122.おうじさまじゃない
「ひとがたくさんいる!」
馬車を降りてすぐ、クリスは大きく目を見開いて声を上げた。
銀色の瞳を丸くして、見えるもの全て映さなければもったいないとばかり、きょろきょろ辺りを見回している。
「ふふ。はぐれないように気を付けてね、クリス。」
薄紫の髪をフードで隠したシャロンは、くすりと笑って弟の肩に手を置いた。
女神祭においては身を隠すような暗い色のローブより、フード部分や裾に模様の入ったものの方が目立たない。街ゆく人々も皆思い思いに着飾っているからだ。
シャロンのローブは白地に緑と青色を使って刺繍が施され、内側には長袖のブラウスの上から紺のジャンパースカートを着ている。
クリスは薄い群青色をベースに白糸で姉とお揃いの刺繍がされたローブで、暗い紅色のズボンをサスペンダーで吊り、シャツの襟元にはリボンタイをつけていた。
街を見回せば、お揃いの三角帽をかぶって煉瓦道を駆ける子供達、仮面をつけてジャグリングを披露する大道芸人に、丸ガラスをチェーンに繋いで衣服に編み込み、楽しげな音を響かせて踊る女性。
道端には音楽家が互いに邪魔しないだけの距離を取って思い思いに演奏し、露店には軽食から外国の民芸品、ジュエリーに花まで様々な物が売られていた。並んだ品物も飾り付けも、あちこちに青系統の色合いが目立っている。
「きらきらして、おいしいにおいがして、すごいねぇ!」
銀髪を隠すフードの端を小さな手で握り、クリスは辛抱たまらないというように笑顔で足踏みをする。その頭を人差し指がぐり、と押した。
「いいか、絶対突っ走るんじゃねぇぞ、お坊ちゃん。」
「はーい!」
「言ったな?勝手にどっか行くなよ?」
うりうりと人差し指をねじ込むダンを見上げ、クリスはぱぁっと顔を輝かせる。
「じゃあ、ダンもいっしょにきてくれるの?」
「違ぇよ!お前がこっちについてこッ、」
横からごすんと肘鉄を撃ち込まれ、舌を噛んだらしいダンが口を押さえて俯いた。
短い灰色の髪は変わらないが、今日は白地に赤い縁取りのバンダナを巻きつけ、ノーネクタイを許され、ラフにシャツのボタンを開けている。使用人というより、渋々弟妹の付き添いに来た兄のような風体だった。
ガラの悪い三白眼がぎろりと睨んだ先にいるのは、もちろんメリルだ。
「ってぇなぁ…」
「クリス様に失礼ですよ。」
シャロンと同じ色合いの、けれど模様の異なるローブを着て、メリルが眉間に小さく皺を寄せて言う。フードは下ろしたまま、オレンジ色のボブヘアを今日は耳にかけ、シルバーの小さなイヤリングをつけていた。髪と同じ色の瞳は、警戒するように周囲を見回している。
「本人が気にしてねぇんだからいいだろうが。なぁ坊?」
「うん!ダンはかおがこわいけど、ぼくがしらないことたくさんしってるよ。たとえばねー、」
「その話はまた今度だ。な?飴でも買ってやるから。」
急にクリスの口に手をあて、くるりと露店へ押しやり始めたダンをメリルが鬼の形相で睨みつけている。シャロンは小さく笑ってメリルの手を取り、二人を追った。
「どんどん、ひとがいっぱいになるね。」
「もうすぐ広場ですからね。」
はぐれないようクリスを真ん中にして手を繋ぎ、シャロンとメリルは大通りを歩く。ダンはすぐ後ろにつき、人混みの中で三人が押されないよう盾になっていた。
直径百メートルはあろうかという広場は、中心に聳え立つ女神像の周囲を踊る人々にスペースを譲り、距離を取って厚い人垣が形成されていた。
正式に街から依頼された楽団が女神像の後方に陣取り、優雅ながらも楽しげな曲を奏でている。踊るのは着飾った貴婦人から前掛けをした街の酒屋まで様々で、今ばかりは無礼講とばかりに皆笑顔だった。
…と、いう景色が見えているのはダンと、つま先立ちのメリルだけである。
「頼みましたよ、ダン。」
「わーったよ…」
