117.巷の悪評 ◆
『クリス!』
女神祭初日の夜、シャロンは走っていた。
人混みの中を懸命に見回し、ぶつかった人に「すみません」と謝りながら。深くかぶったフードが脱げてしまわないよう、ローブの下にかけたポシェットが邪魔にならないよう手で押さえ、息が荒くなり胸が痛んでも足を動かす。
『どこへ行ったの、クリス…!』
街を歩く人々に「五歳の男の子で」「銀髪で、背はこのくらいで」と声をかけても、皆首を横に振るばかり。そろそろメリルに「ここで待っていてください」と言われた店へ戻るべきだろうか。もしかしたらとっくに見つかっているかもしれない――そう思い、踵を返そうとしたところで腕を引っ張られた。
『きゃ…』
『お嬢ちゃん、人探しかい?おじさん達が手伝おうか。』
明らかに人相の悪い男達だった。
大通りへ彼らが背を向ければ、その身長でシャロンなどあっという間に見えなくされてしまう。断ろうとした口が大きな手で無理矢理塞がれ、持ち上げられた身体は抵抗を許されずに路地裏へ運ばれる。
その先に気絶しているらしきクリスが倒れていて、シャロンは目を見開いて激しくもがいた。
『んーっ!んんっ!!』
祭りの喧騒は遠い。か弱い抵抗をものともせず、男達は強引にシャロンのローブを引き剥がす。そして身に纏っている服の質や丁寧に手入れされた髪、白い肌を見てニヤリと笑った。
『やっぱ貴族のガキだ。』
『どう売る?』
『そりゃもちろん――』
言いかけた男の頭が真横に移動した。
屋根の上から降って来た少年によって、鞘に納めたままの剣で殴りつけられたのだ。唖然とした残りの男達も我に返るより早く同じように殴り飛ばされ、路地裏には彼らが壁や置かれた雑貨に突っ込む音が響く。
シャロンはわけもわからず、恐怖に涙を流しながらもつれる足でクリスの元へ急ぎ、弟を抱きしめて後ずさった。既に周りは静まり返り、フードをかぶった少年らしき誰かがこちらを振り返る。薄暗い夜の路地裏でツカツカと歩み寄られて肩を震わせたが、屋根の隙間から差し込む月明かりが彼の顔を照らした。
『あ…』
『――何をしてる。』
眉を顰めてこちらを見下ろしているのは、第二王子のアベルだった。
その声は厳しいものだったが表情には焦りも見え、急いで助けに入ってくれたのだとわかる。シャロンは安堵してさらに涙が溢れた。
『ありがとう、アベル…ありがと、っう…』
『泣くな。何をしてると聞いてるんだ。家の者はどうした。』
『お、とうとが、はぐれて……探して、て……』
しゃくり上げながら腕の中のクリスを見下ろし、シャロンは弟が後ろ手に縛られている事に気付く。解いてやろうとするが、固く縛られている上に涙で滲む視界ではうまくいかない。
アベルはシャロンの手にハンカチを押し付け、ナイフでクリスを縛る縄を切断する。その背後数メートルほどのところに、騎士服に身を包んだ黒髪の女性が降り立った。
『我が君。この者達の処理はこちらで。』
『アーチャー家の者がいるはずだ。こちらで保護していると一報入れておけ』
『御意に。』
突然の登場に硬直しているシャロンを放置し、女性は軽く頭を下げていなくなった。周りに倒れていたはずの男達も消えている。ハンカチを目元から離して、シャロンはくすんと鼻をすすった。アベルが拾い、軽く掃って寄越してくれたローブをもそもそと着る。
『ごめんなさい、私また助けてもらったわ。』
『……次に会う時はこうじゃない事を祈るよ。』
『そうだ…ハンカチ、貴方に返そうと思っていたの。』
シャロンは肩にかけていたポシェットを探り、綺麗に畳まれたハンカチを取り出した。
オークション会場で助けられた時に借りたものだ。反対の手には、たった今借りてしまったハンカチがある。どうしましょう、と一瞬固まったシャロンから、アベルは両方とも手早く回収した。
『それはどうも。なぜ今日持ってたのか知らないけど。』
『第二王子殿下は神出鬼没だって、お父様が言っていたから。街に行くならもしかしてと思って、念のために持っていたの。正解だったわ。』
ふわりと微笑んだシャロンの膝の上で、クリスが身じろぎをした。
ゆっくりと目を開け、よく覚えていないのか首を傾げている。シャロンと一緒に立ち上がると、アベルをじっと見上げて「だぁれ?」と聞いた。
『アベル第二王子殿下よ。この国の王子様』
『おうじ?おひめさまをさがしに来たの?』
『…違う。』
アベルが眉を顰めて否定した。シャロンは思わずくすりと笑ってしまう。
『姉上のお友達なの。』
『わるものをたいじしてくれる?』
『えぇ、もちろん。今も私達を助けてくれた、皆を守ってくれる王子様なのよ。とっても強いの。』
『つよい!すごいねぇ』
『いいから、行くよ。』
きらきらと目を輝かせるクリスに背を向け、アベルが歩き出す。
シャロンはクリスと手を繋いでその後に続いたが、人通りの多い場所に出ると大人に押し流されそうになった。少し早足になって追いつくと、アベルが仕方ないとばかりに手を差し出す。シャロンは微笑んでその手を取った。
『ハァイ、いらっしゃいませ!』
はぐれにくい、少しだけ人通りの少ない場所を歩いていると、陽気に声を掛けられた。クリスがぴたりと止まるので、シャロン、次いでアベルも立ち止まる。
