手を引き、「大丈夫よ、たぶん」なんてどこかの暗がりを進んでいた覚えがあった。あれはどこだったのだろう。
――あら?クリスくらいの頃「も」という事は、今も飛び出すと思われている?
「しかし…ダンが追ったにしてはかかっていますね。見に行き…」
メリルの言葉が途切れた。
あちらへ行った、と聞いていた角の向こうを指して、人々が何かささやき合っている。近付かずに首を伸ばし、よく見ようとする人も。
「シャロン様」
「えぇ、メリル。」
シャロンの手を引き、メリルは急いでそちらへ向かう。
クリスが駆け出してから、まだ数分しか経っていなかった。角を曲がると十数メートル先にダンが血を流して倒れており、数人の騎士が彼を指して駆け寄っていく。
「ダン!!」
タルトの皿を落として彼の元に駆け寄り、メリルは血を流したまま這いずったらしい身体を仰向けにさせた。同時に到着した騎士が「私が治癒を」と手をかざす。腹部から大量に出血しているが、頭からも血を流しているようだった。
「起きなさい!」
強く肩を揺さぶるメリルが騎士によって引きはがされる。ダンは眉を顰め、血の気の失せた顔でうっすらと目を開いた。
「クリス様はどうしたのです!!」
「っ、わり…向こう、だ。追われて……」
ダンが手を伸ばそうとした方角は、彼が這いずった先だ。騎士達が頷き合い、数名がそちらへ駆け出そうとする。
「私も行きます、動かないように!」
シャロンに厳しい目で言いつけ、メリルは騎士と共に駆け出した。追われているのが誰でどのような格好なのか、伝えるために。
「お嬢…」
傷は徐々に塞がっていくが、失った血が戻るわけではない。
探すように空中へ伸ばされた手を握って、シャロンはダンの傍に膝をついた。
「悪ぃ、油断した……」
「ごめんなさい、私が一緒に行くか、もっと早く来ていれば…!」
なぜもっと大騒ぎにならなかったのか。
ダンが応戦しただろう事は周囲の状況からわかっていた。建築資材は崩れ落ち、道に飾られていた花や布が風で飛ばされたかのように散らばっている。それでもどうしてか騒音はシャロンまで届かず、街の人々も遠巻きに彼を眺めるばかりで近付く事は躊躇っていた。
「俺はいい、坊を…」
「大丈夫、騎士の方々がね、メリルと一緒に探してくれているから。大丈夫よ、ダン。」
手を握ったまま安心させるように繰り返し伝えると、ダンは僅かに頷いて再び気を失った。頭の傷の確認を始めた騎士にスペースを譲り、シャロンはよろりと立ち上がる。メリル達が駆けて行った方からは、まだ誰も戻らない。
――クリス…
「まぁ、シャロン様?」
聞き覚えのある声に振り返ると、桃色の髪をツインテールに結い、活発そうな黄緑色の瞳をした少女が立っていた。後ろに数人控えている男達を護衛と考えると、貴族令嬢に違いない。シャロンははっとして名前を呼んだ。
「ナディア様…狩猟の時以来ですわね。」
ナディア・ワイラー子爵令嬢。
狩猟でシャロンと共にアベルに同行し、襲い来る獣に恐怖して逃げ出してしまった少女だ。彼女を庇ってシャロンは崖から落ち、アベルはそれを助けた際に怪我を負った。
「えぇ、その節はお救い頂きありがとうございました。折を見てお礼に伺おうと思っていたのですけれど…なにやら、大変なご様子ですわね。」
騎士の治癒を受けるダンを見やって、ナディアは心配そうに眉尻を下げる。
「ちょうどあちらで弟君をお見かけしたばかりでしたので、てっきりシャロン様もそちらにいるのかと――」
「えっ?」
ナディアが指したのは、メリル達が向かったのとは別方向だ。シャロンが思わず聞き返す。
「あら?見間違いかしら。薄群青に白い刺繍のローブを着て、走っておられましたけれど。」
それは確かに、今日クリスが着ているものだ。
シャロンは振り返ったが、ダンの治療をしてくれている騎士の邪魔はしたくない。
「ナディア様、もしよろしければ案内して頂けますか?すぐに!」
「もちろんですわ。こちらへ!」
慌てた様子で伝わったのだろう、ナディアも真剣な顔つきになって足を早めてくれた。
人が多い場所は進みにくいので避けているのだろう、人気のない路地裏を彼女の護衛達と共に駆け抜ける。先頭を行くナディアの足はシャロンには少し遅く感じられてもどかしい。
――…クリスの足で行ける範囲にしては、少し遠すぎるのでは。
ダンが指した方向と今走っている場所の距離感を頭の中に描いたシャロンは無意識に減速し、いくつかの小道が合流する小さな広場で足を止めた。ナディアが振り返る。
「どうしたのですか、シャロン様。もう少し先ですよ?」
「…ナディア様……貴女、いつ私の弟と面識を持ったのですか?」
クリスはまだ幼く、知り合いと言える貴族は少ない。
アーチャー公爵邸へ招待されるような付き合いのある者ならまだしも、ナディアの家、それも彼女自身が来た事などないはずだった。
ナディアは瞬いて、口元をにやりと歪ませる。
「あら、気付いちゃった?でももう遅いわ。」
少女らしい、無邪気で残酷な笑みだった。
彼女の護衛と思っていた男達がシャロンに向き直り、そのうちの一人が手を伸ばしてくる。無遠慮で強引な動作。シャロンはするりと受け流すようにかわした。男が無様にたたらを踏む。
驚いたように目を瞠るナディアを見据え、シャロンは背中に汗が伝うのを感じながら慎重に一歩後ずさる。それなりに体格の良い男達を相手にどこまでやれるだろう。
