114.ぼくにはなにかたりない ◆
『お久し振りですね、ウェイバリーさん。』
甘いスポンジケーキを咀嚼しながら、画家――ガブリエル・ウェイバリーは声のした方を見た。
部屋の入口に立っているのは、二十歳を目前にした年頃だろう淑女だ。
艶やかな薄紫の長髪、同じ色の瞳に柔らかな笑顔。以前知り合った少女と面影が完璧に重なっている。紅茶を啜ってケーキを喉の奥へと流し込み、ぺろりと唇を舐めた。
『シャロン、ボクの事はギャビーと呼んでくれ。忘れてしまったのかい?』
『いいえ。ただ久し振りだから、そうお呼びしてもいいのか迷ってしまいました。』
『たった数年じゃないか。』
『何年も、ですよ。以前お会いしたのは、私がまだ子供の頃でした。』
十年まではいきませんがと、シャロン・アーチャー公爵令嬢は苦笑する。
もう三十代になっているだろうギャビーの肌艶に衰えはなく、エメラルドグリーンの長髪にはしるいくつものピンクメッシュも、それを雑な太い三つ編みにしているのも、嘘偽りのない青緑の瞳も何もかも変わらなかった。
城の応接室だと言うのに、食べこぼしをそのままにしているのも彼らしい。
後で侍女達が顔を顰めるだろうと思いながら、シャロンは扉を少し開けたままにしてギャビーの向かいに座った。
『旅はいかがでしたか?』
『それはもう、楽しかった!新しい発見が多くてテンション上がっちゃってさぁ!キャンバスが足りなくて壁に描いたら怒られたりして…あぁ、学園の女神像の事、ありがとうね。』
『いえ、お役に立てたならそれで。』
『立てたとも、ボクは在学中には気付かなかった。勿体ない事したなぁ。やっぱりどこへ行っても冒険心っていうのかな、あちこち探してみるのが大事だよね。あの春に君達と行った時もそうだったけれど。』
『――…えぇ。』
どうしてかシャロンは、思い出話に眉尻を下げた。
それはほんの僅かだったが、ギャビーにとっては目に見えてあからさまな変化だった。瞬きをして、そういえばと話を切り出す。
『さっき、第二王子にも会ってきたよ。』
『…懐かしい呼び名ですね。彼はもう皇帝陛下ですから。』
『そうみたいだねぇ。やっほーって言ったら騎士に取り押さえられそうになった。不敬だとか言って、皆顔が真っ青でね。絵の具でも飲んだのかな?体によくないからやめた方がいいとボクは思う。』
『ふふ。』
くすりと笑うシャロンの顔を見つめながら、ギャビーはケーキの残りにフォークを突き立てる。
『責められてたよ。君を皇妃にするべきだって。』
『……そう、ですか。』
ギャビーの視線から目をそらし、シャロンは口角を僅かに上げる。平気だと示すように。苦しい笑顔だった。
『彼、断ったでしょう。』
『うん。君を妃にする事はありえないんだってさ。』
膝の上で揃えた手が軽く握られ、長い睫毛がアメジストの瞳に作る影を深める。ギャビーは不思議そうな顔でそれを眺め、口に入れたケーキをもごもごと咀嚼した。
『皆、んん、色々言っていたけどね。たとえば…』
紅茶をごくりと飲み込んで、ギャビーは握ったままだったフォークを皿に放り、ソファの背もたれに身を預ける。部屋の壁を見ながら記憶のままに声を発した。
『家格も、人柄も能力も問題ないのに、なぜですか。陛下はご自分の立場がわかっておられない、妻を持ち子を成すのも役目です。彼女では駄目だと言うならお探しください。その気がないならせめて、夜会で毎度始めに踊るのはおやめに。それでは彼女が夫を得られない、あまりに可哀想です。まるで飼い殺しのような――』
『やめてください。』
