116.帝国との密約
「密約…ですか。」
眉間に力が入るのを感じながら、ウィルフレッドは聞き返した。
この国で最も貴い男――父王ギルバート・イーノック・レヴァインが、玉座に座ったまま頷く。その顔には軽い微笑みすら浮かんでいて、不穏な単語が出ても何も心配はいらないと思わせる余裕があった。
少し癖のある金髪は背中まで伸ばし、左側だけ耳にかけている。アベルと同じ金色の瞳は落ち着いた様子で双子の王子達を見下ろしていた。
「アクレイギア帝国の定期訪問は、実質その密約のために行われている。」
ギルバートはそう言うと、傍らに控える特務大臣、エリオット・アーチャー公爵をちらりと見やる。金の髪と瞳を持つ国王に対し、幼い頃から側近として仕え続けるこの男は銀の髪と瞳を持っていた。
続きを任せたという言外の指示に頷き、エリオットが口を開く。
「両国から三名ずつ選抜された者による、真剣を使用した親善試合です。魔法および毒物の使用禁止、相手の身体を欠損させる、または致命傷を与えた者はペナルティ、自傷自殺行為の禁止、棄権申告あり、ゆえに相手の口を塞ぐ行為の禁止、一試合五分まで等のルールが設けられており、各試合ごとに明確に勝敗をつけるものではありません。」
ウィルフレッドとアベルは即座に事の重大性を理解した。
親善と言えば聞こえはいいが、ただの探り合いだ。友好のためにしてはルールに「試合なら当然の事」が入り過ぎているし、内密に行う意味がない。
隙を見せれば、攻め込めると思わせてしまったら帝国は再び牙を剥く。休戦協定が続いているのはこの親善試合を乗り切ってきたからだ。
「前回、五年前は私とパーシヴァル・オークス、ティム・クロムウェルの三名で行いました。通常、王家の方々にこの試合へご参加頂く事はありえません。特に帝国は皇位継承の法がご存知の通りですので、実力を晒す事は控えます。しかし…」
ここで一度言葉を切り、エリオットはほんの一瞬だけギルバートを見やった。
何も変わらず、薄い微笑みを浮かべて話の終わりを待っている。エリオットは視線を王子達に戻した。
「ジークハルト第一皇子殿下が、此度の親善試合に参加を表明すると同時、アベル第二王子殿下を相手として指名されております。」
「な…っ、陛下!まさか本気で…」
「問題があるのか?」
目を見開いて抗議しようとしたウィルフレッドに、ギルバートがさらりと返した。有無を言わさぬ笑顔にウィルフレッドは唖然として口を開閉する。
――父上は、アベルが大事なんじゃないのか?俺よりずっと出来が良いのに…
ウィルフレッドの隣へと視線を移した金の瞳は、アベルのものとは違う冷ややかさがあった。口元は緩やかに笑んでいる。話の重さを理解しているはずなのに。
「勝てるだろう、アベル?お前は何だってできるものな。」
その言葉に瞬いて、ウィルフレッドは隣に立つ弟へ視線を移した。
心臓がどくりと鳴る。ギルバートの声には僅かに自棄的な響きがあり、その言葉はどこか覚えのある感覚だった。息子に期待する父ではない。弟を思う兄でもない。
自分とは違う存在だと、突き放す声だ。
「仰せの通りに、国王陛下。」
アベルはただ片手を胸にあて、頭を下げた。
金の瞳には悲しみも寂しさも浮かばず、これで当然のような顔をしていた。期待されているという誇らしさも感じられない。
父に向けられるものと自分に向けられるものとでは表情がまったく違うのに、ウィルフレッドはどうしてか、その目を何度も見た事があるような気がした。
「――父上。俺は反対です。」
気付けば声が出ていた。アベルが目を瞠ってウィルフレッドを見る。
「かの皇子が自国の将軍を殺したという話、ご存知ないわけはないでしょう。ルールがあるからといって、万一相手がそれを無視したらどうなさるおつもりですか!」
「互いに条件は同じだ。あちらは皇族、こちらは王族、負ければ継承権剥奪の危機がある分、向こうの方がリスクが高いとも言えるな。」
「誰が参加するかは自国での選抜なのでしょう。指名を受け入れる必要も…」
「言葉通りの親善試合ではないんだ。帝国に「怖気付いた」と思われる方が厄介でな。わかるだろう。」
「しかし…!」
苦々しく顔を歪め、なおも食い下がろうとするウィルフレッドにギルバートが目を細める。ちらりと冷淡な瞳が見やった先で、アベルが兄を制止するように横へ腕を伸ばした。
「いい、ウィル」
「けど、アベル…」
「ありがとう。」
眦を下げて呟かれた言葉に、思わず言葉が途切れる。
一つ瞬いたアベルは切り替えるように真剣な目をしていて、腰に提げた剣の柄に手をかけ、抜き放った切っ先を天に向け、胸の前に据えた。
「ジークハルト殿下との試合、負ける事はないとこの剣に誓いましょう。」
「…それでいい。」
ギルバートは口角を吊り上げ、片手を軽く振る。
「話は以上だ、もう下がれ。もちろん、密約の事は他言無用だ。」
「はっ。」
アベルは剣を鞘に納めてそう返し、ウィルフレッドは唇を引き結んで静かに礼をした。立ち去っていく二人の前で扉が開き、通り過ぎた後で閉じられる。
エリオットと二人となった玉座の間で、ギルバートはひじ掛けに頬杖をつき、深くため息を吐いて横を見やった。
「……殴りたそうな顔してるな、エリオット。」
「少し違う。」
「違うものか。俺が王じゃなかったら殴ってるだろう?いいよ、許す。俺も自分を――」
バキッ。