「私を襲う理由は何です?」
「…決まってるでしょ。気に入らないからよ、貴女が。」
唇を尖らせて言うナディアはどこまで考えているのか。
狩猟の時とは違う。明確な悪意を持って公爵家に手を出せば彼女も家もただでは済まないはずだ。完全にこちらの口を封じない限りは。
「殺すつもりですか?」
「まぁ、野蛮な考え。あたしが受けた屈辱の分、痛い目に遭ってほしいだけよ。」
くすくすと笑うナディアの前で、男達がシャロンとの距離を詰めていく。そのうちの一人が取り出したナイフには既に血がついていた。ダンのものだろうか。
シャロンは胸元で手を握るフリをして、ローブの内側に納めている投げナイフに指をかける。
「綺麗に治らないくらい痛めつけて、服切り刻んで!裸同然でアタマのおかしい浮浪者にでも差し出してあげるわ。そうなれば見つかる頃にはもう、貴女の価値なんて無いも同然でしょ?」
「そこまで嫌われているとは思いませんでしたが、今の内に考え直す事は――」
「あの王子も!後を追うほど気に入ってるんだから、貴女がボロボロになればさぞ嫌な思いをするんでしょうね?良い気味だわ」
まだ喋るのかと目で聞いてくる男達に「いきなさい」と顎で合図し、ナディアは口角を吊り上げる。
「あたしに頭を下げさせた事、後悔すればいい!!」
話の間にシャロンは脚へ魔力を流していた。
すぐにでも動ける。飛び掛かってくる男達からまずは一歩飛びのき――
上から降ってきた黒髪の少年が、鞘に納めたままの剣で男を殴り倒した。
「な…誰よあんた!?」
悲鳴のように叫んだナディアの問いに答える事なく、少年は自分より背の高い男達を次々と昏倒させていく。その鮮やかな動きと力強さはシャロンも見覚えのあるものだった。
あっという間に男達は沈黙し、鋭く睨みつけられたナディアは悲鳴を上げて走り去る。
「……あ、の…。」
静かになった路地裏で、シャロンは困惑しながら声をかけた。
肩で息をしながら振り返った少年は、十五歳ほどだろうか。肩につく長さのストレートの黒髪に銀色の瞳をしていて、その顔立ちには前世で覚えがある。ただ、どういうわけかクリスと全く同じ服とローブを着ていた。
――ゲームで見た顔より若いけれど、彼はアベルのルートに出てきた……でも髪の色は?なぜクリスの服を…
「大丈夫だった!?」
持っていた剣をポイと放り捨て、少年は幼さの残る表情でシャロンに駆け寄った。初対面にしては無遠慮に両肩を掴み、きょろきょろじろじろとシャロンの身体に怪我がないかを確認する。
「その…お陰様で、無事です。」
「ほんと!?よかった、姉上!」
顔をほころばせて手を握ってくる少年に、シャロンは一瞬息が止まった。目を見開いて彼を見上げる。
「……クリス…?」
「うん、僕だよ!やっとぺかーってなったから、王子様…アベル殿下みたいに強くなれたの!」
「貴方……」
シャロンは震える手を伸ばし、大きくなった弟の頬に触れた。
姿を変える魔法は、あくまで「見せる」だけで実体が伴うわけではない。本当のクリスよりも高い位置にきちんと「触れられる」という事は、この姿は何らかの《スキル》の発動によるものだ。
くすぐったそうに微笑んで、クリスはシャロンをぎゅうと抱きしめる。フードが脱げて露わになった柔らかい薄紫の髪にうっとりと頬ずりをした。
「ふふ、変なの。僕の方が大きい。」
「…そう、ね。」
「よかったぁ間に合って…あ、でもね、ダンが……」
シャロンを腕に閉じ込めたまま、クリスはぐらりと傾いた。体重がかかり、シャロンは咄嗟に弟の身体を支える。
「僕のせいで…危ない、の。」
「大丈夫よ、ダンはもう治癒を受けているから…助かるわ。」
「そう…よかっ……」
最後まで言い切る前にクリスの体から力が抜け、シャロンはそれを支えながらぺたんと座り込んだ。まだ、気持ちが追いつかない。まだ、考えが整理できない。まだ、信じられなくて。
ゆっくり視線を下げて見下ろすと、弟は静かな寝息を立てている。
「…ねぇ。」
降って来た声に顔を上げると、不機嫌そうなアベルが家屋の屋根から広場へと軽やかに着地した。
濃紺のローブは深緑と黒糸の目立たない刺繍が施され、内側は襟元にループタイをつけたシャツとズボン、黒いブーツとラフな格好だ。金の瞳を倒れた男達に向け、クリスを見て、シャロンを見る。
「片付いた後みたいだから、騎士だけよこそうかとも思ったけど…その彼はどうしたの。」
「寝てるだけ、みたい…。」
「…ふぅん。君さ、別に言いつけやしないけど、助けられたからと言って…」
アベルは言葉を切り、後ろを見やった。
護衛騎士――リビー・エッカートが静かに着地し、付近を見回す。
「我が君。この者達の処理はこちらで。」
「あぁ。…シャロン。君、こいつらが誰の手の者かわかる?」
「……先程まで、ナディア・ワイラー様がここに。」
「…そう。」
「すぐに捕えます。その者はいかがしますか。」
リビーは視線を上げて聞いた。
座り込んだシャロンの腰にしがみつくようにして、黒髪の少年はすやすやと眠っている。その身体がふわりと淡い光に包まれ、おさまった時には元通り、銀髪の幼いクリスがシャロンの膝枕で眠っていた。
「………は?」
アベルが唖然として呟く。
シャロンは弟の肩に手を乗せ、ぽたりと涙を落とした。




