11.第一王子と護衛騎士
俺の名はヴィクター・ヘイウッド。
ツイーディア王国第一王子であるウィルフレッド様の護衛騎士だ。
今はもう一人の護衛騎士と共に壁際へ控え、部屋の中央にある長い食卓テーブルを眺めている。
王子殿下達の授業を担当する教師連中の労いにと企画された茶会だった。食堂の壁掛け時計は開始時刻を示しているが、教師の一人とアベル第二王子殿下がまだ来ていない。
「…先に始めましょう。」
長い金髪を後ろで一括りにした少年が、歳に見合わぬ優雅さで微笑んでそう言った。ウィルフレッド様だ。
確かにアベル様がいつ来るか、そもそも来てくださるのかどうかすら我々にはわからない。
「それを気にするほど、弟は狭量ではありませんから。」
「…殿下がそうおっしゃるのであれば。」
「そうですな」
教師達が口々に同意すると、侍女達が速やかに紅茶を注いで回った。テーブルにいくつも置かれた大皿には茶菓子がたくさん乗っている。
俺の隣から小さく腹の鳴る音が聞こえてきたが、黙って前を見続けた。
侍女達が離れると、ウィルフレッド様が改めて開始の挨拶を述べて茶会が始まる。
そして彼が紅茶のカップに指をかけた途端、ビリ、と妙な空気がはしったのを感じた。
「ウィルフレッド様。」
考えるよりまず止める。
迷ったせいで何かあれば意味がない。俺が声をかけた事で、ウィルフレッド様は飲むのをやめ、カップを持ったままこちらを振り返った。
「お待ちください、私の話をどうか――」
廊下からそんな声が近付いてきて、バンと勢いよく開いた部屋の扉が、壁にぶつかってまた音を立てる。
ツカツカと早足に入って来たのはアベル様と、まだ来ていなかった、魔法学を担当する教師だ。……なぜ、魔力のないアベル様と?
瞬時に部屋を見回したアベル様は、壁際から一歩踏み出していた俺に目を向ける。僅かに頷いてみせれば、彼はテーブルへ視線を戻し――剣の柄に手をかけた。
「セシリア!!」
咄嗟にもう一人の護衛騎士の名を呼ぶ。アベル様は既に剣を抜いて腕を振り上げている。
やり過ぎです、それは!
「宣言、風よ弾け!!」
セシリアが叫ぶ。投擲された剣の横から突風が吹きつけ、奥の壁へとぶち当てる。叩きつけられた剣はガァンと音を立て、そのまま床へ落下した。
風の余波で茶菓子が一部飛んだりカップが倒れてクロスに染みを作ったりしているが、仕方ない。教師達は椅子から転げ落ちたり仰け反って椅子ごと倒れたり、それぞれの姿勢で硬直している。
「……何をするんだ、アベル。テーブルに剣を投げるなんて危ないだろう。」
椅子を引いてテーブルから距離を取ったウィルフレッド様が、少し怒った声を出した。
狙いはテーブルだったと冷静に見ていたところは、この方も流石だと思う。
教師達はほとんどが真っ青な顔でウィルフレッド様を凝視していた――狙われたのは、貴方自身ではないのかと。
「ウィルフレッド様、それを。」
傍へ寄った俺が軽く腰を折って手を差し出すと、ウィルフレッド様は何の躊躇いもなく、その手に持ったままだったティーカップを渡してくれた。
セシリアが早足で落ちた剣の回収に向かう。
軽く床を蹴る音の後に、ガシャンと食器が揺れた。
ウィルフレッド様の目の前に着地したアベル様が、俺を見下ろしている。
「こら、テーブルの上に乗るんじゃない!」
ただの弟を叱る兄になっているウィルフレッド様を無視して、アベル様がぽつりと言った。
「喉が渇いたな。」
壁際で固まっていた侍女の数人が慌てて準備に駆け出す。
しかし俺は、向けられた視線の意味をくみ取ってこの手のカップを差し出した。ウィルフレッド様が飲むはずだったものだ。
アベル様が当然のように受け取る。
まず先に降りなさい、と怒るウィルフレッド様はまたしても無視されて。
アベル様がカップを唇に近付けると、壁際から息をのむ微かな音がする。
それを聞いて飲むふりをやめ、アベル様は腕を伸ばしてカップを傾け――紅茶をびたびたとテーブルクロスに染みこませた。
部屋にいるほぼ全員が彼を凝視し、ごくりと生唾を飲む。
この方はいつもそうだ。まだ十二歳の少年だというのに、目を離させないだけの威風がある。