右ストレートが綺麗に決まり、ギルバートが玉座から吹っ飛んだ。
ピカピカに磨かれた床を白いマントで滑って壁に足裏をつけて止まり、仰向けのまま玉座の横に立つエリオットを見やる。
「正確には「今から殴る顔」で、お前が王でも許可なく殴る。」
「わかった、わかった。せめて喋り終わってからにしてくれないか?短気だぞ公爵閣下。」
「少しは言い方を考えろ。どれほどしっかりしていても、アベル君だってまだ十二歳の子供だろう。」
「わかってるよあの一言は……つい口を突いて出てしまった。」
自己嫌悪に声が小さくなりながら、ギルバートは体を起こして立ち上がる。
あの時アベルに重ねて見ていたのはかつてのエリオットだ。
平凡な自分と違って、何だってできるのだろう、と。
「はぁああ。俺だって本当は大事な国民を誰一人、あんな試合に出したくはない。帝国がいい加減ウチを諦めてくれればいいんだがな。」
「ここを落とせば周辺各国を容易に攻められる。早々諦めないだろう。」
「…何で俺は、こんなでかい国の王なんだろうな……。」
乱れた髪を適当に手櫛で直し、じんじんと痛む頬をそのままにギルバートは玉座への階段を上がった。エリオットがしかめっ面のまま軽く手招きをしている。治癒の魔法も彼の方が得意だ。
「お前が王だったらきっとこんな事言い出されなかったし、訳のわからん獣も出なかった。」
「意味のない仮定の話をするな。治すぞ」
「あぁ。」
玉座の前で向かい合い、エリオットがギルバートの左頬に手をかざす。じわりと熱感は伴うが、火傷するような熱さではなくぬるま湯に浸かるようなものだ。
「シャロン嬢をパレードに同行させるのはやはり駄目なのか?」
「無しだ。」
「別にいいだろう、どうせいずれ嫁に来るのだから。」
「何も確定していないだろうが。お前はもう少し子供達の意思というものを…」
「まあ。」
突然冷ややかな女性の声がして、二人はそちらを振り返る。
玉座の斜め後ろの壁に作られた抜け道からそっと顔を覗かせているのは、長いストレートの黒髪に爽やかな青色の瞳を持つ女性――この国の王妃、セリーナ・レヴァインだ。
なぜ抜け道から、とギルバートは不思議に思ったが、考えている場合ではない。人払いのされた玉座の間でエリオットがギルバートの頬に手を添えていたのだ。
エリオットに憧れていたセリーナにとって、無理やり婚姻を迫った自分が彼に労わられる姿など限界を超えるほど不快に違いない。現にゴミ虫を見るような目でこちらを睨みつけている。
「そうですか…わかりました、アーチャー公爵。」
「セリーナ、待て。俺はただギルに治癒を…」
パシン。
閉じた扇子を己の手で受け止め、セリーナは眉を顰めたまま隠し通路の奥へツツツと後ずさった。瞳の青色がほの暗い海の底のように見えてくる。
「わたくしにも、考えが、ございます。」
「待てと言ってるだろう!閉じるな!おいッ…」
エリオットが駆け寄るより早く通路はピタリと閉じてしまった。ギルバートがその場にガクリと崩れ落ちる。
「また嫌われてしまった…早く説明に行ってやれ、エリオット。」
「なぜ俺なんだ、お前が行くべきだろうが。」
「何ならそのまま二人で茶でも楽しんでくればいい…」
「惚気を聞くだけだから嫌だ。お前は本当にセリーナが絡むとポンコツだな。」
「訂正しろ、俺はいつもポンコツだ。あぁどうせ平凡で何の才能も無い愚図が血筋だけで王になっ」
「失言は詫びるから元に戻れ!」
床にだらりと寝転がり始めたギルバートを無理矢理玉座に座らせ、エリオットは白いマントについた僅かな埃を掃ってやり、肩をぐっと掴む。
「いいか…セリーナは自分もお前と仲良くしたいのにズルイ、という意味で、俺に、怒りの視線を向けていた。わかるか?」
「エリオット……お前こそセリーナが絡むと、極端に前向きな意見を伝えてくるよな。俺の片思い当時からずっと気を遣わせて申し訳ないくらいだ、本当に。」
「いい加減にしてくれ、俺はあと何年お前達のすれ違いに付き合わないといけないんだ。」
「優しい嘘は時に人を傷つける。」
「それらしい事を言うんじゃない!!」
ガクガクと身体を揺すられながらギルバートは深々とため息を吐いた。
唯一の王子からのプロポーズなど、貴族の令嬢がどうして断れるだろう。
初めて出会った時から夫婦の営みにたどり着く頃まで、それこそ何十回気絶されたかわからない。体に影響が出るほど強い嫌悪感を抱かれてしまっているのだ。行事の時はにこやかに隣に立っていてくれるものの、プライベートで微笑んでくれた事など片手で数えられる程度しかない。
幸いなのは彼女が生まれた子供達を愛してくれているらしい事だが、それもギルバートが見に行くと顔を顰めて去ってしまうので、妻子揃っている姿もなかなか見られない。
「アベルを親善試合に出さなきゃいけない事も、伝えないといけないよな……。」
「それは…そうだな。黙って出すのはマズいだろう。」
ギルバートを揺するのをやめ、エリオットが腕組みをして答える。心配からまた過呼吸を起こすか気絶するか、どちらにしろ何か負担はかかるだろう。
「俺は子供を守ってやる事もできない、最低な夫だ……。」
「おい、あと何分で元に戻れる?会議があるんだが。」
「一分待ってくれ。割り切るから」
「わかった。頑張れ」
国王になってもあまり変わらない親友の肩を叩いて、エリオットは短く息を吐いた。