鋭い声は震えていて、まるで泣いているようだ。ギャビーはぱくんと口を閉じ、シャロンを見る。彼女は涙を流してなどいなかった。睨むわけでもなく、ただ少し何かを堪えるように眉尻を下げて、こちらを見つめている。
数秒待ったけれど、シャロンはそれ以上言葉を発しなかった。ゆったりと瞬きをして、ギャビーは軽く勢いをつけて立ち上がる。
『ねぇ、シャロン。ボクは今でもはっきり覚えてるよ。君達が笑いあってる姿をさ。』
『……っ。』
ローテーブルに片手をつき、シャロンの方へと身を乗り出す。僅かに目を見開いた彼女は、無意識にかブラウスの胸元を軽く握りしめた。その手の甲に人差し指をトンと置いて、ギャビーは首を傾げる。
『あの花はもう、枯れてしまったのかな。』
薄紫の瞳から溢れた涙が頬を伝い、シャロンの手にぽたりと落ちた。
◇ ◇ ◇
「えっ!駄目なの?どうして…」
ぴしゃん!と背景に雷が降った心地で、私はよろよろと椅子の背もたれに寄りかかる。
正直断られる可能性はゼロパーセントに近いとすら思っていた。一足先に席についていたクリスも悲しげに口を開けてレオを見つめている。晴れた空に浮かぶ太陽はぽかぽかと庭を照らしているけれど、私達姉弟の心は雨模様だ。
汗ばんだこげ茶色の髪を掻き上げて、レオは外していたバンダナをぐいとつけ直す。
「女神祭なぁ、わりーんだけど弟達の面倒も見ないといけないから。」
「そ、それじゃあ皆一緒に…」
「下町とじゃ物の値段が違うだろ?友達に集るようなマネしたくないんだよ。」
「うぅう……。」
私が下町に行ければよかったのに。
内心ハンカチを噛みしめる心地でメリルを振り返ったけれど、「駄目ですよ」と言わんばかりのひんやりした目で見返されるだけだった。くぅ!
「そしたら、カレンにも声をかけてみるわね。」
「あー…アイツ、その、親御さんと一緒に下町で露店出すみたいだから…」
「そんな!」
がっくり項垂れるけれど、カレンの家にとっては大事な収入源である。邪魔をしてはいけない。
私は唇をそっと噛んでクリスの柔らかい銀髪を撫で、心を落ち着かせた。同じ色の瞳がこちらを見上げて首を傾げている。そういえばカレンとクリスは会った事がないのだったわ。
「今年はよそのお偉いさんがいっぱい来るんだろ。シャロンは声かかってないのか?」
席に着いて、自分のお皿にざらざらとクッキーを取り分けながらレオが聞く。私は紅茶のカップに指をかけ、一口飲んでから答えた。
「三日目…最終日の舞踏会には出席するわ。私達と同年代の方々がいらっしゃるから。」
「同年代って事は、王子とか姫様?」
「えぇ。特にジークハルト第一皇子殿下には、失礼のないようにしなくては。」
少し緊張しながらその名を口に出すと、レオがクッキーを齧りながら琥珀色の瞳で見つめ返してきた。たぶん知らないのだろう。思わずくすりと微笑んでしまう。
「アクレイギア帝国の方よ。」
「帝国の!?あーそっか、今年五年に一度のなんとやらか。」
「定期訪問の年ね。」
アクレイギア帝国とこの国とは、同盟を結べていない。
昔に起きた戦争で勝ったのはツイーディア王国の方らしいけれど、結果は休戦協定に留まった。それ以来五年に一度、帝国の上層部が訪れている。そこで隙を見せればまた戦争が始まるのではないか。定期訪問の度に、この国は少し緊張に包まれるのだ。
ツイーディア王国の隣国は六つ。
自由と音楽を愛する歌と楽器の国、ヘデラ王国。
愛あれば死あり。織物と情熱的な舞踊の国、ソレイユ王国。
永遠の宝物庫と呼ばれる貴石の国、コクリコ王国。