「本当に行儀が悪いぞ、アベル。」
普段と変わらないのはウィルフレッド様くらいだ。兄にため息混じりで注意され、ようやくアベル様は床に降りた。
「僕が来るのを待たないからでしょ。」
軽い口調でそう返して、アベル様は並び立つ侍女の一人を指さした。
「そこのお前。」
茶髪を上品に結い上げた若い女性だ。蒼白な顔をしている彼女の両脇に立っていた侍女が、「私じゃない」とばかりに急いで距離を取った。
アベル様は次いで、ウィルフレッド様から一番遠い席にいた壮年の男性教師を指さして「お前も」と言う。
そこへ戻ってきたセシリアが跪き、失礼しました。と短く謝罪して剣を差し出した。
アベル様は剣を受け取ると、冷ややかに――ぞっとするほど美しい笑みを浮かべる。
「部屋においで。僕は君達を歓迎する」
「ひ…っ」
「お許しください!!」
男性教師が蒼白な顔で目を見開き、侍女は頭を床にこすりつける。
「お許しください、どうか、どうか!!」
同僚だったはずの侍女達は誰も彼女を見ようとせず、じっと時が過ぎるのを待っている。
これまで幾人もがアベル様に「歓迎する」と呼び出され、そして誰一人帰ってこなかった。城に勤める者なら大抵が知っている話だ。
解雇されたか、あるいは…
「茶会は?見ての通り、お前の席もあるのだけれど。」
剣を鞘に納めるアベル様に、ウィルフレッド様が自分の隣の空席を指してそう言った。
騒動の最中にしれっと入室していたアベル様の護衛騎士二人が、教師と侍女をそれぞれ立ち上がらせている。
アベル様は教師の前からポットを取り、自分のカップへと雑に紅茶を注ぎ――侍女達は本人にやらせまいと真っ青になって駆け寄ろうとしたが、遅かった――ごくりと一口飲んで、カップを置いた。
そして椅子に座り直していた教師達を一瞥し、胸に片手をあてて口を開く。
「先生方、これからも賢明な判断とご指導ご鞭撻のほど、宜しくお願い致します。」
「……第二王子殿下、もう少し授業にいらしてください。」
一番年配であろう男性教師が、白ひげをゆったりと撫でてため息をついた。
ここでそんな事を言えるとは大物だ。アベル様はにやりと笑った。
「えぇ、そのうち。」
そして皿に盛られていた砂糖菓子を一つだけ口に放り込み、これで参加終了とばかりに背を向ける。
「いやだ、離せ!誤解だ、私は何もしていないだろう!?」
「命だけは、命だけは!お願いします殺さないで、どうか、どうかどうか…」
アベル様の護衛騎士達が、罪人二人を引きずるようにして開いたままの扉から出ていく。
「アベル様、そちらは宜しいので?」
俺が声をかけると、アベル様は足を止めてくださった。視線を向けるのはアベル様と一緒に来た魔法学の教師だ。
彼が足止め役なのは明白だった。
俺とアベル様に見られる意味を察し、教師は首を絞められたかのようにパクパクと口を動かした。
微かに「ちがう」「私は」と聞こえてくる。
「僕が貴方への資金援助を止めさせようとしている……そう吹き込んだのは、先程退場した人達だね?」
教師が真っ青な顔で何度も首を縦に振る。アベル様は金色の瞳を俺に向けた。
「だそうだよ。…ヘイウッド、パーセル。引き続き頼む」
間違いなく俺達にかけられた言葉に、一瞬目を見開いた。しかしすぐに跪き頭を下げる。
「「はっ!!」」
俺とセシリアが同時に返せば、アベル様は今度こそ出て行った。
シンとした部屋にひとつ、ウィルフレッド様のため息が響く。
テーブルクロスはぐしゃりと皺が寄り、それでも無事な菓子類は多かったが、手を伸ばす人は誰もいない。
「先生方、弟がお騒がせしました。申し訳ないが、今回は終わりにしましょう。」
アベル様が残るなら滅多にない機会だ、テーブルセットを急ぎ整えて再開しただろう。しかし参加しないのであれば機会を改めるというお考えのようだった。
ウィルフレッド様の言葉に、教師達が慌てて立ち上がり「どうかお気になさらずに」「殿下のせいではありません」などと声をかけている。
「久し振りにお会いできましたし、授業にもいらっしゃると。よい事です」
