111.貴方は私を選ばない
風の魔法で自分を浮かすには、まず先に「物を浮かす」感覚を掴むこと。
どう力を使えば物体は浮くのか、それを知らずに自分を浮かす事はできないとサディアスは言った。
『風の魔法は基本が風を吹かせる事であり、上級では風を刃として打ち出します。ただ、風を発生させると思うのではなく、魔力によって《空気》を動かした結果、《風》が生み出されている……その考え方も大切だと私は思います。特に、浮遊に関しては。』
感覚派のダンは『適当にやりゃできるだろ』しか言わないので全く参考にならず、お父様はお忙しくて教えを乞うのも憚られる。
あの日サディアスに相談できたお陰で、私は自力で頑張っていた時よりも遥かに楽に風の魔法を使えるようになっていた。
ただ、自分を浮かすのはまだ苦手。
魔力すら込めずにジャンプした方がよほど高く跳べる。
「それにしても、なかなか筋肉がつかないわね…。」
屋敷外周のランニングを終えて自分の手足を触ってみるけれど、相変わらず柔らかい。二の腕にグッと力を込めてもあまり盛り上がりもない。無意識に魔力を使って楽をしてしまわないよう、気を付けているつもりなのだけれど。
ふうと息を吐いて汗を拭った私を、メリルがタオルを差し出しながら目を細めてじっとりと見ている。前世で見たチベットスナギツネの写真にそっくりだわ。
「どうしたの、メリル?チベ…そんな顔をして。」
「どうしたもこうしたもありません、シャロン様。崖から落ちるなどという経験をなさったのですから、もっとこう…控えめになさるかと思っておりました。」
「もう少し足腰を鍛えておけば、崖に行く前にナディア様に追いつけたと思うの。」
「……シャロン様……。」
メリルは声には出さず長い長いため息を吐いて、両手で顔を覆ってしまった。我が家が騎士の家系だったなら、こう嘆かれる事もなかったかしら。
魔力による身体強化を使う私にとって、身体が元から強いに越した事はない。
消費する魔力を押さえられるし、アベルが言っていた、目標とする力と元との差で起きる反動も減らせるはずだ。魔獣が出たからには、いずれ自分の許容量以上の力が必要になる時もあるだろう。
『…何かあれば絶対に起こせ。一人でやろうとするな』
狩猟の日、魔力の尽きた私にできる事は少なかった。
傍にいて身体を支える事しか、少しの間代わりに周囲を警戒する事しか。幸いにもオオカミが出たりはしなかったけれど、もし来ていたら私のナイフはきちんと届いたのだろうか。
…何もかも、私はまだ足りていない。
「次にあんな事があったら、私がアベルを担いで崖を上がれるくらいでなくては。」
「ものすごく嫌がられそうですね…。」
「えっ、そうかしら?」
メリルに言われて想像してみると、確かに大人しく「じゃあよろしく」とは言ってくれない気がする。眉を顰めて口元を苦くひきつらせた顔がすぐに浮かんできた。
問答無用で助けさせて頂くけれど。
「相手は王子殿下で、それもあれだけ堂々と振舞われている方ですよ。実力が伴っている分、プライドがバチバチにお高いに決まっています。ここはお淑やかに、治癒の魔法で治して差し上げる、くらいがよろしいかと。」
「それもそうね…ただ、治癒は練習が」
「ご自分を傷つけるのは絶対にナシですからね、よろしいですか?」
「わ、分かっているわ。」
アベルといいメリルといい、そんなに私は自分を練習台にしそうかしら。思わず眉が下がってしまう。
彼の傷を治した時には副作用がなくセンスが良いと言ってもらえたから、元からそれなりに使えるはずだけれど……やはり練習はしておきたい。
そういえばアベルが指を切った時は、私ったら混乱して口に含んでしまったのよね。
申し訳ない事をしたと思うものの、アベルがあんなに驚いたところなんてなかなか見ないから、とても新鮮だった。
「シャロン様?ほんのり微笑まれていないで、湯浴みとお召し換えを。」
授業に間に合わせましょうと言うメリルに返事をして、私は屋敷の中へ戻る。
あくまで淑女教育の授業をきちんと修めるからこそ、鍛錬の時間を許されているのだ。
公爵家の娘として、基本的な礼儀作法からダンス、刺繍、女神様の伝説を含む国の歴史や地理、語学に周辺各国のマナー…覚える事は沢山ある。
ただその授業の中に「学園で学べるものであり、教育上必須ではないもの」――つまり、魔法や剣術は入っていない。
貴族の子供達は基本的に全員王立学園に入るから、そこで基礎だけ学べばそれでよい。
サディアスやチェスターが事前に学んでいるのは、王子の従者は護衛でもあるから。ウィルとアベルは王族だから、当然「基礎だけでいい」には入らない。
貴族の中で、特に令嬢で入学前から魔法と剣術の両方に手を出しているのは、騎士の家系を除けば私くらいだろう。
「……そういえば、前にチェスターが不思議な事を言っていたわ。」
湯浴みを終え、ドレスに着替えさせられながらぽつりと呟いた。
リボンを手早く結んでいきながら、メリルが「不思議な事ですか」と相槌を打ってくれる。
「えぇ…王妃教育を受けているでしょう、と。」
メリルの手が、さっきまで着ていた服を片してくれていた侍女達が、一瞬ぴたりと止まった。あら?と思って彼女達を振り返った時には、何事もなかったかのようにテキパキと動いている。
首を傾げた私の頭をそっと両手で元に戻して、メリルは椅子に座るよう促した。