死者に通じるという神秘の国、君影国。
知識とは人類の宝。薬学と絡繰りのロベリア王国。
そして、強さこそ正義。戦争の国、アクレイギア帝国。
前世でプレイしたゲームに「帝国」だけは登場する。アクレイギアという名前は無かったはずだけれど、ウィルのルートでのラスボスはまさに、攻め込んできた帝国の皇帝、ジークハルトだった。
襟足だけ腰まで伸ばして一つに括った朱色の髪に、珍しい白の瞳。「弟の方が気に入っていた」というセリフがある彼は、アベルが皇帝となるルートではその通りに姿を現さない。
ちなみに、帝国と隣国、その単語の違いを考えると、私の嫁ぎ先は帝国以外のどこかだったという事になる…はずだ。アクレイギア帝国も、隣の国ではあるけれど。
「帝国って、国内でも戦争しっぱなしのヤバイとこなんだろ。大丈夫なのか?」
「確かに最も内紛の多い国と言われているわね。」
ツイーディア王国と休戦協定を結んでいる以上は、その同盟国であるヘデラ、ロベリア、コクリコ、ソレイユにも下手に手出しはできない。君影国は国境を濃い霧に覆われた山間部で、そう簡単に侵略できる土地ではない上に、奪ってもあまり旨みがない。
それ故にかの国は更に外周に位置する国々と絶えず小競り合いを起こし、強さを第一とするがために国内でも常に激しい派閥争いが行われている。
皇位継承も、皇帝が自ら退位するかもしくは「皇帝の首を獲ったら」という過激さだ。
「休戦協定は続くから大丈夫よ、心配しないで。」
ゲームで言う学園編にすら突入していないのだ、そこはまず間違いない。私が意識して明るく微笑むと、レオは「そっか」と笑い返してくれた。
「クリスは最近どうだ?魔法の練習頑張ってんのか。」
「うん!もうちょっとでぺかーってなるんだけど、なんかたりないみたいなの。」
「足りない?」
レオが聞き返すと、クリスはこっくり頷く。
「なんか、たぶんたりなくて、ぺかーってならない。みててね!」
ぴょんと庭に降りたって、クリスはティーテーブルから少し離れたところでぐっと眉に力を込める。なんて凛々しい表情!可愛らしさが爆発しているわ。
「せんげん!ひかり…ひ?みずよ、ぼくをおうじさまくらい!つよくして!!」
ひゅう、と、爽やかな秋風が通った。クリスは首を傾げながら席に戻ってくる。
「こんなかんじなの。」
「何が足りないのかわかるといいのだけれど…。姉上も考えてみるわね。」
「他に突っ込むところがあるんじゃないか…?ま、まぁ、わかるぜ。第二王子殿下、だろ?」
「うん!」
クリスがぱぁっと笑顔になって頷く。まるで下界に舞い降りた天使。姉上が亡くなる時は是非導いてほしい、なんて縁起でもないわね。
「いままでみたなかで、おうじさまがいちばんつよいから!」
「俺とやった時な~。後半は攻撃もしてもらったけど、動きに全然ついていけなかったもんな。」
「すごかった!だからぼく、まほうでおうじさまになって、あねうえをまもるの。」
「クリス…!」
にこにこして私を見つめる弟が可愛い。涙が出てしまいそう。まだ五歳なのにこんなにも立派だなんて、将来はお父様にも負けない素晴らしい公爵閣下になるわね。
「ぼく、おうじさまのことちゃんとみてたのに、なにがたりないのかなぁ。」
愛くるしく輝く瞳を空に向けて、クリスは不思議そうに呟いていた。
アクレイギア、誤読されてる方の資料を参照してしまったようで
本来はアクイレギア(Aquilegia)らしいのですが、
それを知ったのが初出から一年以上経ってからだったため
直さずそのまま走っております。