ため息をつくダンにクリスが目を輝かせて手を伸ばす。屈んでクリスの脚裏に片腕を回しながら、ダンはシャロンに手を差し出し、指をクイと自分に向けた。
「え?」
「お嬢も見えねぇんだろうが。来い」
誘いを嬉しく思ったものの、シャロンは躊躇う。五歳のクリスと十二歳の自分では身長も体重も違うからだ。
「いいの?私、その。そこそこ…」
「メリルほどじゃねぇだろ。」
「…他に言い方はなかったんですか。」
「ちゃんと掴まっとけよ。」
不服そうなメリルを無視してシャロンを引き寄せ、ダンは二人を抱えて立ち上がる。その肩に両手を置いて、シャロンは広場の中心へ目を向けた。
宙に浮かぶ色とりどりの魔法の灯火が、噴水に設置された女神像を照らしている。
騎士服を身にまとい、一振の剣を手にした凛々しいポニーテールの女性――月の女神。
フード付きのローブを纏い、祈るように手を組んだストレートの長髪の女性――太陽の女神。
祭りの最中である今は、ツイーディアの花を思わせる淡い青色の上等な飾り布が巻かれ、鮮やかな花々を使った冠をそれぞれの頭に乗せている。
――なんて、美しい。
祭りによる非日常感のせいだろうか、シャロンは二人の女神と相対する事を畏れ多いとすら感じていた。噴水の上に凛々しく立つ二人の偉人は、今もなお、かつての戦友が作った国を見守っている。
「きれーだねぇ、あねうえ。」
うっとりとした弟の声に、意識が現実へと引き戻された。広場にいる人々は女神像に傅く事なく、陽気に踊り、歌い、微笑んで祈りを捧げている。
「…えぇ、本当に。」
シャロンはそっと両手を組み、目を閉じた。
――どうか、見守っていてください。悲しい未来に繋がらないように。皆が笑っていられるように。どうか…
『……もう、疲れた。』
――あの人が、独りになりませんように。
「お嬢は食わなくてよかったのか?」
食べ終えた串焼き肉の串を噛んだまま、ダンはクリスの肩に手を添えて立つシャロンを見やった。メリルはクリスが食べたがり、ダンも賛同したタルト屋に並んでいる。
「だいぶ食べたもの。貴方こそ、よくそんなに食べられるわね?」
「品数はあってもチマチマしてっからな。」
ダンが喋る度に動く串を目で追うクリスは、シャロンのローブをきゅっと握っている。食べ物は一人分で売られている物ばかりだが、まだ小さいクリスが残した分は彼が綺麗に片付けていた。
「………なぁ、お嬢。」
行き交う人々を眺めながら、ダンは呟くように言う。聞きなれない落ち着いたトーンの声に、シャロンはぱちりと瞬いて隣を見上げた。黒い小さな瞳はこちらを見ていない。遠くに目をやったまま、告げる事を躊躇うようにゆっくりと口を開く。
「俺を…」
「ね、いまなんかひかったよ!」
はしゃいだ声と、シャロンの手からするりとクリスの肩が離れるのは同時だった。はっとして見ると、路地を駆けて角を曲がる弟の後ろ姿が目に入る。よりによって人が少ない方で、邪魔になるものもなくあっという間の事だった。
「クリス!」
「は~だりぃ!ったく、連れ戻してくるから待ってろ!」
顔を顰めてそう言いつけ、ダンが後を追って走り出す。シャロンは心配に眉尻を下げながら、大きな背が角の向こうに消えるのを見送った。
「おいコラ坊!突っ走るなって言っただろーが。」
「あれ?きらきら、こっちに飛んでったのに…ほんとにあったんだよ!」
立ち止まって辺りを見回していたクリスは、信じてとばかり眉を下げて再び走り出す。あと数メートルというところまで歩み寄っていたダンは深々とため息をつき、噛んでいた串を手に取って面倒そうに顔を上げた。
「待てって言っ…」
「…ダン?」
声が不自然に途切れた事が妙に気になり、クリスは足を止めて振り返る。知らない男に半身ぶつかられたらしいダンが、顔をひきつらせてよろめいた。
「て、め……ッぐ、」
男が押し付けるように腕を動かすとダンは呻き、ボタボタと音がする地面へとクリスの視線は吸い寄せられた。赤い血がダンの腹部から垂れて、落ちて、水溜まりを作っている。