「サイムズ先生…ありがとうございます。」
ウィルフレッド様が苦笑する。
サイムズと呼ばれた法学教師は、また白ひげをゆったりと撫でて微笑んでいた。
「セシリア、ほしいものがあるなら包むかい?」
教師陣が退室し、侍女達が片付けに動き出したタイミングでウィルフレッド様がそう聞いた。
セシリアが赤紫の瞳を輝かせる。
「よろしいか、ウィル様!ありがとう!!」
「おい、敬語。」
「よろしいのですね、ウィルフレッド様!感謝恐悦至極です!!」
両手のひらを合わせて頬の横へ持っていき、セシリアが満面の笑みを浮かべる。
俺はため息を吐いた。ウィルフレッド様がお優しいから許されているが、本来は不敬罪でしょっぴかれてもおかしくない。
侍女達も最早慣れた様子で、持ち帰り用のバスケットが速やかに運ばれてきた。俺は同期として恥ずかしい、本当に。
うちの子がこれ大好きなんだ!私もだが!と侍女に話しかけながら菓子を選び取るセシリアを、ウィルフレッド様は微笑ましいと言わんばかりの笑顔で見守っている。
「…申し訳ありません。」
「謝らなくていいよ、ヴィクター。…さっきはどうしてわかったんだ?」
「貴方様がカップに手をかけた時、部屋に緊張がはしりました。…感覚的で恐縮ですが。」
「そうか……ありがとう。俺は未熟だな」
眉尻を下げて、ウィルフレッド様は悔しげに目を細めた。
俺は短く否定の言葉を返したが、形式的なものだとはこの方もわかっているだろう。アベル様なら自分で気付けていただろう事は明らかだ。
「あ、ちょっと待って。」
自分の前にあった大皿を片付けようとした侍女を止めて、ウィルフレッド様は砂糖菓子を一つだけ取って口に運んだ。アベル様が食されたものと同じ菓子だ。
「…ありがとう、もういいよ。」
侍女が軽く礼をして片付けを再開する。
「ヴィクター、見ろ!収穫だ!」
「見た。しまえ」
茶色のポニーテールを揺らして走って来る同期を切り捨てると、彼女はわざわざウィルフレッド様にも見せて改めて感謝の言葉を述べた。
二児の母なのだからもう少し落ち着いてほしい。子供を叱るとかちゃんとできているのだろうか、こいつは。
「予定より少し早いけど、シャロンのところに行くよ。」
ウィルフレッド様がそう言うと、セシリアは慌ててバスケットをテーブルに置き、菓子を二つほど携帯ケース――菓子を入れる専用を持ち運んでいる。阿呆だ――に詰め込んだ。
あの屋敷では基本的に門前で待機しているが、ティータイムに漂ってくる香りでセシリアがどうなるかは本人が一番よくわかっている。
「この時間だったらサディアスも手が空いているかな?」
「そうですね、恐らく部屋に戻られている頃かと。」
「セシリア、声をかけてくれるかな。この前は会えていないからどうかって。」
「承知しました!」
バスケットを腕に引っ掛けてセシリアが走っていく。
あまり城内で駆け回るなと言いたいが、バスケットごと戻ってこられても困る。そのまま急いで騎士団の食堂に勤める旦那に預けるなり、誰かに託すなりしてきてほしい。
部屋を出る前、ウィルフレッド様はもう一度だけ乱れたテーブルを振り返った。
「……アベルは、どうしてこんな…」
呟いた言葉は俺に対する問いではない。黙って控えていると、ウィルフレッド様は再び歩き出した。
この方はきっと、俺にも怒っている。
紅茶に何か仕込まれていると知っていれば、ウィルフレッド様は俺がアベル様にそれを差し出す事を止めただろう。
飲まないとわかっていても。
護衛騎士がアベル様の傍に常にはいない事も、それを見ても俺とセシリアが動かない事も、ウィルフレッド様は納得してないし怒っている。
けれど言わずに黙っている。怒るのはアベル様に対してだけ。
俺達がそうするのは、彼の意思によるものだからだ。
ウィルフレッド様について廊下を歩きながら、俺は窓の外を見上げた。晴天だ。
なんとなしに行先である屋敷の外観を思い浮かべる。
そして我らが騎士団長のお言葉を。
『いいかい?ヴィクター、セシリア。』
有無を言わさぬ響きで、団長は言った。
『――絶対に、アーチャー公爵家には逆らうな。』




