115.ヘデラ王国第二王子
「えぇっ!?駄目なのですか、どうして……!」
懇願するように灰色の瞳を潤ませ、ジェニーは兄であるチェスターを上目遣いで見つめた。緩やかにウェーブした赤茶色の長髪は、いつも通り兄妹お揃いに編み込みを作り、今日はハーフアップにまとめている。
妹のお願いに応えたい気持ちをグッと堪え、チェスターは苦笑いで目をそらした。
「だ、だから…今回は母上の故郷、コクリコ王国のお姫様も来るから、俺はその対応を任されてるんだよ。」
「二人にとっては従姉だものね。」
シャロンが微笑んで言うと、チェスターは「そういうこと」と頷いた。
オークス公爵夫人であるビビアナは、当時の第三王女。現国王の妹にあたる人なのだ。加えてコクリコ王国は公用語が独自のものであるため、血の繋がりも家格も年齢も言語も全てクリアしたチェスターは最適な人材だった。
「親戚と言っても今回が初対面だけどね~。」
「でもお兄様、少しだけでも抜け出せないのですか。お姉様とお祭りを見ていらしたらいいのに。」
拗ねたようにもくもくとサンドイッチを齧り、ジェニーが頬を膨らませる。
今日はオークス公爵邸の庭で木陰にテーブルを置いてランチをしていた。まだ走れはしないものの、ジェニーは歩行に問題がなく、できるだけ外の空気を吸うようにしているという。
ただ混雑する場所に出かけるにはまだ不安があるため、女神祭は屋敷で過ごす予定だ。
「従者としての公務だし、ちょっと無理かなぁ。」
「ちょっとどころではなく無理でしょう。」
眉間に深く皺を刻んだまま、サディアスが言い放った。
紺色の短いストレートヘアに水色の瞳、黒縁眼鏡を不機嫌に押し上げる姿はシャロンにとっても見慣れたものである。ジェニーが軽く首を横に振った。
「そう意地悪をおっしゃらないでください、サディアス様。お姉様がエスコートもなしに出歩かれるなんて、わたくし不安でならないのです。」
「別に、意地悪を言っているわけではありません。事実です。……そもそもなぜ私はここに連れてこられたんですか。《重要な打ち合わせ》とやらはどうしたんです、チェスター。」
「え~?だってサディアス君、うちでランチしよって言っても来てくれないでしょ。」
「帰ります。」
「まあまあ。」
すぐに立ち上がるサディアスをチェスターが宥め、肩に手を置いてやや強引に席に着かせる。渋い顔をしながらも居てくれる様子のサディアスに、シャロンもついくすりと微笑んだ。
「ふふ、大丈夫よ、ジェニー。護衛もいるし、頼もしい弟も一緒だから。何かお祭りの品物を買って、ここへ寄れたらよかったのだけれど。」
「流石に控えるべきですね。本気で噂が回りますよ」
「そうなのよね…。」
サディアスに言われ、シャロンは顎に人差し指をあてて頷く。
屋敷にジェニーしかいないとはいえ、女神祭の期間に他家を訪問する事は今後の婚約を匂わせるようなものだ。砂糖を入れて甘くした紅茶をこくりと飲んで、ジェニーは眉尻を下げた。
「サディアス様…無理だの控えるべきだのと、そんなに否定なさらなくても。」
「……親切心です。」
かちゃりと眼鏡を指で押し上げ、サディアスはきっぱりと言う。ぷくっと頬を膨らませるジェニーの頭を撫で、チェスターが「そういえば」と話を変えた。
「サディアス君はソレイユの王子様担当だったね。俺あそこは発音が厄介でカタコトしか無理なんだ、聞き取りは辛うじてできるけど。期間中は完璧任せっきりになっちゃうと思う。」
「ウィルフレッド様とアベル様は問題ないですから、どうとでもなります。シャロン様、‘ 貴女も話せますね?夜会に来るのでしょう。 ’」
「‘ たぶん問題ないわ。日常会話程度であればね。 ’」
「う~ん、二人共よくキレーに喋れるねぇ。舌疲れない?」
チェスターが頬杖をついて言う横で、ジェニーも驚いたようにシャロンとサディアスを見つめている。元気になってから座学の授業が再開されたが、兄と同じようにソレイユの発音は苦手だった。
「最初は大変だったけれど、ゆっくり発音して、そこから早くするやり方でなんとかしたわ。」