「え…」
「逃げろ坊!走れ!!」
ダンは苦痛に顔を歪めながら相手の肩口に串を突き刺し、男が怯んだ隙に身体を蹴りつけて距離を取った。ナイフを抜き取られた身体から赤色が飛び散る。
――いうとおりにしないと。
怖くて体が震えた。
それでもクリスは後ずさり、背を向けて走り出す。足音が追いかけてくる。
「宣言!風よ、コイツらを吹き飛ばせ!」
ナイフを持った男、そしてクリスを追おうとした男達を強風が襲い、建物の壁に叩きつける。建設用の資材が立てかけられた場所を狙ったため、痛みに呻く彼らの上にドカドカと板や角材が降り注いだ。
ダンはクリスが向かった先に目を向け、自分もそちらへ急ごうと口を開く。上手く集中しきれなかったのか、数人に魔法をあてられなかった。クリスが追われているはずだ。二人で離脱し、メリル達の元へ戻らなければ。
「宣言――」
「きゃああっ!」
「動くな!!」
悲鳴につい、そちらを見た。聞き慣れない声だとはわかっていた。少なくともシャロンではない。
壁にぶつかったか資材で打ったのだろう、頭から血を流す男が、見知らぬ少女の首に腕を回して拘束している。この騒ぎの中なぜ男達に近付いたのか不明だが、桃色の髪の少女はシャロンとそう歳も変わらないくらいに見えた。ダンは顔を引きつらせる。
――めんどくせぇ事になった。どうする。早く追わねぇと…
血を失った身体で躊躇した一瞬を狙い、背後から角材が振り下ろされた。
「たすけて、だれか!ダン!あねうえ!!」
じたばたと暴れるクリスの首根っこを掴み、男達がニヤニヤと顔を見合せる。
「風の魔法ってわかるか?あれな、上手くやれば周りに声が聞こえないようにできるんだよ。」
「姉上にはすぐ会えるから安心しな。クク、先に可哀想な事になってるかもしれねぇけど。」
「なにを…なにをするの。あねうえにひどいことしないで!!」
自分を捕まえている男の腕をべちべちと叩いたクリスは、突き飛ばされて煉瓦道に倒れ込んだ。フードが脱げて銀髪が露わになり、男の一人が笑いながらクリスの頭を鷲掴みにする。
「いたい、やめて…!」
「大人しくついてこい、姉上と一緒にボコしてやっから。」
「せんげん!」
「は?こいつまさか魔法を――」
「ぼくをつよくして!!」
男達は身構えたが、何も起きなかった。
数秒の後に互いに顔を見合せてクリスを見下ろし、そしてゲラゲラと笑い出す。
「馬鹿じゃねぇのか、強くしてだと!貴族ってのは頭すっからかんか?」
「せんげん、みず!やみ!」
クリスの身体は熱かった。
屋敷の庭で練習する時とは全く違い、かつてないほど明確に魔力の流れを感じている。
だからこそ必死に叫んでいた。
今ならできるはずだと、今できなくてはいけないと。
「おいボクぅ、宣言が何か知ってるか?ははは!」
「お願いごとを言や良いってもんじゃないんだぜ!」
「かぜ!ひ!ぼくを、おうじさまくらいつよくして!!」
「王子様ときたか!こりゃ傑作だ!」
「笑ってやるなよ、子供なんだから仕方ないでちゅよね~?」
「王子様ったってどこの王子様だよ!まさか帝国か?なんてなぁ!」
「せん、げん――…」
悔しくてつらくて涙ぐみながら、どうしてかその問いはクリスの耳にはっきりと届いた。
焦燥する心。
魔法を使わなければ姉が傷つく。
既に充分なほど魔力の気配はあるのに、たりないもの。クリスが目指しているのは、「王子様」じゃない。
「ひかり。ぼくを…」
強くてかっこいい姉よりもさらに強いレオを、こてんぱんにした人。魔法がなくても強い人。
彼は「皆を守ってくれる」のだと、姉が言っていた。
だから
誰かを守りたいなら、彼のようにならなくては。
その名乗りを覚えている。
強く憧れたからこそ今まで呼ばなかった、彼の名を。
「――ぼくを、アベル・クラーク・レヴァインでんかぐらい、つよくして!!」