宝石を使ったアクセサリーを並べている露店だった。きらりと八重歯の光る店主は丸いサングラスをかけている。
『おほっ、これは見るからにカモ…ゴホン、美しいお嬢様に、凛々しいお坊ちゃま達。どうぞどうぞ、ゆっくりご覧になっていってください。』
◇ ◇ ◇
「殴って解決したあの頃が懐かしいよ。」
執務机に突っ伏したまま、騎士団長ティム・クロムウェルが呟いた。
水色の髪が広がった下に積まれているのは読み終えた報告書の山。ちょうど部屋に入ってきた赤髪の副団長レナルド・ベインズは、容赦なくその手に持っていた追加の報告書を机の隅にドンと置いた。
王立学園の生徒会長と副会長をやっていた頃にも同じ事をしたな、とふと思い出す。
「大人はしがらみが多くていけない。」
「騎士になると言い出したのも、団長職を引き受けたのもお前だろう。」
「君を毎度次点に据えるのもね。……これは三番隊からか。」
首を回して音を鳴らしながら起き上がり、ティムは眉尻の下がった困り顔で追加の報告書を手に取った。三番隊は潜入・防諜・および魔塔の監視を主な任務とする部隊だ。
白手袋に包まれた指でパラパラとめくり、最後のページを弾いて鼻で笑う。
「予想通り過ぎるよ。」
「研究職の人間が集まった場所だからな。」
「《研究データが盗まれた可能性はありますが、何分資料が多く、盗まれたかどうかの確認が…》できてくれないとこういう時に困るって、ずっと言ってるのにね。」
魔法学術研究塔、略して魔塔では確かに動物実験が行われた事があるらしい。
しかし当時の研究資料がどこにあるか不明で、担当していた研究員も経費横領の罪に問われ追放済み。三番隊の魔塔担当班が泣きながら手作業で資料探しをしているそうだが、数百年分の研究資料が詰まった塔だ。望みは薄いだろう。
「影の女神を主神とする《夜教》は案の定、狩猟での襲撃事件は無関係だと主張…切り崩す証拠もなし。」
机を指で叩きながら、ティムは独り言のように呟く。
犯人は虚言を吐いているだけで信者ではない、と言われれば終い。信者だと確定する証拠を得られたとしても、信者が勝手にした事であり夜教自体には関係がない、と言われれば終い。宗教団体の厄介なところだ。
そして、「国で信じられている女神伝説は誤りだ」とする夜教が、なぜ第一王子を狙ったか?それも不明だった。証拠も動機も不十分に誰かを追い詰める事はできない。
「違法な魔力増幅薬も根絶しないし、女神祭全体の警備に、各国要人の警護、一緒に入国してくる従者達への警戒、帝国との親善試合……あぁ、困った困った。俺が倒れたら後は頼むね。」
「即刻治してやるから働け。」
黒い手袋に包んだ左手を軽く振り、レナルドが冷たく言い放つ。ティムは小さくため息を吐いた。
「契約するの早まったかな。」
「コクリコはイェシカ第二王女を寄こしてくれるんだ、あのオオカミ達については少し進展するだろう。」
「だといいけどね。」
椅子の背もたれに身を預け、ティムは書類だらけの机から一枚、城に呼び寄せた魔塔の研究員からの報告書を引っ張り出す。
火の魔法を吐き出したオオカミ、風の魔法を吐き出したクマ。
全ての個体の胃に同じ材質の石片が確認されていた。
貴石の宝庫たるコクリコ王国において、鉱石研究に精を出す一風変わった王女――それが十八歳になる若き学者であり第二王女、イェシカだ。本来今年は都合が合わず参加を見送るとしていたコクリコ王国だが、注意喚起と共に解析依頼をした結果、彼女が来てくれる事になった。
「帝国の生物兵器の話も是非聞きたいとこだけど、流石に難しいかな。」
「キメラか。」
「魔法が使えるわけだから、それとは別枠だとは思うけどね。」
あくまで休戦協定をしているだけのアクレイギア帝国が、自国の生物兵器について情報を寄こしてくれるはずもない。
第一、同盟国でもない帝国にはあのオオカミ達について知らせてもいない。帝国が新たに生み出した生物兵器だった、というオチも可能性の一つだ。
「…向こうの第一皇子、何を考えているんだろうな。」
眼帯のない左目で、レナルドは緑色の瞳を空中に向ける。
定期訪問を控え、ツイーディア王国としても帝国の情勢は改めて調べ直していた。
第一皇子、ジークハルト・ユストゥス・ローエンシュタイン。
内紛の多いかの国において、今の皇子は彼一人だけだ。
元は年の近い異母弟が数人おり、ジークハルトが剣を教えてやったりもしていたそうだが、第一皇子ほどの才はないと見るや全員が皇帝に殺されてしまった。生き残っているのは皇位を継ぐ権利のない第一皇女と、女はこれ以上いらないと皇族を追い出された平民の妹達だけ。
ジークハルトは非常に好戦的であり、たとえ自国の軍人だろうと戦い甲斐のありそうな者と見れば殺してしまう。そのせいで将軍を何人も失い、他国侵略に手が回りきらないという話だ。
「さてね、そればかりは自分の目で見ないと。」
眉尻が下がったまま口元を緩め、ティムはまるで困っているかのように笑う。
「アベル様だって、巷の悪評が全てでは無いからね。」
「……確かに。」