「流石ですわ、お姉様。わたくしも頑張らなくては…。お兄様、担当という事は、期間中はお一人ずつずっと付きっきりなのですか?」
「ずっとではないんだけど、日中に城や貴族街の案内する時とかは大体一緒かな。大変なのはアベル様達だよ。どっちも厄介な相手だから。」
それを聞いて、シャロンの頭に名前が浮かぶ。
帝国の定期訪問の一団にいる予定の第一皇子、ジークハルトだ。もう一人やってくる同年代の王子は、特に妙な噂は聞いた事がない。何かあるのだろうか。聞いてみようと、シャロンは紅茶のカップを置いて口を開いた。
「ヘデラ王国の第二王子といえば、ナルシス殿下…だったかしら。厄介なの?」
「あー、シャロンちゃん、前に俺達が四人で君の家に行ったの覚えてる?」
「四人で…えぇ、ちょっと大変な面談があった日、よね。」
「…その日にお会いしたのは、ヘデラ王国の第一王女殿下です。」
「えっ!」
シャロンは思わず声を漏らし、口元を手で押さえた。
当時ぐったりした様子でやってきた四人は、確か「香水をつけすぎた人」に会い、食欲さえ失せた茶会だったと言っていたのだ。それがまさか隣国の王女殿下だったとは。
「君が公爵家だから言うけど、今回ロベリア王国の王子が欠席の理由、その王女殿下と揉めたからなんだよね~。彼女の兄であるナルシス殿下とも会う気がない、って感じで。」
「そ、そんな事になっているのね……。」
唖然とした様子で呟くシャロンは、もう一つ別の意味で驚いていた。
ヘデラ王国の第一王女といえば、ロズリーヌ殿下。
彼女はゲームの学園編で留学生として登場するのだが、庶民の出でありながら王家や貴族と親しいカレンをよく思わず、意地悪を仕掛けてくるキャラクターだ。元はロベリア王国へ留学予定だったが、視察で無礼を働いた結果、ツイーディア王国へ留学する。そんな流れだった。
――ゲームのシナリオ通りに、動いているのね。
こくりと喉を鳴らして、シャロンは困り顔で話を続けるチェスターを、その隣で上品に口元をハンカチで拭うジェニーを見る。
シナリオは変えられるけれど、関与していないところではやっぱり、ゲームの通りに事が進んでいるのだ。
「それで、アベル様はもちろん、アクレイギアのジークハルト殿下担当。う~ん、今から想像しても恐ろしいよねぇ。うちの王子様と、帝国の暴虐皇子のコンビ……。」
チェスターは苦い笑みを浮かべつつ、視線を空中に上げた。
帝国では強さこそ正義。
皇族に逆らえば即刻首を刎ねられ、城の窓から外に放り捨てられ、現在の第一皇子は歴代の中でも特に好戦的で、強者と見れば誰であろうとすぐに襲いかかるという。ただの噂かもしれないけれど。
「現在の我が国で彼を任せられるのは、同年代ではアベル様だけでしょう。」
「うん、それは間違いなくそう。五百パーセントそうだね。」
「年齢を外せば、公爵や騎士団長、副団長くらいでしょうか。……帝国の将軍は、何名か第一皇子の手で命を落としたと聞きます。」
「ひっ…」
ジェニーがびくりと肩を縮め、目を見開いて青ざめる。チェスターが慌てて笑顔を作り、ゆっくりと安心させるように妹の頭を撫でた。
「ごめん、怖い話だった。言い出した俺が悪いね。安心して、ジェニー。何も起きないから。」
「だ、大丈夫ですわ、お兄様。公爵家の、軍務大臣の娘ですもの、このくらい平気です。」
「………。」
気まずそうに視線を彷徨わせるサディアスに、シャロンはそっと「元気出して」と小さく拳を握ってみせた。彼は真剣にチェスターと話していただけなので、悪気はない。どんまいである。
夜空を彩る魔法のショーの話に切り替え、四人は穏やかにランチを終えた。
遠くから双眼鏡でそれを眺める人物がいた事には、気付かないまま。
◇ ◇ ◇
「ふぬぅうーーーーーーッ!!!」
ポニーテールに結ったプラチナブロンドの長髪が、緩やかな縦ロールを描いて顔の横に垂れている。
髪の量が多かったのでだいぶすいてもらったのだけれど、ポヨポヨと頬にくっついて大変に鬱陶しいですわ!でもこれ以上切るとお父様やお兄様達がうるさいからできないのです!