「髪をまとめていきますね。」
「えぇ…。コクリコやソレイユの言葉を話せるのはなぜかと聞かれたのだけれど、お母様が勧めてくださっただけだもの。王妃教育は受けていないわよね。」
「旦那様からも奥様からも、シャロン様を王妃にしたいという話は伺っておりませんね。」
「そうよね、私も聞いた事がないわ。」
チェスターが誰から聞いたのかはわからないけれど、きっと「公爵家の娘だから次期王妃候補だろう」みたいな話から出てきたものだと思う。特に、これまではジェニーが伏せっていたから。
前世の感覚で言うと、結婚の噂をするには随分と気が早い。私達はまだ十二歳なのに。しかし貴族社会ではそう珍しくもない。同年代で既に婚約者がいる令嬢も何人か知っている。
――でも、私に婚約者ができるのは卒業後の《未来編》。隣国に住まう誰か。
「……お父様やお母様のように、愛する人と結婚できたら良いのだけれど。」
贅沢な願いだ。
貴族の子供達の中には、自分で相手を選べない子なんて沢山いる。私はたまたま両親が恋愛結婚だったから、自分も許されるだろう可能性が高いだけ。
それでも、たとえば「国同士の友好の証にどうしても」という話が出れば仕方ない。
この国に姫はいないのだから。
「結婚してから育む愛、というものもあると聞きますよ。」
私の髪を丁寧に梳きながら、メリルが穏やかな声で言う。
「今は良きお友達かもしれませんが、結ばれたら今とはまた違う関係を築けます。」
ウィル達が、サブキャラである私を選ぶ事は無いんじゃないかしら……と言う事もできないので、私は曖昧に笑った。
同じサブキャラでも、死ぬまで攻略対象の誰ともフラグの立たなかった私より、ゲームシナリオでは不在だったジェニーの方がよほど可能性があると思う。
『僕は妃を迎えるつもりはない。』
アベルに至っては、そう断言しているし。
それを捻じ曲げる事ができるのは、好感度を百パーセント埋めたヒロインだけだ。少なくとも私ではありえない。筆頭公爵家の令嬢だなんて言われたって…
――アベル皇帝陛下が私を選んだ事は、一度もないのだから。
「どなたか、女神祭をご一緒されたりはしないのですか?」
メリルに聞かれて、いつの間にか少し下がっていた視線を前に戻した。
女神祭は毎年冬の初めに行われる三日間のお祭りだ。街中が飾り付けられて露店も沢山出て、屋敷でもご馳走が作られる。
国王夫妻の乗った馬車が貴族街まで降りてくるパレードが行われたり、あとは夜空を彩る魔法のショーを恋人と眺めるのが定番らしい。
「皆忙しいのではないかしら、今年は来賓が多いと聞いたわ。」
「帝国の五年に一度の訪問がかぶりましたからね。」
「…レオとカレンのところに」
「下町は駄目です。」
言い終える前から否定されてしまった。
鏡越しにメリルのオレンジ色の瞳を見つめると、ぎゅっと目を瞑られる。
「そんなお顔をなさっても駄目です!シャロン様ときたら、すぐトラブルに巻き込まれるのですから!治安の悪い下町なんてとても行かせられません。」
「今年も、街を少し見るだけ?来年は学園に行くのだし、少しはゆっくり回りたいわ。できればクリスも一緒に連れて行きたいし…。」
去年までは小さいから一緒に行けないという事で、私一人だけメリルと護衛を連れて出かけていた。お父様とお母様は街に行くどころではないから。
下町が駄目なら、カレン達を貴族街の方に連れて行って一緒に回るのも良いと思う。レオに予定を聞いてみましょう。
オークションといい狩猟といい、最近トラブルに巻き込まれているのは確かだから、屋敷の皆に内緒で下町に行くのは流石に自重して。
「旦那様と奥様の許可次第ですね。それより最終日の夜会で、どなたかとお約束があったりしませんか?」
「しないわ。」
すっぱり言いきると、メリルがしょぼんと眉尻を下げた。
一日目はパレード、二日目は王妃殿下主催の茶会、三日目には夜会が開かれる。私は今年初めてその夜会に出席するようお父様から言いつけられた。何でも国王陛下と王妃殿下からの打診で、断れなかったらしい。
今回の来賓の方々はウィル達と、つまりは私とも年齢が近い方が来られるようだから、その話し相手になればという事なのだろうと思う。
「終わりましたよ…。」
しゅんとした表情のまま、メリルが私の髪から手を離す。編み込みを花のピンでいくつか留めたシニヨンにまとまっている。
お礼を言って立ち上がると、ちょうど部屋の扉がノックされた。ランドルフの落ち着いた声がする。
「シャロン様、第一王子殿下から早馬で文が。」
「ウィルから?…どうぞ、入って。」
何かあったのかしらと不安になりながら許可すると、一礼して入室したランドルフが封筒をトレイに乗せて差し出した。見覚えのある美しい字で私へと宛名が書かれている。
裏返せば、国花と星、コンパスローズが描かれた青い封蝋――間違いなく、ウィルからの手紙だ。私は机に封筒を置き、急く心を抑えてペーパーナイフを滑らせる。中身は便箋一枚だけだった。
「……殿下は、なんと?」
そわそわしているのを隠しきれない様子で、メリルが聞く。
私は予想外の内容に驚いていたけれど、ありがたい話にすぐ返事を書く事にした。レターセットを取り出し、インク瓶の蓋を開ける。
「狩猟の日に守ってくださった騎士様への感謝という名目で、騎士団本部で軽傷の治癒を手伝わないかというお誘いよ。」