「ひぃ、ひぃ、ふぬぅううーーー!!ど、どうですの、ラウル!?」
「殿下。恐れながら、一回と言える程もいっておりません。」
「厳しいですわそんな…あぁっ!!」
懸命にプルプルと堪えていた二の腕が悲鳴を上げ、わたくしはボフリと柔らかマットレスに伏せた。横を向いて息をしていると、ぐにゃりと潰された頬のせいかくひゅーくひゅーと淑女にあるまじき音が出てしまっている。ぐぅう。悔しくて呻いたかと思ったらお腹の音でしたわ。
このロズリーヌ・ゾエ・バルニエ、まさかたった一回の腕立て伏せもできないとは。
……いえ、ラウルの判定が厳し過ぎるのでは?わたくし、実はもう二百回くらいやったのではないかしら?二の腕もだいぶスリムに…あら、なんてムチムチとしたお肉。
「うぅ、こんなお肉であの方の視界に入るなどとても…!頑張るのです、ロズリーヌ!目指すは健康的美女!!」
「頑張ってください、殿下。」
「目の前でお菓子を食べるんじゃありませんッ!!」
「そうした方が悔しさでやる気が出ると、半月前におっしゃられました。」
「くぅううッ!!」
サクサクとビスケットを頬張る従者を横目に、わたくしは涙を流しながら重たい身体を起こ…起こ、重いッ!
ですが香水の適量を知って激臭は無くなり、生え放題だった眉も細く整え、侍女に任せられないなどとほざいていたお化粧もお任せする事で、わたくしそれなりに見れるモノにはなりました。あとは汗をかきがちなこの身体を絞り姿勢を整えてこそ、あの方の視界の隅にうっかり入っても許される権利が……!
バンッ
「ロズリーヌ!」
「いやーっ!ラウル!その悪魔を追い出して頂戴!!」
「すみません、無理です。」
「薄情者ーーッ!!」
声を聞いた途端に拒否したものの、やっぱりお兄様が相手ではラウルに追い出せというのは無理がありましたわ。それでもちょっとはやる気を見せてほしかったのだけれど。
カツカツと靴音が響いてくる後ろから、ガラガラと嫌な音がする。顔を上げると、わたくしと同じプラチナブロンドの髪を肩につく長さで整え、後ろでちょこんと尻尾のように縛ったこの国の第二王子、中性的な麗しい顔立ちのナルシスお兄様がわたくしの肩をがっしりと掴んだ。
「またそんなに苦しんでいるのかい!?お腹が空いたら食べないと駄目だと言ってるだろう!」
「お兄様!わたくしダイエット中だとお伝えしているではありませんか!」
「育ち盛りにそんな事は必要ないとも。さ、お前の好きな牛肉の脂身たっぷりのオムライスと、ドーナツアイスと、フライドポテトのチーズフォンデュとエビドリア…」
「ラウル!今すぐ逃げますわよ!ラウル―ッ!!」
「承知致しました。」
料理の香りを吸い込まないよう鼻をつまんだわたくしを、ラウルが米俵のように担いで走り出す。……そこはお姫様抱っこではなくて!?わたくし正真正銘の姫ですわよ!?不敬ッ!!
「妹よーッ!ツイーディアの悪魔共にはよく言っておくから、早くご飯を食べておくれーーー!!」
「殿下達は関係ないと言ってるでしょーーー!!!」
「ロズリーヌゥーー!!」
「お兄様の馬鹿ーー!!」
大声で応酬しながら廊下を駆けるわたくし達を、通りすがりの使用人が「まただわ」という目で見ている。重いわたくしを抱えてお兄様を引き離せるのだから、ラウルは優秀な従者だわ。最近とみに遠慮がなさすぎるけれど。
「そういえば殿下、報告が届いてましたよ。」
「えっ!本当ですの?どうだったかしら、ジェニー・オークス様のご容態は?」
「すっかり回復されてるそうです。庭で元気に食事を摂られていたとか。」
「そうよね、庭で元気に……って、えぇぇぇええええ!!?」
「殿下、俺の鼓膜がやばいです。」
ジェニーが回復…とは!?
それって、ゲームシナリオとまったく違うじゃない!
混乱するわたくしに共感を示すかのように、お腹が大きく鳴り響いた。




